辛口フレーズ
からん。
瀟洒な木製の扉。その上部に取り付けられたベルが客の来訪を告げる。
「いらっしゃいませ」
蝶ネクタイ姿のウエイターが、きっちりと綺麗な角度で頭を下げた。
背中に物差しでも入っているかのような機械的な動きに、制服姿の二人は思わずたじろいだ。
ここは有名パティシエが経営している高級スイーツ専門店。一流ホテルにケーキを卸していることでも知られている。
「千葉、本当にこの店、入んの……?」
黒を基調としたシックな内装を目の当たりにした結城は、一枚板と思しきテーブルから目を離せないまま小声で囁いた。
しかし、千葉からの返事はない。代わりに「うう……」という呻き声が返ってきた。はたと気づいて隣を見やれば、千葉が長身をくの字にかがめて口元を手で覆っていた。
予想通りの展開に、結城は額を抑えた。
千葉にとってスイーツ特有の甘い香りは脅威なのだ。どうにも体が受け付けず、胸がむかむかとして吐き気をもよおすのだと言う。身をもってそれを知っている結城は、ここに来るまでに再三、千葉を止めた。
今ならまだ間に合う。ウェイターには申し訳ないが、ここは引き返すべきである。
結城は千葉の袖を引いた。
しかし、千葉は首を横に振った。
「止めるな、結城。俺は最高の店の、最高のショートケーキを注文するんだ」
口元から手を外し、それを拳の形に握り締め、千葉は確固たる意思を持って足を踏み入れた。
結城は盛大にため息をついた。
一つ、自分たちには不相応に高級すぎるこの店に入ること。
一つ、甘味アレルギー体質(?)の千葉がスイーツの店に入ること。
二つの不安が結城の胸中を渦巻いたが、置いていかれても困るので仕方なく結城も後に続いた。
千葉は口下手である。ゆえに無口だった。しかし端正な顔立ちをしていたために『クールで格好いい』と女子の人気が高かった。甘いものが駄目な点もそれに一役買っているらしい。
そんな彼には密かな趣味があった。ネット上に小説を投稿することである。しかも何故か『恋愛』カテゴリーの作品が多い。この事実を学校の者が知ったなら、あまりのギャップに千葉の人気はますます鰻上りか、あるいは地の底まで失墜するか……。少なくとも時の人になることは間違いないだろう。もちろん、千葉自身が公表する気がないので余計な心配であるのだが。
今のところ千葉のペンネームを知っているのは結城だけである。
そして今回、千葉は執筆仲間と『ショートケーキ』をお題に作品を書くことになった。
なんでまた天敵のスイーツについて書く羽目になったのかと、結城は哀れむような視線を向けた。
千葉は真剣な顔でメニューを睨んでいた。
「……結城、ショートケーキが載っていない」
掠れた声で呟いた。
結城は苦笑して、メニューの一番上の行をとんとんと指先で叩く。
「『フレーズ』って書いてあるぞ」
「『フレーズ』ってのはフランス語で『苺』って意味で、この店では苺のショートケーキのことだよ」
「結城って物知りだな」
「まあね。特に苺のショートケーキはケーキの中でも一番好きだから」
千葉は結城に飲み物を訊くと、すっと手を上げた。そんな何気ない仕草が妙にさまになるので、女子にもてるのも納得がいくと結城は思う。
合図に気づいたウェイターがやってくると、千葉が注文した。
フレーズとレモンティーに、ホットコーヒー。
当然のことながら、千葉自身はケーキなど食べない。食べられるわけがない。コーヒーを飲みながら、結城がケーキを食べる様子を観察する腹積もりだろう。
ウエイターが下がると、おもむろに結城が口を開いた。
「いったい、どういう話を書くつもり? 千葉はよく自分をモデルにしているみたいけど……?」
自分をモデルにどうやってショートケーキの話を書くのだろうと、結城はずっと疑問に思っていた。
