不屈の闘志
西側へと走っていたフィリスは、周囲に漂う黒い霧に表情を険しくした。
「この気配!」
足を止めた。視線を巡らす——いた。黒カマキリだ。
「鎌の腕を持つIM……、二体か。おそらくどちらもAクラス」
英語にもカマキリを表す語彙はあるが、イギリスにはいない昆虫だ。フィリスは図鑑でしか見たことがない。
「何にせよ、人の背を超える昆虫など不気味以外の何物でもない」
足音に振り向くと、黒髪の少女が駆け寄ってくるところだった。
「フィリスちゃん、ユッチ先輩からの指示よ。SEデバイス、ロック解除」
「了解、ツッキー殿」
即座に返事をし、ロック解除すべく左手首に触れたフィリスだったが——。
「…………!?」
SMap——スペル・マッピング・テーブルが有効化されない。SEデバイスが無反応なのだ。
「ZISコード、アクティベート! ……え!?」
どうやらツッキーのデバイスも起動しないようだ。
黒髪少女は銀髪少女の隣まで駆け寄ると、携帯電話を耳に当てた。
「……出ない。ユッチ先輩、取り込み中のようね」
「あのような方、上官として尊敬する気にはなれません」
電話に出ないことをどういう意味に取ったのか、フィリスは吐き捨てるように言う。苦笑したツッキーは彼女の意見を流すと睨む目を前方に据えた。すると途端に表情を引き締める。
大きな黒瞳をさらに見開いたとき、そこに紺色の魔法陣が浮かんだ。それは錯覚ではないのだが、我が目を疑ったフィリスは二度見してしまう。
銀髪少女の様子をよそに、ツッキーは緊張した声で告げた。
「あの二体の向こうに、人がいるわ!」
「見えるのですか!?」
見開かれる碧眼と、細められる黒瞳。
いくらフィリスが目を凝らしても、闇に蠢く黒カマキリがかろうじて見えるだけである。
携帯電話を腰のホルダーに戻したツッキーは、自然な歩調でIMへと近付いていく。
その背に向けて、フィリスは大声で呼びかけた。
「ツッキー殿! どうするおつもりですか! SEデバイスなしでIMに近付くなど自殺行為——」
「一般人が巻き込まれているの。あたしたちは専門家。助けなきゃ」
その落ち着いた声に仰天し、銀髪少女は狼狽えた声を出す。
「しかしっ」
敵IMとツッキーとの間で視線を往復させると、彼女は両手で己の頬を叩いた。
制服のスカートの裾を跳ね上げる。続く動作で、太腿のかなり上に巻かれたホルスターから拳銃を取り出した。
「迂闊に近づくのは危険です! 距離をとってサイキックウェポンで攻撃しましょう」
遠ざかる背に向け、焦りを隠さず裏返った声で叫ぶ。
「援護をお願いね!」
「あっ!」
しかしツッキーは走り出し、さらにIMへと迫ってゆく。
——どうなっても知りませんよ!
