文通から始まる恋について
拝啓。
いかがお過ごしだろうか、まさか君から手紙をもらうことになろうとは、想像すらしたことがなかった。この時代にアナログな手法をとるあたり、君の時代錯誤なロマンチストぶりをよく示している。しかし、とりあえずそれは同性ではなく異性に対してやることをお勧めしておくことにしよう。君の友人を自負するぼくですら若干引いたのだから、そうでない人はドン引きである。
さて、僕が卒業した後の我が懐かしのキャンパスで君が修士課程に進むことは知っていたが、まさか君が研究室を鞍替えするとは思っていなかった。制度上禁止されていたわけではないにしても、わざわざ、人気の研究室でも評判の優秀な研究性が不人気研究室に映る事は無いだろうに。正気を疑うところだが、まあ、君の決めたことである。好理系の学部から公務員として就職した僕が、あれこれ言うのも筋違いだろうから、好きにするといい。君のことだから、どこへ行ってもそつなく研究をこなしていることだろうと、思っておくことにしておく。
さて、このあたりで僕の近況についても語っておくことにしよう。まったく興味がなかったならば君も手紙を送りはしなかっただろうし、書いて悪いこともあるまい。
知っての通り、僕は今とある地方自治体において市役所職員として働いている。ちょうど一か月ほどたったが、まだ仕事に慣れたとは言えない。まあ、一般事務ならばそう忙しいものではないだろうという昨年の自分の予測が甘かったということである。世の中楽して金を稼ぐことはできない。釈迦に説法だとわかっているが、先に社会人となった友人からこう言わせてほしい。
僕が配属されたのは介護保険関係の部署である。毎日、毎日、年寄りばかりが窓口へやってきて、電話をかけてくる。さらに言えば、係にいる先輩方は中年男性か中年の女性ばかりである。出会いの気配はない。楽かと思っていたというのに、毎日忙殺されて僕の心は荒んで行くばかりだ。生活に潤いがほしい。
こうして思ってみれば、大学で研究に励むという君の選択は正解であったのかもしれない。
ああ、華やかな大学生活が懐かしい。むさくるしく、苦しいばかりだと思っていたはずなのに、今にして思えばあの場所は楽園だったのかもしれない。いや、それは錯覚である。昨日を目指して未来はない、まだ見ぬ出会いを夢見て、僕は男を磨くことにしよう。
君もせいぜい頑張ると良い。
森田郁夫
我が友 恋に燃える研究生 相馬隼大へ
拝啓。
君からの返事はまだ来ないが、今日は一つ文句を言わせてもらうことにしよう。君はいったいどういうつもりか知らないが、どうやらあの桐原咲月に僕の手紙を見せてしまったらしい。とんでもないことだ。
君は知らないだろうが、僕と桐原の間には浅からず深からぬ因縁がある。言っておくが、君が考えるような甘酸っぱい話ではなく、どろどろとしたものではなく、バイオレンスな因縁である。君が桐原に片思いをしていることも、だからこそ研究室を鞍替えしたこともわかっているが、どうか僕を巻き込まないでほしい。これ以上君があの女に僕の情報を売り渡すようであれば、僕にも考えがある。これは脅しではない、僕だってやるときはやる男であるのだ。繰り返すが、これは脅しではない。
まあ、今のところ大した損害が生じていないのでこのあたりにしておくことにしておこう。大人の男はいつまでもぐちぐちと拘ったりしないものである。僕は大人の男であるから、君の過ちを笑って許してやることにしよう。
しかしこの際、君の恋心に水を差すのもなんだと思って今まで控えていたことを言ってしまうことにする。ほかでもない、桐原についての話だ。どうだ、興味がわいただろう。
あの女に関する悪口を語らせれば、僕は一晩語っても語りつくすことはできないだろうし、紙面を埋めても足らないだろう。なので、その辺りのことは控えることにしよう。何よりも僕は大人の男なのだから、過ぎ去った過去のことについていつまでも拘ることはしないのだ。