「ああ、それか。自分をモデルにすることも多いけど、結城をモデルにすることも多いから」
「知っているよ」
「だから、結城が思う存分、味わってケーキを食べてくれればいい」
「はあ?」
釈然としない結城は間抜けな声を上げた。
ほどなくして、ウエイターが今日の主役を運んできた。
「お待たせいたしました」
真っ白いクリームに真っ赤な苺。ホイップクリームで優雅にドレスアップされた、なんとも見事な、これぞショートケーキといった姿である。
結城の前に温められたティーカップが置かれ、千葉の前にも同じく温められたコーヒーカップが置かれた。一客一客、意匠の異なるカップである。
ウエイターはそれぞれのカップにそれぞれの飲み物を注ぐと、結城の傍にティーポットを置いた。紅茶のお代わりが入っているらしい。それからミルクピッチャーを千葉の傍に置き、ウエイターは下がった。テーブルには初めから白い角砂糖とコーヒーシュガーがシュガーポットに収められている。二人が見慣れているような袋入りのグラニュー糖ではなく。
千葉は目線で結城にケーキを勧めると、自らはコーヒーカップを手に取った。彼にはミルクも砂糖も必要ない。結城も楽しみなケーキは後に回し、とりあえず紅茶にレモンを絞った。千葉と同じく砂糖は入れない。甘党の結城だが、よりケーキの味を楽しむためにあえて紅茶は甘くしない主義なのだ。
結城はじっとショートケーキを見つめた。
スポンジのきめが綺麗に整っている。ケーキにこう言うのも変であるが、『美しい』ケーキだった。場違いな店にいるという緊張を忘れ、結城はケーキに見惚れていた。
「……食べないのか?」
遠慮がちに千葉が尋ねた。叱られた子犬のような眼差しが可笑しくて、結城は茶目っ気を出して「ちっちっち」と人差し指を左右に振った。
「ケーキは目でも楽しむものだよ、ミルフィーユ君」
「何だよ、『ミルフィーユ君』って?」
結城はにやりと笑った。いつか千葉にこれを言ってみたいと思っていたのだ。
「『ミルフィーユ』を知らない?」
「ケーキの名前だろ?」
少しむっとしたように千葉が眉を寄せている。実は結構単純な千葉は、からかうと面白いのだ。結城は笑いを抑えつつ解説をした。
「パイ生地にクリームを挟んだケーキね。葉っぱのように見えるパイが何層にも重なっているから、『ミル』――フランス語で『千枚』の、『フィーユ』――『葉っぱ』という意味。つまり、『千葉』だよ」
自分の苗字が天敵のスイーツと同じと知って、千葉はげんなりとした顔をした。予想通りの反応に結城は笑いを隠せない。ひとしきり笑ってから千葉を見れば、彼は眉間に皺を寄せながらコーヒーカップを鼻先に運んでいた。
「ごめん、ごめん」
「俺はケーキから漂う甘ったるい香りに閉口して、清浄な空気を求めているだけだ」
千葉らしい言葉だ。
すっかり緊張の解けた結城は、さてそろそろ、とフォークを手に取った。白雪のようなショートケーキの端に、すっと銀色の光を落とす。
クリームはもとより乙女の柔肌のようなスポンジも抵抗なく切れた。切ったひとかけらを口に入れ、軽く目をつぶる。
「うわぁぁ、最高」
フォークを握り締める結城。千葉がほっとしたように相好を崩した。
千葉の見守る中で、結城は丁寧に味わいながら、ゆっくりとケーキを食べていく。
クリームの、しつこくない程度の絶妙な甘さ。
スポンジの、舌に乗せると蕩けるような滑らかさ。
苺の、全体を引き締めるような程よい甘酸っぱさ。
――一口一口を大切に口に運んでいく。
「まさに苺(一期)一会だね」
結城のくだらない洒落に千葉は苦笑しつつ、「案外、的を得ているか」と満足げだった。
ふと、結城は気になった。
「ところで、甘い匂いは大丈夫?」
「だんだん麻痺してきたから、もう何も感じなくなった」
スイーツに対する冒涜を吐く千葉に、結城は返す言葉がなかった。