叫び返す時間を惜しみ、フィリスは拳銃を構えた。
銃口正面に薄桃色の魔法陣が生じる。
銃声が谺した。二発、三発。
マズルフラッシュが闇を裂き、黒カマキリたちの背を穿つ——
が、二体とも健在。
サイキックウェポンは正常だと思ったが、どうやら威力が落ちているらしい。
「この霧のせい……?」
フィリスはIMたちから注意を逸らさず、周囲の気配を探る。
人の気配がしない。なんだか、見えない壁に閉じ込められたような感覚に肌が泡立つ。
次の瞬間、片方の敵が振り向いて、鎌を高く掲げて見せた。
「つ、ツッキー殿! 無駄です退きましょう!」
SEなしでIMと戦うなど愚行でしかない。今の自分たちは年齢相応の無力な少女に過ぎないのだ。
無謀な先輩を呼び戻すべく、焦れて手を伸ばした時——
紺色の閃光が闇を裂く。
「————っ!?」
フィリスは思わず腕で目をかばった。
腕を下ろすと、先ほどこちらを振り向いた黒カマキリが倒れていく様子が目に入る。
しかも側頭部から火花を散らしていた。身体が消滅しないところを見ると麻痺か気絶状態に陥っているだけのようだが、状況から見てツッキーが何かしたのに間違いない。
「どうやって? ツッキー殿はサイキックウェポンを携行しておられないはず——っ!」
呟くのを中断し、再び発砲。
もう一方のカマキリがツッキーに襲いかかろうとしていたのだ。
その時、フィリスは見た。
紺色の閃光、その発射元を。
黒髪少女の両目が輝き、そこから伸びる光線がカマキリの顔面に激突するのを。
驚愕に目を見開くフィリス。
その視線の先で、二体目のIMがゆっくりと倒れ込んでゆく。
「フィリスちゃん、ウェポンでカマキリたちの脚を砕いておいて」
「ふぇ? は、はいっ!」
思わず間の抜けた声を漏らしてしまったが、辛うじて気を引き締め直すと発砲した。
脚を砕いた後、残りの全弾を使って身体中に撃ち込むべく構える。
「だめよ。ウェポンを携行してるのはあなただけ。弾丸は温存するのよ」
手分けして、簡易の魔力封印テープ——日本支部から支給された、見た目はガムテープとしか思えないサイキックアイテム——で二体のカマキリをぐるぐる巻きにした。
巻き終えると、ツッキーはフィリスと向き合って自分の目を指差す。
「うふ。これがあるから、無謀なことしちゃった」
「……特殊な固有魔法、ということですか?」
「さあ。言われてみれば、そういうことになるのかも知れないわね」
落ち着いたアルトで告げ、舌を出す。
返答に困ったフィリスが黙っていると、彼女に背中を向けながら言葉を続けた。
「この力があるから思わず立ち向かっちゃったわ。次からはフィリスちゃんの忠告に耳を傾けるようにするわね」
力の有無ではない。黒髪少女の様子を見て、フィリスはそう確信していた。
蛮勇と言ってしまえばそれまでだが、敵の前に駆け込む際の迷いのなさからは覚悟の深さが感じ取れた。
サイキックウェポンをホルスターに戻した後、右手が震えているのを自覚する。
魔力Sクラス。それがどうしたというのだ。魔法を封印された途端に無力感に苛まれるなんて、心が弱い証拠ではないか。
己の小心ぶりに自己嫌悪していると、背中越しに振り向いていたツッキーと目が合った。
「恐らく時間稼ぎにしかならない。今のうちに一般人を連れて先輩たちと合流するわよ」
答えようとした、その時。
IMたちの背後の空間に波紋が生じる。
「えっ——」
二体のIMは波紋に吸い込まれるようにして、少女たちの目の前から消えてしまった。
同時にあたりを漂っていた黒い霧も消失する。
「ZISズィスコード、アクティベート!」
中空に漢字の「水」と読める文字が浮かんで光を放ち、ツッキーのSEデバイスに吸い込まれた。
はっとしたフィリスと目を合わせると、黒髪少女は頷いて見せた。
銀髪少女は頷き返すと、己のSEデバイスに触れた。『FLASH』の文字が浮かび上がり、彼女のSEに吸い込まれていく。
「【エリアサーチ】! ……IMどもは東側に移動しました。追いましょう」
すかさず敵の追跡を提案するフィリスを、ツッキーは制止した。
