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そんなわけで一時間後、ぼくたち四人は水浪山のふもとに到着した。
相変わらず太陽は、いじわるに地上を焼き続けている。なるべく日陰を選んで自転車を走らせたんだけど、それにも限界がある。ぼくたちは四人とも、もう汗だくだった。
マウンテンバイクのドリンクホルダーに入れた麦茶も、ほとんど飲み干してしまってる。
本当は三十分もあればいける距離なんだけど、ミナの自転車の速さにあわせて走ってたらこんなにかかっちゃったんだ。
ミナはやっぱり、何回も「もう疲れた」だの「のど渇いた」だのと言ってぼくたちを困らせた。そのたびにリョータが必死でミナをなだめすかして、やっとここまでたどり着いたんだ。
「水浪山に行くぐらいでこんなに騒いでたんじゃ、やっぱり海にしなくて正解だったね」
ぼくがちょっと意地悪く言ってやると、ミナはその柔らかそうなほっぺたをぷくっと膨らませた。
「だって〜、あついんだもん〜。坂ばっかりだし」
「ミナちゃんは、水浪山に来たのは初めてだっけ?」
ナツミの質問に、ミナはこくん、とうなずいた。
ミナはいつも、ナツミにだけは素直なんだ。ナツミの方もお姉ちゃんぶりを発揮しがいがあるからか、いつもは気が強いのにミナにだけはすごく優しい。だから傍から見ると、二人はまるで仲の良い姉妹みたいに見えるんだ。
「すごーい、葉っぱだらけだぁ」
そう言ってミナが、ものめずらしげに水浪山を見上げた。
ミナの言うとおり、夏の水浪山は一面の緑に覆われていた。
こうやって見ると、「みどりいろ」ってのは絵の具や色鉛筆なんかである色だけじゃなくて、薄いのや濃いの、鮮やかなのやくすんだの、ちょっと青っぽいのや黄色っぽいの、って感じで、本当にたくさんの色があるんだなぁ、って思う。
山肌全体が数え切れないほどの量の葉っぱに包まれた水浪山は、まるでありとあらゆる緑色の見本市みたいだった。
「滝があったのはこっちだよ。早く行こうぜ」
そう言いながら、リョータはもう山を登り始めてる。白いスニーカーが土で汚れるのもかまわずに、獣道としか言いようのない、草だらけの山道をずんずん進んでいく。その足取りはもちろん、慣れたものだ。
リョータに置いていかれないようにあわてて後ろを追いかけたのが、ミナの手を引いたナツミ。ナツミだって山道は慣れてるから、ミナに気を使いながらも軽々と進んでいく。
そして最後はぼくだ。一応、ぼくとリョータは男だから、何かあったときに女の子を守ってあげなきゃいけないだろ? だから一番前と一番後ろで、周りに注意しながら進むんだ。
リョータを先頭に、ぼくたちはどんどんと草をかき分けて山の奥に入っていく。足場が悪くて土はよく崩れるし、気を抜くと下生えの草に足をとられて転びそうになったりするけれど、何度も探検した水浪山だからこのあたりはなんてことない。ミナも、ナツミに助けられながら何とか着いてきてる。
だけど、リョータを追っかけて進んでるうちに、どんどんと道が険しくなってきた。草の絡まり方もますます激しくなってるし、枝も大きく張り出しているから頭がぶつからないように上にも気を配らないといけない。おまけに、秋でもないのに、土の上には湿った落ち葉がたくさん敷き詰められていて、気を抜くと滑ってしまいそうになるんだ。
ミナはちょっと進むたびに何かに引っかかって転びそうになって、ナツミがそれをあわてて押さえたりしてる。
「本当にこっちで合ってるの?」
どんどん山の奥深くに入っていくリョータに、ナツミが不安そうに訪ねた。
確かに、ぼくもちょっと不安になってきた。大きな木たちが太陽の光を遮っている森の中は、昼間なのにかなり薄暗い。あんなにうるさかった蝉の声もいつの間にかしなくなっていて、風に吹かれた木の葉がさわさわと揺れる音だけが、やけに大きく響いている。
「もちろん! 心配しないでオレについて来いって」
振り返ったリョータが、そう言ってぼくたちに親指を立ててみせる。
「ミナ疲れちゃったよう」
「ミナ、あとちょっとで着くからな、頑張れよ」
口を尖らせたミナの頭をぽんぽん、と叩いてから、リョータはまたぼくたちにくるりと背中を向けて道を進みはじめた。
「でもさぁ、水の音とか全然しないよ?」
リョータの背中に向かってぼくが言うと、リョータはちょっと立ち止まって首をかしげた。
「……ほんとだ。おっかしいなぁ。こないだ来たときはこのあたりまですっごい音がしてたんだけど……」
「風の音しかしないけど?」
ぼくはそう言ってあたりを見回す。
山の中はかすかな風の音がするばかりで、滝どころかかすかな水音さえも聞こえない。
「ねぇ、道間違ってるんじゃないの?」
ナツミが不安そうな声を上げた。
「それはないよ! ちゃんと木に目印をつけておいたんだから」
リョータがさも心外だというふうに近くの木の根元を指差した。
確かに、そこには短いロープが結び付けられている。どうやらそれは、山の入り口から目的地までの道筋にある木に、大体同じくらいの間隔を置いて結ばれているみたいだ。ぼくも狩人だったおじいちゃんから教わったことがある、山の中で道に迷わないための方法だ。
