前半
どうもはじめまして、この作品の作者であります入江九夜鳥と申します。
この作品は……前半だけでも読んでいただければ大体わかるかと思うのですが、コメディというかギャグの類です。
まともなストーリーものをご期待されているのであれば他の作品をお読みいただくことをお勧めします。
ですが、ま、多少なりとも笑っていただけるようでありましたら、よければ後半も読んでやってくださるとありがたいです。
人は、後悔する生き物である。
どうして後悔するのかと言うと、その言動によって、自ら墓穴を掘るからだ。
どうして墓穴を掘るのかと言うと、人間は未来を知ることが出来ないからである。
無論、自分の行動の結果を予測はできる。予想もできる。しかし正確ではないし、未知の要素が加わることで、全く予期せぬ事に出くわすこともある。
その時人は、どうしてこうなった――と、自らの不明と不運を嘆き、後悔するのだ。
そう、今の彼女のように。
秘密の地下室で。
蝶を模した仮面をつけ、パンツ一丁になった青年たちに囲まれ。
「おっぱい! おっぱい!」
「紳士同盟万歳! 紳士同盟に栄光あれ!!」
「おお、我らが母よ……!!」
などと、感極まった表情で叫ばれている時などには、特に。
†
ふと手元から顔を上げると、窓から差し込む光が図書室を橙色に染めていた。つい夢中になって読み耽っていたらしい。
清水尚子は、大きく伸びをした。長い時間同じ体勢でいたものだから身体の各所が強張っている。コリが解れて血の巡りが良くなる感触を心地よく思いながら、彼女は辺りを見回した。
図書室の奥まった場所にあるこの席周辺に、彼女以外の利用者はいなかった。
彼女は、この男子校で教鞭を執っていた。科目は日本史。今年で四年目になる。新任だったころに比べれば、随分勝手も判るようになった。忙しいのは相変わらずだが、書類仕事一つ取っても早く片付けることが出来るようになった。
そうやって効率的に仕事を捌くことができるようになれば、なんとか週に一回くらいは図書室で趣味の読書に浸ることができる――読書は彼女の、昔からの数少ない趣味だ。唯一と言っていいかも知れない。
彼女が読書に夢中になったのは、実家にある一本の刀が遠因だ。大した功績も挙げた訳ではないらしいが、ご先祖様は関ヶ原にも東軍で参加した下級武士だったそうだ。
様々な物語で描かれる関ヶ原。天下分け目と言われたその戦いに、四〇〇年も昔のご先祖様が関わっていたという事実。
その面影を追って図書室の時代小説を片っ端から開いていく内に、気がつけば歴史小説だけではない、物語というエンターテイメントにずっぽりハマって抜け出せなくなっている。
「三つ子の魂、百まで……って、ホントよねぇ」
苦笑する。
小学生のころから、放課後は図書室に入り浸る娘だった。歴史好きが高じて教職に就いたし、今なおこうして学校の図書館で夢中になって本を読んでいる。
小中学生の頃は、小遣いの関係から本を好きなだけ買うという訳にはいかなかったから図書室に入り浸っていたが、それなりに自由になるお金が増えた今でも図書室通いを止められない。それは一重に、図書室という空間が好きだったからだ。
放課後の図書室は、校内にあって一種隔絶された空間のように感じる。ファンタジーな物言いをすれば、結界でも張っているかのようだ。
ピンと張りつめた静謐。しかし無音ではない。利用者が時折捲るページの音が、遠くから聞える街の騒音が、運動部の掛け声が、図書室の異質さを際立たせる。
柔らかな孤独。
満ち足りた淋寂。
みんな、もっとここで本を読めば良いのに。
心からそう思う。
この楠算学校は近隣でも有名な男子校だった。明治の頃からあるという歴史と、高い進学率、そして文武両道を実践する校風から図書室の利用者は少なくはない。だが、図書室で本を読む人の数はというとそれほどでもなかった。
しかし一方で、滞在者が増えることで今の図書室の静謐さが冒されるのではないかという危惧もある。悩ましい二律背反だった。
さて、そろそろ帰るか。読み終えた本を書架に戻そうと通路に出た彼女は、視界の端に珍しいものを見た。
――生徒会長の、織田くん?
