弱さ流れる
このままでいいはずはなかった。人の命が懸かっている。弱くてもそれに気付かない強さも必要だ。後日、俺は仕事が早く終わる日にジャンヌを訪ねた。早く終わる、と言っても十分暗くなってからだ。仕事場からメリーナの家までの道のりを出来るだけ何も考えずに歩いた。その日も、いつもと変わらず、暑い夜だった。そこらじゅうに砂明が飛んでいる。彼らも必死なのだろう。
玄関の扉を叩く。出てきたメリーナはいつも通りだった。明るく、楽しそうに俺を迎え入れた。そして、ジャンヌの部屋の前まで俺を連れて行った。静かに襖を開けると、前より一段と小さく、白く、細くなった彼がいた。命の炎は今にも静かに消えてしまいそうだった。
「やぁ、ミロ。君が来るのを待っていたよ。なんせ僕はこうして毎日寝ていないといけないから暇なんだ」
彼はどこまで窮地に立たされても、苦しくても、何一つ変わっていない。変わったのはきっと周りなんだ。彼を目前にすっかり動揺していた俺は言葉を発するのがやっとだった。
「あぁ、たまには見舞いでもと思ってな」
「そう。嬉しいよ」
「調子はどうだ?」
「大分いいよ。君と会うときはいつもこうなんだ」
ジャンヌは子どものような笑顔でそう言った。
「今日は、仕事、早いんだね」
「あぁ、お前のために早く切り上げてきたんだ」
「そんなこと言って、メリーナに会いに来たんでしょ」
「俺をからかうのがそんなに楽しいか?」
「悪かったよ、悪かった」
そう言って彼は笑った。何も変わっていない。いつもこうなんだ。昔から。彼が冗談を言って、俺たちはいつも笑っていた。そうだ、なにも、何も変わらない。いつもどこまでもこの先もずっと…俺たちはこうしていられる。そうに違いない。いや、そうでなくてはならない。ジャンヌの病だって治るような気がした。もう二年も経っている。それでも彼は生きている。それが事実。現実だ。この関係はきっと永遠に続く。彼に会ってそう感じた。
「僕もそろそろ仕事しないとなぁ」
「仕事?」
「あぁ、もう一年近くこうして寝ているんだ。いい加減、メリーナに働かせるわけにいかないよ」
「そんなこと考えていたのか。金のことならなんとか大丈夫だろう」
「僕、知ってるんだ。秘密で君が毎月、メリーナに少し渡しているのを」
「……いいんだ。大した金じゃない」
「君と言う友を持てて僕は幸せだよ。僕が元気になるまであと少し、待ってくれ」
「あぁ、いくらでも待つさ」
いくらでも待つ、偽りない言葉だ。ジャンヌが病から解き放たれるのなら、俺はどれだけでも待つ。希望を持ち続ければいつか叶う。ジャンヌもそう信じているんだ。
「そろそろ、帰る。また来る」
「ありがとう、ミロ」
「それじゃあ」
「本当に行っちゃうの?」
「ん? そうだが…?」
「僕はすっかり何か言いたいことがあって来たんだと思っていたよ」
ジャンヌは昔から人のことを良く見ている。彼はどこまで見透かしているのかたまに怖くなる時がある。
「…お前には敵わんな」
「何の話だろう?」
「いや、何と言うか…」
「ふふ、悪い予感しかしないね」
彼は無邪気に笑った。俺は自分の弱さを呪った。強くあろうとすればするほど弱くなる。
「君はいつも人のことばかり考えすぎているんだよ。それで身動きが出来なくなってるんだ」
「何でもお見通しだな」
「そうだね」
「メリーナの話なんだ」
「彼女がどうかしたの?」
「…子どもが、もうすぐ産まれることは知ってるな?」
「知ってるよ」
「その…言っていたんだ。この前会った時に…」
「知ってるよ」
「あいつ、お前のために…」
「はっきりしないなぁ。早く言ってよ」
「言ったんだ……死ぬ、って」
俺はこの世に出るか出ないかの小さな声で呟いた。