「ほら、あともうひとつの目印を越えれば……」
そんなふうに呟きながら、湿った落ち葉を踏んで道の奥に進んでいくリョータ。
その背中が、ふと止まった。
「リョータ、どうしたの?」
ぼくが声をかけても、リョータは振り返らなかった。まるで固まっちゃったみたいにじっとしたまま動かない。
「リョータ?」
「お兄ちゃん?」
ナツミとミナにも心配そうに声をかけられて、リョータはようやく声を出した。
「滝が……、滝がなくなってる」
その声はかすかに、震えていた。
あわててぼくとナツミ、ミナの三人はリョータのところに駆け寄った。
そこは生い茂っていた木々が途切れて目の前が開けていて、空が見えた。そしてそこには天まで続きそうな高い岩壁がそそり立っていた。岩壁は、こげ茶や赤茶や白っぽい茶色なんかのたくさんの横縞模様がついていてとてもカラフルだ。たぶん、理科の時間で習った「地層」てやつだろう。
そして、岩壁のちょうど真ん中あたり、てっぺんから一番下まで縦の線がまっすぐに刻み付けられている。あれは、おそらく滝の跡だろう。そこをゴウゴウという音を立てて壮大に流れ落ちているはずの滝の姿は、全くない。
「どういうこと? 滝がなくなってるなんて」
「オレにもわかんないよ! この前来たときはあったのに……」
呆然とした様子で、ナツミの言葉に答えるリョータ。あまりのことに、相当驚いてるみたいだ。
そりゃそうだ。前見たときにあったはずの滝が突然消えていたら、誰だって驚くに違いない。
「もしかして……水不足の影響ってやつかな?」
ふと思いついていったぼくの呟きに、リョータとナツミの視線が同時にぼくに注がれる。
「水不足で滝が枯れるなんて、聞いたことないぞ?」
「でも、確かにそれしか考えられないかも」
「ねぇ、みずぶそくってなぁに?」
ミナが、相変わらず能天気な顔で小さく首をかしげた。
「あのね、今年は六月に全然雨が降らなかったでしょ? だからダムの水が干上がっちゃって、町中で水が足りない状態なの。だからプールも中止になっちゃったし、ミナちゃんもお母さんに、お水を無駄遣いしちゃいけません、って言われたでしょ?」
「うん、言われた〜」
幼稚園の先生みたいに優しい声で、ナツミがミナに説明する。ミナは、元気いっぱいにこくん、とうなずいた。
全く、ナツミのやつ、いつもこれくらい優しければちょっとはかわいいのになぁ。
いや、ぼくたちにこんな優しかったら気味悪いだけか。
「あーあ、滝がないなんてなぁ。全く、何でこんなときに限って水不足なんだよ。楽しみにしてたプールもなくなるし、最悪!」
リョータが機嫌悪そうに地面に座り込む。そこは岩壁から三十メートルくらい離れた、森の切れ目の辺りだ。
きっと、自分が目的地を変えようって言い出したのに、目的のはずの滝が見られなくて、ぼくたちにも悪いと思っているんだろう。昔から、そういうとこ妙に責任感じるタイプだからなぁ、リョータは。
確かにぼくもかなりがっかりはしたけど、水不足が原因だとすればしょうがない。自然には太刀打ちできないからね。
「まぁ、しょうがないよ。このあたりでちょっと休んでいこうか」
ぼくはそう言って、リョータの隣に腰を下ろした。
リョータがチラッとぼくの方を見て、目だけでサンキュ、って言ってくる。ぼくも、どういたしまして、と目で返す。リョータとぼくは長年の付き合いだからね。これだけで話は通じるもんなんだ。
「滝がなくたって、ここは結構いい景色だと思うな」
リョータを慰めるようにそう言って、ナツミもぼくの隣に座り込んだ。ほんとにすぐ近くに座るもんだから、ショートカットの黒い髪の毛からシャンプーの香りが漂ってきたりして、ぼくはちょっとだけドキッとする。たぶんそれは、ちょっとびっくりしただけ。ただそれだけだ。
三人とも土がむき出しの地面にそのまま座り込んでる。ナツミは他の女子たちと違ってジーパンのお尻が汚れることなんて気にしないから、ぼくたちも気を使わないで山登りや川遊びに誘うことができる。そんなところも、ぼくたちとナツミが仲良くしてる理由のひとつだ。
「すっごい大きい壁!」
ミナだけは立ったままで、あちこち走り回っては目の前の岩壁をものめずらしそうに眺めてははしゃいでる。
確かに、滝なんかなくても、遥か天までそびえるカラフルな縞模様の岩壁は、それだけで十分に壮大だった。
ぼくたちがいつも見ているような、コンクリートの人工的な灰色の壁なんかとはまるで違う。壁とは言っても平らなわけじゃなくて、尖った形の岩が突き出していたり、ふかふかと触り心地がよさそうな深緑のコケがびっしりと生えていたり、くねくねと曲がりくねった小さな木の枝が所々伸びていたりして、巨大な壁一面、一ヶ所として同じ景色のところがないんだ。
「でもやっぱり、滝がなぁ」
隣でリョータが、ため息をつきながら呟く。
「うん、まぁそれは確かに」
滝がなくてもこれだけ立派な岩壁だ。ここに白い飛沫を上げて流れ落ちる水の柱があったなら、それはきっとさぞかし壮大だっただろう。そんなことを、やっぱりぼくも思ってしまう。
すっかり落ち込んだ様子のぼくとリョータを見て、ナツミも思わず黙り込んでしまった。