焦った様子の彼はちらりと左手の腕時計を見やり、舌打ちをする。書架の陰に居た尚子には気が付きもしなかった。
「…………」
意外な一面を見た、と彼女は思った。
この学校の生徒会長である織田和喜は、ともすれば尚子よりも大人っぽく見える。成績は抜群に良く、しかし勉強が出来るという意味だけではなく頭もよい。生徒会長として教師からの信頼も厚く、一方で多くの友人たちと学生らしい馬鹿もやったりして廊下に立たされていたりもする。身長は高く、運動神経も良くて、だけど笑った顔がなんだか春の日差しみたいに柔らかくて、ちょっと昔の少女漫画に描かれるままの、理想的な高校生だ。
だから、尚子は彼が今みたいに焦っている姿を見たことはなかった。何時もどこかで余裕を失うことのない和喜が、今、本気で焦っている。
時間を気にしている?
ふと、和喜のその態度が、まるで待ち合わせに遅れているみたいだな、と思えた。惚れに惚れてようやく口説いた高嶺の花。その初めてのデートに遅刻しそうな時、彼はこんな顔するのだろうか。
だが、彼が向かった場所は先ほどまで尚子が居た場所だ。そこはもう無人のハズで、そもそもこの一時間、尚子以外に誰かが来たということもない。
その不可思議に気がついた尚子は、思わず踵を返していた。
足音を殺して、和喜が向かった方へ。書架の陰からそっと伺えば、禁帯出の大判百科事典の前で和喜は息を整えているところだった。
制服やネクタイの乱れ、髪形をさっと整えると、和喜は一つ深呼吸する。
そしておもむろに、書棚の一冊に指を掛け、引っ張った。続いて別の一冊を、更にまた一冊を引っ張る。
何をしているのだろうか?
尚子が小首を傾げた時だった。和喜が四冊目を引っ張った時、カコッと小さな音がした。
「…………!?」
そして、和喜は壁の書架を押し開くと、書架の裏にあった隠し階段へと素早くその身を滑り込ませた。
尚子は我が目を疑った。まるで物語に出てくる欧州貴族の城にでもありそうな仕掛けが、こんな自分の学校にあるだなんて。殆ど音もなく書架が閉じると、何事もなかったように、尚子の愛する図書室が戻ってくる。
静寂が――隔世の静寂が図書室を満たしている。
「ど、どうしよう」
どうしようもこうしようもない。
一つ息を飲んで、たった今和喜が姿を消した書架の前に立つ。
好奇心は、猫をも殺すという。
だがしかし、こんな面白そうな仕掛けを見つけて、手を出さない本読みがいるだろうか。
「確か、これと……これ」
何度か間違った末、カコ、と何かが噛み合う音。ちょい、と突いてみると、目の前の書架は書架の形をした扉となって少しだけ、奥へと開いた。
誰にも聞えない小さな声で「おじゃましまぁす」と呟いて、彼女もまた隠し階段へと踏み込んでいく。
……この時彼女は好奇心に囚われ、失念していたことがある。
物語において、何らかの秘密を偶然知ってしまった者達の末路である。それが主人公たちであるならば秘密を知ることは壮大な冒険譚の始まりだが――
秘密を見たのが主人公ではなくて単なるモブだとだとしたら。
酷い目に遭うか、不幸な目に遭うか、悲惨な目に遭うか。
いずれにしろ、碌なことにならないことだけは確かである。
†
頭上には裸電球の照明がぽつりぽつりとぶら下がっていて、頼りなく通路を照らしている。漆喰を乱雑に塗り固めた壁、足元の石段。冷たく重たい空気には、幾重にも積み重なった歳月が解け込んで居るかのようだ。
――小学生の頃見た、戦時中の防空壕がこんな感じだったっけ。
尚子は漂うカビ臭さに鼻を鳴らして、そんなことを思った。ただ、下手すればあの防空壕よりも、こっちの通路の方がもっと古いんじゃないのか。まさか……。
益体もないことを考えながら階段を下った先にあったのは、これまた古ぼけた扉だった。
織田和喜の姿はここには無い。当然、扉の向こうに抜けたことになる。そして、尚子が先ほど感じた、和喜が相当焦っているように見えたというのは単なる思い違いではなかったようだった。
(扉が――)
完全に閉まり切っていない。
少しだけ、開いてみる。
どうやら扉の向こうは、同じく地下室となっているらしかった。複数の人の気配がする。その数センチの隙間から中を覗いて見た時、和喜の声がした。
「――僕が最後の一人だったようだな。遅くなって申し訳ない。それでは、始めようか」
始める?