「待って。まずは一般人よ。倒れてるわ」
そういえば、とばかりに目を凝らす。しかし、やはりフィリスにはよく見えない。
その場にかがみこむツッキーの視線を追って懐中電灯を照らす。地面を覗き込み——、口を押さえた。
「う……っ」
懐中電灯を取り落とさずに済んだのは訓練の賜物と言えよう。
倒れている人間が二人いる。一人はまだ意識があるようだ。だが両脚とも膝から下がなく、顔面が蒼白だ。
もうひとりは即死状態だ。肩から腰まで届く斬り口から噴き出した大量の血液で全身が染まっている。それより何より、上顎から上の部分が顔から分かれていて——、それは腰のあたりに転がっていた。
意識のある方が口を開く。
「あ……んたら、監視……機構、だな」
セクダーン語だった。
「っ————!」
緊張するフィリスと対称的に、ツッキーは穏やかに頷く。
「俺は、もう助か……らん」
「しゃべらないで。すぐに止血するわ」
ツッキーが声をかける。あくまで冷静な、落ち着いたアルトで。
「よ……せ、無駄……だ。それより、仲間を。イブって……女を。あいつ、は、根っから……の、悪じゃ、ない。助け——」
続きは言葉にならず、咳き込んだ。その瞬間、口の端から血液が噴きこぼれる。それっきり動かなくなった。
「想いは受け取ったわ。できる限りのことをする」
男の瞼を閉じてやるツッキーから目を逸らすと、フィリスは東の方角を睨んだ。
立ち上がったツッキーの頬を雫が伝う。
「嫌になるわ。涙なんてとうに枯れたと思ってたのに」
機械の目からは流れないと思っていた、との呟きは声にならない。
「……敵を斃しましょう。大体の距離と方向しかわかりませんが、転移魔法を使います。私は見える範囲にしか跳べないので、少しずつ刻んで行くことになりますが、よろしいですね?」
転移魔法は、人によっては乗り物酔いのような症状を惹き起こす危険性がある。その比率は魔力クラスが上がるほど減って行き、Bクラス以上ならほとんど症状が出ないと言われている。
フィリスはそれを踏まえた上で確認してきたのだ。
「待って」
言葉と同時に、ツッキーはフィリスの手を握った。
「視覚同調するわよ。目を閉じて」
「…………」
フィリスは訝りつつ、素直に従う。
「あっ!」
黒カマキリが見える。それだけではない。夜闇に包まれているはずなのに、日没直後かと思える程度には周囲の景色も確認できる。
これなら、目的の場所まで一気に跳べる。
「千里眼に視覚同調……。これ、SEに頼ることなく発動しておられますよね。ツッキー殿は視覚系の固有魔法をお持ちなのですか。……!」
視点が上がって行き、黒カマキリのいる場所を俯瞰する。
空中に浮かぶトレンチコートの男、路上に蹲るユッチ、そして先ほどの黒カマキリ。カマキリの向こうには拘束された黒髪ショートの女性。
「先輩!」
「あの女性、さっきの!」
「……。思うのだけど、黒い霧がある場所ではSEデバイスが使えないのではないかしら。現場から随分離れるけど、このあたり——」
ツッキーの言葉と共に、カメラが移動するかのように視点が後退していく。およそ五十メートルほど離れたところで視点が固定された。
「ここなら黒い霧がないわ。でもあたしには遠隔攻撃手段がないの。さっきの光線、有効射程二十メートル程度だし。あなたならここから黒カマキリを狙えるかしら」
「余裕です。しかし、ツッキー殿。あちらのIMは五体満足でしたし、一体しかおりません。あの二体はどこへ行ったのでしょう」
目を開け、そう聞いてくるフィリスに対し、ツッキーは首を横に振る。
「わからないけど、あの女性とユッチ先輩が危ない。今すぐ移動するわよ」
フィリスは再び目を閉じる。彼女のSEから薄桃色の光が膨れ上がり、やがて弾けた。
光が消えた時、少女たちの姿もまたその場から忽然と消えていた。
* * * * *
(くそ、何か方法は……)
地面に手を突いたユッチは、小声で呟き始めた。
「【大地を覆う偽りの膜。真名を以て虚空へ還れ。汝の真名——】」
「おっと、させませんよ」
ロズィスはユッチの様子に気付き、指を鳴らした。
指から迸る白光がユッチの胴を打つ。