結城は千葉の創作意欲を掻き立てるような見事な食べっぷりだった――か、どうかは分からないが、少なくともケーキを作ったパティシエは満足したであろう。綺麗になった皿を前に、結城は実に幸せそうに顔を緩ませていた。
レモンティーを口に運びつつ、思い出したように言う。
「千葉、どうしてレモンミルクティーがないか、知っている?」
考えてみたこともなかったのだろう。千葉はしばらく沈黙した。
喫茶店などで紅茶を頼めば「レモンにしますか、ミルクにしますか」というお決まりの文句がくる。そして「両方」と答える人はいない。
「……何故だろうな?」
千葉の答えに、結城は不敵に笑った。お代わり用の紅茶を注ぎつつ、「実験してみよう」と、レモンとミルクをティーカップに加える。
「…………」
ティーカップの中には、もろもろした謎の白い物体が合成されていた。目を丸くする千葉に、結城はにんまりと口角を上げる。
「温めたミルクに酸を入れると凝固する、って知らなかった?」
「あ……。そうか」
千葉の反応を楽しみながら、結城は昔、兄と実験したことがあると告白した。温度が低いとうまくいかないとか、自家製カッテージチーズができるのだとか、余計なうんちくを加える。そして、その物体を平然と口に運んだ。
「うわっ、そんな怪しいもん、食うな!」
何故か血相を変えて、千葉は慌てて止めた。
「怪しい、って……。チーズだよ? 毒じゃないし、食べ物を粗末にしたらいけないんだよ?」
「俺が食う」
千葉は強引にティーカップを奪った。
そんなこんなでテーブルの上のものがすべて空になったので、二人は帰り支度を始めた。
「で、何か書けそう?」
「目的は果たせた」
微妙にずれた返答に結城は首を傾げるが、千葉は構わずテーブルに視線を這わせている。彼は伝票を探していたのだが、こんな高級店ではそんなものはない。ウエイターが覚えているのでレジに行けばきちんと請求されるのだ。
勘付いた結城が慌てて言う。
「こっちがいい思いをしたんだから、割り勘でいいよ」
誘ったのは千葉だが、注文する際に金額をチェックしていた結城には、奢れとは言えなかった。ケーキを食べていない千葉にも半額払えと言っているあたり、なかなか公平な判断だろう、と結城は考える。
「いや。俺の奢り」
「千葉が誘ったから?」
「違う。今日は結城の誕生日だからだ」
どきり、と結城は自分の心臓の鳴る音が聞こえた。
「あ、ありがと。……やっぱり知っていたんだね。嬉しいな」
「当然だろう。俺は結城が好きだからな。結城の誕生日に、最高の店の、最高のショートケーキを食べさせたかっただけだ」
結城は思わず手にしていた鞄を落とした。
いきなり直球ストレートな発言にどうリアクションしたものかと、セーラー服のスカーフの端をくるくると指先で弄ぶ。
「えっと……。『ショートケーキ』が小説のお題だって話は?」
「別に嘘じゃない。結城をケーキ屋に誘う口実にするために、俺が提案したお題だけどな」
千葉は顔を赤らめるわけでもなく、正面から堂々と結城を見据えた。
視線を漂わせながら結城は頭をフル回転させた。いつもと立場が逆転したようで悔しい。 しばし考えた末、やっとのことで起死回生の文句を見つけた。
「……千葉の小説を読んでいるんだから、分かっていたよ」
「伝えるために書いていたんだから、分かっていて当然だろう」
畳み掛けるように千葉が言う。結城は、観念して肩をすくめた。
「…………お兄ちゃんとはレモンミルクティーの回し飲みはしなかったよ」
結局、千葉が会計を済ませた。
「ありがとうございました」
機械的にウェイターが頭を下げる。
からん。
扉のベルが二人を見送った。
初々しいカップルだったなぁ、とウエイターは思っていたが、彼はプロなのでそんなことはおくびにも出さなかったし、当然、二人が知る由もなかった。