何を?
乏しい照明に浮かび上がるのは、円卓。
そしてそれを囲む、五人の男子生徒達――ただし、まるで中世の貴族が仮面舞踏会でかけるような仮面をしている。蝶を模した黒いレース付きのアレだ。
彼らが一斉に右手を上げて、部屋の奥を見た。
そこに居た、白髪混じりの男――やはり仮面を身につけている――が、仰々しく立ちあがり、鷹揚に頷く。
「ふむ。それでは諸君。始めようか」
い、一体なんなのこれ!?
尚子は目を見張った。
彼女が教師として日々を過ごしていた、ちょっとは名の知れた進学校。その地下に、まるで物語に出てくる秘密結社のような組織があったとでもいうのか!?
彼らは一体に何を始めようというのか。
尚子が息を潜めて事の成り行きを見守っていると、仮面をしている七人の男たちは、おもむろにシャツのボタンに手を掛けた。
「……えっ?」
尚子の思考が、軋んだ音を立てて止まった。
薄暗い秘密の地下室で、彼らは躊躇うことなくシャツや肌着を脱ぎ捨てた。そしてズボンのベルトを外し、
えっ、えっ、えええ!?
こ、これってもしかして、その――男同士でくんずほぐれつ的な、そういう集団志向の嗜好の集まりだというのだろうか!? び、BL! 肉体言語!?
尚子がどぎまぎしている内に、彼らが身につけているのは仮面と、下半身の下着、そして靴下だけとなっていた。仮面はともかくとして、学校指定の上履きサンダルは脱いでいるのに白い靴下を履いたままというのは何かの拘りだろうか?
しかしそれ以上に目を引くのは彼らの股間を覆う下着の多彩さだった。
際どいラインを描く極彩色のビキニの者がおり、尚子でも知っている有名スーツブランドのロゴが入ったトランクスの者がおり、敢えて本日おろしたての純白の処女雪の如きブリーフでこの場に臨む者もいる。
一際目を引いたのはすらりと長い手足と成長期特有のすべすべの肌に映える、真っ赤な赤いフンドシの青年だ。背格好や髪形から、どうやら彼がこの学校の生徒会長であると、尚子は判断した。
織田くんが――学校中の誰からであっても信頼と期待を寄せられているあの織田くんがこんな地下で、仮面赤フン姿でいるなんて、誰が想像できるだろう。しかも当人、恥じらうどころか自らの今の恰好を憚ることなく誇ってすらいるように見えるのだが。
こうしてよくよく見てみれば、室内にいる少年たちには見覚えがあるような気がする。信じたくないことだがどうやら彼らはこの学校の生徒らしいことからして、教師である尚子と面識がある者が居たところで不思議ではないのだが。
居て欲しくないけど。
例えば、あの最も身体付きがガッシリしている筋肉質な彼は、柔道部三年の豊臣くんではないだろうか。つい先日幕を閉じたインターハイで、全国ベストエイトにまで進んだということで尚子もその顔を知っていた。
羽柴くんのお隣に立つ、澄ました感じの背が低いのは二年生の明智くん。体力的には並み以下だが、頭の回転が高く弁舌に長けている、弁論部の生徒。日本史教師の尚子が受け持つクラスの一員だ。
サッカー部の部長佐々くんや、不良として風紀担当の先生に目を付けられている一年の本多くんまでいる。要するに、良しにつけ悪しにつけ学校中の有名さん方だ。
そして今。
下着姿となった青年たちからの視線を一身に集めている、中年太りで狸の如く腹の出たおっさんだが――
(あれ、どう見ても校長先生だよね?)
