家族の団欒
隣県でのロズィス・ルーフとの遭遇から数日。
ユッチはノートパソコンのキーボードをせわしなく叩き続けていた。ここは一般的な住宅のリビングで、パソコンは食卓に置かれている。
監視機構日本支部が第二遊撃班のために用意した、ごく標準的な一軒家だ。
彼の対面では茶髪ツーサイドアップの少女が座ってコーヒーを啜っているが、彼ら二人以外メンバーの姿が見えない。
「先輩、夕べからあんまり寝てないよね。なんかごめん、俺だけ爆睡しちゃったみたいで」
「ミュウ、何だその爆睡って。俺が日本の戸籍を持っていた頃は、そんな日本語なかったぞ」
ノートパソコンの画面だけを見てキーボードを打ち込み続けるユッチは、ミュウと目を合わせることもしない。
「熟睡よりもさらに深い眠りだよ。……みんな使ってた言葉だけどね」
「そういう時の『みんな』の範囲って、大概狭いものだろ」
「う……、うん」
ユッチの返しに、ミュウは思わず視線を下げて自分の手元を見る。
ツッキーのことを兵藤と呼んでいたあの頃。自分から誰かの肩を叩き、親しげに話しかけたことなど、ただの一度もなかった。
「狭いどころか、俺、人付き合い避けてたし……、?」
キーボードの音が止まる。音が止んだのに気付いたミュウが視線を上げると、真正面から覗き込むユッチと目が合った。
「ふむ。周囲に壁を作ってたのは俺も同じだ。家族はシシナだけ。ギファールに渡ったのも中学に上がる前だったし」
「先輩……」
「で、そのお前が今じゃすっかり家族だな」
片目を閉じながら言う。
「うーん。ウインクって意外と難しいな。ミュウみたいにはできそうにない」
「…………」
言葉で返事をしないかわりに、ミュウははにかんだ。
「ミュウ……。今でも親父さん、見るのも嫌か」
ユッチの言葉で瞬時に表情を凍り付かせたミュウだったが、一度目を閉じると穏やかに言う。
「酒とギャンブルに溺れ、お袋に逃げられ……。俺のバイト代を巻き上げるような親父だったけどね。不思議と恨みはないよ。ただ、逆に言えば、会いたいと思うほどの愛情もないんだ」
ユッチは視線をわずかに逸らし、無言で頷いた。
この仕事を始めるにあたり、こちら側の人間だったという過去を棄てた。それは強制したわけではない。ミュウ自身が選んだことだ。
再びキーボードを叩き始めるユッチに顔を向けず、ミュウは喋り続けた。
「あいつは。ツッキーは、いつも明るくて、誰にでも優しくて。きっと、家族に愛されているんだと思ってた。俺だけが、嫌なものを抱えていると思っていたんだ」
玄関の鍵が外から開けられる音が聞こえてきた。おそらく、ツッキーが帰ってきたのだろう。
キーボードを叩く手を休めず、ユッチが呟く。
「ところが家庭の状況は酷似。ツッキーの場合、家族はお袋さんだけ。ミュウの親父さんと違って、普段はメシもつくるし学校のことにも気を配るけど、波があったんだな。それも、半端じゃなくでっかい波が。ヒステリックにあたりちらされ、ツッキーに落ち度がなくてもぶたれる日もあったと聞いている」
「うん。その意味では、何事にも無関心だった俺の親父と較べて、さらに辛い日々だったんじゃないかと思う。なのにあいつ、そんなこと全然感じさせなくて。あの時も今も、あいつは大人で……。その背中を、俺はいまだに追いかけているんだ」
リビングの扉が開いた。黒髪の少女だ。
「それは違うよ、ミュウ。私、家には一歩も近付く気になれなくて」
やっぱり母の姿を見ないで戻ってきたと呟きつつ、ツッキーがリビングに入ってくる。
彼女は、かつての自宅付近まで出かけていたのだ。しかしどうやら、肉親の姿を遠巻きに見ることさえしなかったらしい。
ミュウは気遣わしげに声をかけた。
「ツッキーはそれでいいのか?」
「うん。正直なところ、私に向けて放った言葉や平手打ちの数々、たとえ謝罪されても素直に受け入れられる自信がない。あ、だからといって、別に恨んでいるわけじゃないのよ。母親に対する愛情が消え去ったわけではないの」
微笑むツッキーの表情からは、暗い影は窺えない。