「ぐあっ」
俯せに倒れたユッチを見下ろし、ロズィスは薄笑いを浮かべた。
「すみませんね。少し痺れているでしょうが、しばらくの辛抱です」
言いながら周囲を見回すと、片眉を吊り上げる。
「ほう。魔素が活性化していますね。放っておいたら君の召喚魔法、成功していたことでしょう。SEのサポートなしで魔法を使うなんて、Sクラスでさえできることではありません。君はいったい何者ですか」
「……っ」
力の入らぬ身体に鞭打って半身を起こすユッチだが、立ち上がることはできずにいた。
「恐るべき抵抗力ですな。君ほどの魔法士ならすぐに回復するでしょう。
ですが、そうである以上」
笑みを濃くして言葉を続ける。
「邪魔されては面倒です。用心させていただくとしましょうか」
「何が用心だ……。余裕だな、くそっ」
膝立ちの姿勢で言うユッチに向けて、再び指を鳴らす。
二度、三度。
ユッチは掌を広げて腕を伸ばす。
「これはこれは!」
ロズィスの細い目がやや見開かれた。
ユッチの掌が青く輝き、白光を弾いたのだ。
だが。
「うわあっ」
背中に白光を受け、再び這いつくばるユッチ。
「ぐ……く、くそっ」
「中尉殿をA+魔法士と見下していたこと、お詫びします。今後は油断しないようにしますね。
さて、今度こそ動けないでしょう。少し本気で撃ちましたからね。今日のところはそのまま大人しくしていなさい。そして傍聴人の少ない尋問を静聴なさい」
目の前での遣り取りに碌に目を向けず、ほとんど諦めた様子で黙ったままのイブ。彼女の正面に立つ黒カマキリは、右腕を振り上げたまま静止している。
「お待たせしました、イブ・カショレ。今から少し質問します。正直に答えれば、処刑については考え直してあげられるかも知れませんよ」
「……」
「私が聞きたいのは、持ち去ったカナイドの販売ルートについて。うまくやったようですね、こちらで調べてもあなた方の『お客さん』の所在が掴めないんですよ」
のろのろと視線を上げたイブは、震える唇で答えた。
「は、販売ルートなんて開発していないわよ。だって、売る気なんてないもの」
「ほう。では自分で使うつもりで?」
「そ、そうよ」
「なら、わざわざ盗まずとも。相談すればある程度は融通しますのに」
ロズィスの口角が上がる。
「……あなた、再び密航してギファールに戻るつもりでしたね?」
その言葉に、イブは息を飲んだ。
「やはり。でもなぜです。ここリエイルなら買い手にこと欠かない。ですからカナイドの製造も販売もこちらで行っている。しかし、ギファールでの麻薬取締は鉄壁です。仮に我々の手を逃れたとしても、向こうに渡ればすぐにギファール警察に捕まりますよ」
「つ、捕まるのが警察なら、い、命は助かるもの……」
そう言って唇を噛む。その口惜しげな表情からは、嘘をついている様子は窺えない。
「なるほど。刹那的な快楽のためにカナイドを盗んだ、と。そう言いたいのですね」
「そ、そうよっ!」
「それを信じろと?」
ロズィスの瞳が刃の輝きを宿す。その視線に射すくめられたイブは、悲鳴が喉の奥で引っかかったような声を漏らして凍りついた。
「さて。本当のことを言うつもりはないものと理解しました。残念ですが処刑します」
「————っ!」
ユッチは身動ぎしたが、全身を苛む痺れのせいで半身を起こすことさえできない。
イブは目を閉じ、項垂れた。
「そうですね、どこを斬るか選ばせてあげましょうか。首か、胸か、それとも全身めった差しか」
淡々と言い放つロズィスの言葉に反応し、イブの全身が震え出す。
「さあ。首か」
黒カマキリが鎌の切っ先をイブの喉に軽く当てる。
「……い、や……」
「胸か」
左の鎌の切っ先をブラウスの胸元に当てる。
「…………っ」
「全身か——」
刹那、強烈な光が周囲の闇を駆逐した。
黄緑の光が炸裂し、ユッチだけでなくロズィスでさえ目をかばっている。
「はあああぁっ!」
高い声が尾を引いた。
鈍い音と共に、黒カマキリが弾き飛ばされる。
「先輩は、俺が守るっ!」
ショートパンツからむき出しの両脚に黄緑の光を纏い、身構えるミュウがそこにいた。