いつぞや酒の席で、尚子に熱く教育論を語っていた尊敬すべき先達。
教師という職業、理想と現実のギャップに自信を失いかけていたあの頃。尚子が挫けることなく今もこうしてこの仕事を続けることができているのは、あの日赤ら顔で校長先生が語ってくれた、現実の厳しさを知った者だけが持ち得る、熟成された理想論のお陰だった。
――その、尊敬すべき校長先生が。
蝶の仮面を身につけて。
下半身にはスパンコール付きの下着を纏い。
大仰な仕草で立ち上がり、右手を高々と掲げて威厳のある声でのたまった。
「紳士諸君。我らに、真実の叡智を」
「「「真実の叡智を!!」」」
(は、ははは、あはは)
最早尚子は、声もなく力無く笑うしかない。なんぞこれ。
こんなところに来るのでは無かった。今すぐ帰ろう。そしてお酒でも飲んで寝て、ここで見たことは記憶から削除する。そうすべきだ。
激しく後悔に襲われた尚子の手が、開きかけの扉を押してしまった。
キィ、と僅かに。しかし確かに、音がしてしまった。
ヤバい。
尚子がそう思うと同時に、室内にいる七人の動きが止まり、一斉にこちらを見る。
「――誰だ!?」
扉から最も近い位置にいる織田くんが誰何を叫ぶ。同時に羽柴くんと佐々くんが素早く反応した。
「何者だ!? 大人しく神妙にしろ!!」
「きゃああああ!?」
逃げ出すこともかなわず、あっという間に尚子は取り押さえられてしまう。さすがは柔道全国ベストエイト、鮮やかなお手並みであった。
†
五分ほどの後、秘密の地下室にはイスに座らされた尚子と、彼女を取り囲む蝶仮面で半裸の青年六人の姿があった。ちなみに尚子は拘束されてはいなかった。
「女性を無理矢理拘束し、身動きを取れなくなる状態に追い込むのは非紳士的な行為である。我々紳士同盟に相応しからざる所業である――ただし本人の了承を得た場合を除く」
というのが彼らの言い分である。
「……だったら、逃がしてくれたっていいじゃない。ここで見たことは、絶対に他言しないから!」
必死の尚子の言葉に、青年たちは戸惑った。咄嗟に取り押さえたは良いものの、この後どうすればいいのかまでは考えていなかったのである。睨み合いが続く。尚子が視線を向けると彼らは気まずそうに視線を逸らしたが。
「このように清水女史は仰られていますが、オサ。いかがしましょうか?」
仮面を付けた織田和喜に「長」と呼ばれた仮面の校長は、白い顎ヒゲを撫でながら鷹揚に頷いた。
「しかし、聞けば彼女は、急ぐキミの後をつけてここに辿りついたという。このような事態は、この紳士同盟の長い歴史の中でも初めての失態であるな」
長の言葉にうぐっ、と織田くんが仮面の下で顔をしかめた。
「紳士同盟の掟、忘れた訳ではあるまい」
「……掟の七、自らの失態は自らで挽回すべし、我らは慣れ合いの徒に非ず。掟の二、同盟外の立場や出来事を持ち込むべからず」
「その通り。従って紳士オーよ、君自身が彼女を説得し、処遇を決め給え。勿論彼女と我々全員が納得し、かつ君がそれを実行できる範囲でだ」
言われ彼は押し黙った。
処遇と言っても、彼女に危害を加える様な真似は厳禁である。となると打てる手は限られてくるが。
と、そこで居心地悪そうにしていた尚子が口を開いた。
「そもそも、これは一体何の集まりなのよ、生徒会長の織田くん」
その言葉に、彼の脳裏に閃くものがあった。天啓だと思った。
「いいえ、僕はこの学校の生徒会長などではない。従って織田という名で呼んでもらっても困る」
「何を言っているの、織田くん?」
「織田ではない。僕は、紳士オーだ」
「え、し、紳士……おー?」
強く言われ、尚子はたじろいだ。
「我々は、紳士同盟。長を始め、この場に在る限り我々に外での立場は関係ない。互いに敬意を払いはするが、全くの対等である。その為に僕たちはこうして仮面をしている」
外での名を捨て、顔をペルソナによって隠す。ここではサッカー部部長として慕われていることも、不良として腫れモノ扱いされていることも関係は無い。
「じゃ、じゃあその……服を脱いでいるのは?」
「紳士同盟、掟の三――我ら偽る事なかれ。この場にあって僕たちは文字通り胸襟を開き、真に心の底からの想いをぶつけ合う。その覚悟と決意の表れだ」
「はぁ」
わかったような、わからないような、わかりたくないような。というかわかりたくない。
むしろかかわりあいになりたくない。
しかし躊躇いながらも尚子は訊ねずにはいられなかった。
「けど、その下着は……?」
対等の立場を得るため同じ仮面というのは理解した。全てを曝け出す覚悟として服を脱いだのも、まぁ納得できなくはない。
だったらどうして、赤フンだのスパンコール・ビキニだの異常にこだわりを見せる下着を着用しているというのか。
しかしその質問も想定していたのか、織田――ではなく紳士オーは、動じることなく答えた。
「常に紳士たれ――それが掟の一。全てを曝け出しながらも相手を慮り、自らを誇るべし。譲るべき一線、退かざるべき一線。覚悟をもって威風堂々屹立すべし。それこそが真の紳士なれば」
「は、はぁ……」
粗末なモノは見せないけど、堂々とはしときますよ、ということだと尚子は解釈した。
そして理解する。
この人たちは変態さんの集まりである、と。
近年、一部サブカルチャーに於いては変態紳士というものが常識となっているそうな。紳士的な変態、変態的な紳士。一見対極の存在と思える両者だが、変態であることと紳士であることは、実は両立し得るのである。
よって、紳士たらんと自らを律する彼らが何か大事なものをこじらせて現在変態であることは全く不思議なことではなく、また矛盾もしない。故に彼らは変態と言う名の紳士である。
Q.つまり、要するに?