「表札が別の名前になってた。母の旧姓じゃなかったから、引っ越したか、そうでないなら再婚した上で今もあの家に住んでいるか。あたしとしては、再婚してくれてた方がいい。それで、あたしのことなんてきっぱり忘れてもらって、前みたいなヒステリーが治まっているのなら」
そう言うと、視線をユッチに向ける。
「私たちが追う背中は、ここにあるから」
キーボードの音が止まった。ユッチが頓狂な声を出す。
「かー。痒い痒い。俺いまから風呂入るわ」
立ち上がったユッチはにやりと笑った。
「……もしよかったら、どっちか俺の背中流してくれる?」
「え、いいのっ!?」とミュウ。
「……ご一緒します」とツッキー。
ユッチの笑顔が凍り付き、滝の汗が流れ出す。
「あの。もしもし、お嬢様方。冗談だからね?」
「遠慮なさらなくてもいいのに」
「そうだぜ。……俺たちは家族だろっ?」
「チームの親文字が普段と違う気がするんだけど、気のせいかな」
などとつぶやきつつ、さっさとバスルームへ入ってしまった。
シャワーの音が聞こえ始めてからしばらくして、リビングの扉が開いた。
セーラー服を着た銀髪ツインテールの少女が入ってきたのを見て、ツッキーが真っ先に声をかける。
「おかえり、フィリス。早かったわね」
「ツッキー殿、ミュウ殿。ただいま学校より帰還いたしまし——」
堅苦しく挨拶するメゾソプラノの語尾を、
「あらん、ユッチーぃん。やっとその気になったのねぇん」
鼻にかかった甘やかな声が撃ち砕く。
低めだが艶っぽい。ツッキーの落ち着いたアルトとは別種の声だ。フィリスは眉を吊り上げて凍結し、彼女以外の二人は肩を落として脱力した。
フィリスの肩が震え、セーラー服の上からでさえ見る者に力こぶを幻視させる。雷雲さえ呼び寄せそうな、不穏な空気がリビングに渦を巻く。そこに、だめ押しのように艶っぽい女の声が続く。
「あっそこはっ。あっ、あんっ。んっ」
「中・尉・殿…………」
猫背気味に姿勢を前傾させたフィリスは、メゾソプラノを目一杯低く落として呟く。ポニーテールと共に前髪も垂れ、ツッキー達の位置から見るとちょうど目元に影が差した格好になっている。
「最っ低!」
顔を上げ、叫んでから背を向けたフィリスの頬が赤く染まっているのをツッキーは見た。
「あっ、あの、フィリス!」
力任せにドアを閉め、二階への階段を乱暴に昇る足音がして——、彼女に割り当てられた部屋の扉が大きな音をたてて閉じられた。
「あー……。あれは、相当怒っているわね……」
それっきり絶句するツッキー達の背後、バスルームからリビングへと入ってきたのは白猫だった。
「てへ」
「てへじゃなーいっ!」
少女たちの抗議を一身に浴び、さすがに押し黙ったシシナ。彼女は視線に反省を込めると、上目遣いに二人を見回した。
* * * * *
「あのー、フィリスさん? そろそろ、勘弁して欲しいんですけど……」
「もふもふ。シシナ曹長のお声が聞こえるのは気のせいですね。私の目の前に居るのは白猫のシシナ。もふもふー」
シシナは諦め、フィリスにされるがままになっていた。
バスルームの一件を種明かしした結果、現在の状況となっているのだ。
もともとユッチの飼い猫であり、自分で入浴できない彼女は彼に洗ってもらっていた。
フィリスの帰宅に気付いた彼女は、声色を変えて先ほどのいたずらに及んだのだ。
割と本気で怒ってしまった様子のフィリスに謝罪し、どうすれば許してもらえるかを尋ねた結果、「愛でたい」というのが銀髪少女の回答だった。
そうは言っても、要は撫でられているだけなのだ。シシナとしては罰ゲームよりもご褒美に近い。
「ふぁ。眠くなってきたし」
「ふふっ」
フィリスの弛緩した笑顔は年齢相応のものだ。目を細め、日だまりのような暖かさを周囲に振りまく。その様子は、容姿と相俟ってとても華やかである。
しかし、ある方向に目を動かすと、途端に笑みを消して氷点下まで視線の温度を下げた。
「エロ中尉殿はこっち見ないでください。たとえ上官といえどもそのおぞましい視姦マジうざいセクハラ訴訟ものですから」
「オーケー、君にその日本語を教えた奴を連れて来てくれ。小一時間説教してやる」
「ミュウ軍曹殿は、こんな男のどこがいいんでしょうか。理解できません」
「……」
ユッチは頬を掻くと、キーボードを叩き始めた。
「どうせそのパソコンでエロサイトでも見てたのに決まっています」
「……なぜわかった」
「…………最っ低っ!」
その碧眼からは今にも氷柱を伸ばし、ユッチに突き刺すのではないか。周囲にそう思わせるほど室温を下げたフィリスは、シシナを撫でるのも忘れて腕を緩めた。そこからするりと這い出したシシナが溜息混じりの声をユッチにかけた。
「はいはいユッチ。もうその辺にしときましょうか」
食卓の上に立ち、ユッチを見上げるシシナ。彼女と目を合わせたユッチは、後頭部を掻いた後、表情を引き締めてからフィリスを真っ直ぐに見た。
「そうだな。あまりにも反応が直球なんで、ついからかってしまった。大人げなくて申し訳ない」
「……で、目処がついたのね。SEジャマー破り」
「えっ、本当ですか!」
シシナの一言で、夕飯の準備を進めていたミュウとツッキーが台所で反応した。先の戦闘において、ユッチが裏技を使ったことは周知してある。だが同時に、それは二分三十秒のタイムリミットがあることも告げてあるため、メンバーとしてはずっと気にしていたのだ。
それに対し、ユッチは苦笑を漏らす。
「慌てるな、みんな。まだ仮説を立てたに過ぎん。シシナもわかってるくせに」
「あら、あたしはいつも心の中を覗いているわけじゃないわよ」
シシナの一言にユッチの苦笑はさらに濃くなり、「敵わないな」と呟く。
「だけどその前に。みんなも気にしてて、言えずにいると思うんだけど」
珍しく目を吊り上げたユッチが慌てた声を漏らす。
「おいまさか、シシナ」
「一度みんなの前で名前を出したからには、ねえ」
この数日、気にしていた話題に触れた。それを敏感に察知したミュウたちはリビングに飛んできた。
集まったはいいが、互いに遠慮の視線を交わす部下たち。その中でただひとり、フィリスが鋭い視線をユッチに向けて訊いた。
「イーリャというのは何者なんですか」
「フィリス!」
即座に制止するツッキーに対し、ユッチは柔らかい視線を送ると「いいんだ」と告げた。
「俺たちはチームだ。隠しておくつもりはない」
全員が、静かにユッチの言葉を聞いている。
「俺には詩織って妹がいてさ。幼い頃に亡くしたんだ」
そこで沈黙し、場の全員が押し黙る。そんな中、フィリスが視線を和らげてからもう一度発言した。
「イーリャは、詩織殿と何か関係が?」
「幼稚園の頃の詩織にとっての友達として、たびたびこちらの世界に訪れていた——、IMだ」
息を飲む音を立てたのはツッキーだろう。その隣ではミュウが大きく目を見開いている。
短い沈黙の後、首を傾げながらフィリスが言う。
「さすがに、中尉殿がふざけておいでだとは思いません。ですが、何を仰っているのかもわかりません。そもそも、意思を持つIMなど——」
「IMは意思を持っている。ただそれが実数空間の生命とは大きく異なるだけだ。だが、中にはイーリャのような例外もいる」
「…………」
沈黙するユッチに対し、言葉を挟む者はいない。
「これは俺の想像だが、イーリャはこちらで生まれ、IMになってしまった存在ではないかと思っている」
「あり得ません! 人は——、この世界の生命体は、虚数空間で存在を続けることなど不可能です」
「なあ、フィリス。それが不可能なことは常識だ。いや、常識だった。しかし、ギファールの科学者は、虚数空間内で物質が存在を続ける方法を発見し、航虚艦を建造した。そもそも、虚数空間の存在を発見した時点で、可能性は零ではなくなっていたんだ」
全員を見回し、告げる。
「その気になれば、人は——人の思いは溝を超えられるんだ」
わずかな沈黙を挟み、ツッキーが発言した。
「そういえば、シシナ。あなたはあの時、『また会えた』と仰っていましたね。イーリャのこと、ご存知だったのですか?」
シシナはツッキーをまっすぐに見据えると、静かに告げた。