A.変態。
怒りを買いそうなので口には出さない。
「で、そのへんた……あー、紳士な人たちがこんな所に集まって、何をしているのでせう?」
早速口から出そうになったことはさておき。
尚子の問い掛けに、織田くん――もとい紳士オーは中空に視線を彷徨わせた。数秒後、彼が発した言葉は、
「知の探求」
だった。
突然そんなことを言われても、それこそ尚子には「はぁ」という気の抜けた返事をすることしかできない。要するに? と視線と仕草で問うと、紳士オーは一つ頷く。
「例えば、1+1=2。例えば、一四九二年コロンブスのアメリカ大陸発見。学校で学ぶ授業には、基本的に全て答えが用意されているでしょう」
「まぁ、そうよね」
「ですが、良く考えて頂きたい。この国、この社会。様々な場面で起こりえる問題や問い掛けに、果たして教科書的な答えが常に存在しているとは――限らない」
例えば社会問題一つとってもそうだ。消費税を上げる上げないで新聞もテレビ番組も喧々諤々の論争で、しかしコレと言った答えが存在していない。
あるのは、消費税を上げる事のメリットとデメリット。
そして実際に行ってみるまでその増税が、どんな影響を社会に与えるのかは予想することしかできない。
あるいは戦争――戦争を行うことの是と非。
あるいは科学――クローン人間を生み出すことの是と非。
人殺しは悪いことだから、倫理的にダメだから。そんな硬直的な思考を乗り越えた思考実験の場。教科書的な学問の向こうへ臨む。それがこの紳士同盟である。
「もちろん、僕たちが一歩外に出れば単なる学生であることは百も承知。ですが、こうやって正解のない問題に僕たちなり考えをぶつけ合い、新たな視点を得る事が出来るのであれば――それこそが、真実の叡智というものではないでしょうか」
だからこそ外での立場を捨て、服を脱ぎ、自らを主張するのである。
その真っ直ぐな瞳を向けられ尚子は先ほどまでの自分を、彼らを短絡的に変態と断じた自らの不明を恥じた。
小学校では、算数を習う。
しかし中学校から算数ではなく、数学を学ぶ。
算数とは『数』を扱う準備段階。極論すれば計算の練習である。
しかし数学とは、この世に隠れている神秘を数によって解き明かすという学問だ。この数の学問を効率的に学ぶために、算数という基本技能を習得しなければ無いのは自明である。
同様に、中学や高校でより高度な『正解の用意された学問』を学ぶのはなぜか。
その答えの一つが、学外――社会において対面するであろう『正解の存在しない問題』に対処するため、論理的な思考や様々な知識を身につけておくためである。
彼らは、自らの足で立っている。
未熟で、社会人経験など皆無に近い彼らはそれでも学校の外へと――あるいは世界へと目を向けているではないか。
「そこで先生に、お願いです」
仮面の向こうから、紳士オーが真摯な眼差しを向けてくる。
「この秘密の地下室と入り口を知ってしまった先生には、是非ともこの同盟に参加して頂きたく思います」
彼の言葉に、他の紳士たちが驚きの声を上げた。
「ば、ばかな紳士オー!」
「この長い歴史を持つ紳士同盟に、女性が加わるなど前代未聞だ!」
戸惑ったのは尚子も同じだ。咄嗟に答える事ができず、思わず両手で胸元を押さえてしまう。え。何? 脱げと? あんた等と同じ格好をしろと!?
だが紳士オーは、周囲の批難をジェスチャー一つで抑えこんだ。
「皆――そして長。先生。聞いて欲しい。この秘密同盟の存在を知られてしまった以上、彼女をそのまま送り返す訳にはいかない。かといって、女性に乱暴を働いたり脅迫するなどもっての外だ。ならばどうするか?」
順番に全員の顔を見渡して、彼は言った。
「ならば、彼女を秘密の共有者にしてしまえば良い。つまり、同盟の一員として迎え入れる。これが最も現実的な落とし所だと僕は思うが、如何か」
その言葉に、全員が口を噤んだ。
「メリットも、勿論ある。彼女を迎え入れると言ったところで僕らと同列の扱いにするのも変だから、彼女にはその立場を活かし、相談役として振舞っていただきたい」
「相談役?」
聞き返した佐々くん――紳士エスに、紳士オーは悠然と頷いた。
「以前より僕は思っていたのだ。僕たちがここでいかに知恵を絞り合い、正解無き問題に挑んだところで、所詮は同じ学校の男子学生という立場に違いはない。時に似たり寄ったりの発想ばかりで行き詰まることもしばしばあった」
「なるほど! 女性的視点、社会人的視点、歴史的視点。全て俺たちが持っていないものばかりだ。俺たちにない部分を補完することができる」
「それがあればより深く、より広く、より良い答えを導くこともできることもあるか」
紳士エスが納得の声を上げ、聞いていた他の紳士たちもその論に一理あることを認め始める。
紳士オーが、胸に手を当てて頭を下げた。
「改めて、先生にお願いいたします――我らが紳士同盟に参加し、相談役としてその知恵をお貸しいただけないでしょうか」
「……も、もし、その申し出を固辞したら?」
「特に、何もペナルティーはございません。貴女は自由の身です」
その時電子音が鳴った。カシャッ、という、携帯電話のカメラ機能の音。
「!?」
見れば、不良の本多くん――もとい紳士エイチが股間に携帯電話を押し込んでいるところだった。
「ちょ、何を撮っているのよ!?」
「いや、俺の事は気にしなくていい。それにここで起こる事は全て門外不出だしな。写真は外に出る前に消去する決まりだからよ」
「そんなの信用出来るわけないじゃない――ハッ」
紳士エイチに食ってかかる尚子はそこで気がついた。罠だ。
今の写真、まるでイスに座った尚子が、ビキニ一丁の青年を従えているようにしか見えないタイミングを撮られている。紳士オーの顔は伏せているし仮面のせいで殆ど見えないに違いない。
消去するという言葉に保証はない。万が一ネットにでも流出でもしたら――。
考えるまでもない。尚子は破滅だ。
「ぐ……!」
伝説の怪物メデューサも斯くやという視線で、紳士エイチの股間を睨みつける。その「夜露死苦不倶戴天」と意味不明な刺繍された紫のパンツに手を突っ込んで、携帯を奪うべきか。
しかし、その瞬間を狙って再び激写されたとしたら?
怒りの形相で半裸の青年のパンツに手を突っ込む女教師。
考えるまでもない。尚子は破滅だ。
「……! ……!!」
三秒後、言い表しようのない葛藤の果てに、尚子は諦めた。
「その話、受けましょう……!!」
「おお、有難い」
しれっとした顔で喜ぶ紳士オー。
何が紳士だ。完全な脅迫じゃないのよ!
殺気満載の視線で、紳士エイチを睨みつける。その写真、流出させたらアンタを殺して私も死んじゃるけんの。
紳士エイチは肩を竦めると、股間から携帯電話を取り出した。そして画面を尚子に見せる。
「あんたの事は撮ってねーよ」
写っていたのは紳士エイチ自身。使ったのはカメラの自画撮り機能だ。尚子も紳士オーも、影すら写っていない。
ポカンとする尚子の肩に、紳士オーの手が置かれる。
「まさか今更否やはありますまい。さ、相談役。どうぞこちらの席へ」
自分のミスを帳消しにした喜びを顔に現わす彼に案内され、尚子はしぶしぶ円卓のイスにすわるのだった。
後半へ続く