「あたし、ユッチの妹なの」
「え」
一同の視線がユッチと白猫の間を往復する。
「ええええええええ!?」
リビング内で奇声が上がった。
* * * * *
パソコンのそばに置かれたタブレット端末から、落ち着いた男性の声がした。
『この家の防音対策はそこそこ高性能ですが、音を百パーセント遮断するには至りません。ご近所の方に会話を聞かれたところで、我々の正体に気づかれる恐れはほとんどありませんが、今後はなるべく目立つ言動をお控えいただければと思います』
「主に俺に言ってるよね、それ。悪かったよ」
ミュウが不貞腐れた態度で、それでも一応謝っている。
『いえいえ。しがないメモリーチップの分際で分を弁えぬ差し出口、大変失礼をいたしました』
「なあ、おい。ロミュってさ、慇懃無礼って言葉知ってるか?」
『意味くらいは。もしかして、私のことを指して仰っているのですか?』
「ふーんだ」
ミュウはタブレットから顔を背けた。
彼女が顔を背けた先では、ツッキーがユッチに話しかけていた。
「そうですか。それでIMの核を集めておいでなのですね」
それを受け、ユッチは以下のような内容を部下たちに告げた。
幼い頃、自宅でIMの襲撃を受け、両親と妹、そしてペットである白猫の精神体を失った。
何らかの要因で、ペットの体内に妹の精神体が入り込み、現在に至る。
ところで、IMを倒した際、その倒し方によっては手に入ることのある「核」について、ユッチはある仮説を立てている。
即ち、IMの精神体を実数空間内で物質化させているのは核なのではないか。
核を集めれば、シシナ——詩織の身体を物質化させられるのではないか。
「この件は局長に相談したんだ。しかし現在のIM研究では、俺の仮説は否定されている。核を集めること自体は自由だし、将来、精神体を物質化させる方法が発見されないとも限らないので勝手にやれ、と言われたのでそうしている」
白猫は欠伸をして、気怠げに呟いた。
「あたしはこのままだ構わないって普段から言ってるのよ。なのにユッチったら聞かないの。だいたい、もしあたしの人間体が物質化したとして、それってIMの核でできた身体よ?」
「それがどうした」
「…………もう。すぐこれよ。それだけじゃないわ。あたしがシシナの身体から抜けたら、シシナはどうなるの。この子の精神体はないのだから、肉体の死を迎えるわ」
そう言いながら、シシナの目つきがとろんとしてきた。
「だが!」
ユッチの強い声に、シシナの瞳が丸くなる。
「その身体では、どんなに長くても余命二十年だっ」
「充分よ。あの日……、ウチが襲撃された日、命を落とさなかっただけでも大きな奇蹟。それに、シシナの身体が生き残ったことも含めて奇蹟なのよ。あたしにとって大切なのは、この子の身体で天寿を全うすること」
ユッチは首を振る。
「だめだ……、だめだ。俺は納得しないぞ」
ミュウは遠慮がちにユッチの腕と背に触れ、気遣わしげに見つめている。
フィリスは神妙な顔をしつつ、ほとんど眠ってしまったシシナを胸に抱いている。
ツッキーはユッチの正面に移動し、落ち着いたアルトで告げた。
「あたしはいつだってユッチ先輩に従います。でもこの件は、詩織さん——シシナのご意見も尊重してあげて欲しいです。時間はあります。あたしたちも交えて、これからも話し合いを続けていきましょう。どんな結論になろうとも、核集めはもちろん協力しますから」
「……すまない。余計な心配をかけて」
ユッチは頭を下げた。
「ずるい」
ぼそりと漏らしたのはミュウだ。
「俺が言いたいこと、全部言っちゃったよ」
「ごめんね、ミュウ。でも、同じ気持ちだってこと、先輩に伝わったよね。あたしたちは——」
「家族だな」
シシナに緩んだ視線を向けていたフィリスの口が小さく動いた。
「家族」という動きだった。
銀髪少女がふと視線を上げると、ユッチと目が合う。
はっとした顔を見せたかと思うと、目つきを険しくしてそっぽを向く。その頬がほんのり赤らんでいるのを、彼女以外の三人は見逃さないのだった。