あの女はやめておけ、姿かたちに騙され近づけばとんでもないしっぺ返しを受けることになるだろう。学生生活四年間の中でどれだけの男子学生が泣かされて来たのか、君だって知らないわけではないはずである。賢い僕はそれを知っているからこそ、徹底して真摯な態度を貫き、惑わされずに二人きりの研究生活を、一年間乗り切ったのだ。あの女はそのことに関してある種の友情を抱いているようだが、僕は今この通り自由の身である。ともかく、これで僕から君への責任を果たしたことにさせてもらう。どうせ言って聞く君ではあるまいし、僕としてはあの女を君がどうにかできるのであれば、そうしてくれた方がありがたいともいえる。何せ今、僕の家にはあの女からの手紙が既に二通も届いているのだから。奴は僕の文通相手を自称するつもりなのかもしれないが、そうは問屋が卸さない。
大人の男 森田郁夫
恋に惑う相馬隼大へ
拝啓。
私の悪口をいろいろと書き綴ってくれたようでありがとう。私の手紙に対する返事を書かないくせに男には手紙を送り続けるなんて、郁夫君は同性愛者なのでしょうか。通りで一年間紳士的な態度を崩さないと思ったら、そういう事情があったのですね。
私の近況についてあれこれ書いても仕方がないと思いますが、一応、研究が順調に進んでいることは知らせておきます。まあ、裏切って研究を投げだしたあなたには関係のない話でしょう。
相馬君はあなたと違って勤勉で非常によく働いてくれます。そもそも、主席である彼とあなたを比べること自体、彼に失礼な話です。どうやらあなたはあなたで忙しいそうですが、そんなものは誰のせいでもないあなたが選んだ結果です、わざわざこれ見よがしに手紙に書いて同情を誘おうとするのはやめなさい。そんなことだからあなたはいつも後悔することになるのだと、いい加減学びなさい。まあどうせ、言ったところで聞くあなたでも、無いでしょうけれど。
忙しいというのはあなたの口癖でしたが、相変わらずのようで安心します。口でしゃべらせても、手紙の文面でも、人は変わらないものなのだと、あなたは私に教えてくれました。おそらく、私の人生の中でも一二を争うどうでもいい情報でしょうが。思えば、あなたが教えてくれたことには碌なものがありません。あなたの軽薄な人間性をよく表しています。地獄へ落ちて自分の人生がどれほど非生産的であったか反省しなさい。
研究の路線そのものは、貴方の言っていた方向に集約していますが、そこにあなたの功績はないし、もしも私たちの研究がこの先世界的な発見につながることがあったとしても、あなたの名前が世の中に出ることはないと知りなさい。何事も全うしなければ意味がないというのが、世の中の仕組みです。あなたが投げ出したものにあった輝きをいまさら嘆いたところで、覆水盆に返らず、零れたミルクは戻らない。せいぜい、過去の自分の選択がどれほど浅薄極まりない、軽佻浮薄な行為であったことを心に刻み後悔してください。私は私で、貴方と過ごした一年間という時間の浪費を後悔している最中です。くたばれ。
ところで話は変わりますが、近ごろ大学のそばで菜の花畑がきれいです。そういえば昨年はあなたと二人で見に行ったような気もしますが、今年は一人で見に行きました。一人で見る菜の花畑は格別で、心が洗われる思いです。
桐原咲月
自称大人の男さんへ
おひさしぶり。まあ、顔を合わせずに久しぶりもないのでしょうけれど。
あなたが研究室を去ってから既に三カ月がたちました、季節が巡り、新しく研究室に入った人たちもすっかり馴染んでいます。すでにこの研究室にあなたがいたという痕跡を見つけることも難しくなりました。これは、日々、私が欠かすことがなかった掃除の成果です。
あなたが長々と、女々しく、言い訳がましく語ってくれた言い訳については、今更わざわざ書面にしてくれなくてもわかっています。あなたにはあなたの事情があることだって、私はきちんとわかっているのです。ただ、大学院への入学手付金まで支払っておきながら、それを翻して就職することに決めたあなたの頭の中身だけは、理解することが出来ないというだけです。
繰り返しますが、もう言い訳は必要ありません。
なんにせよすべて終わったことであって、貴方にとって学生生活というものは過去でしかなく、取り返しがつくものもありません。私にとって昨年、一年間が取り返しのつかない失敗であったように、貴方にとってもそうなのでしょう。だからこそ、それをいち早く理解したあなたは就職の道を土壇場であってもとったのではないでしょうか。賢い選択です。地獄に落ちるまでそうしていなさい。せいぜい。
それはそうとして、こうして暑い季節が迫ってくると、昨年のことを思い出します。つまり、貴方と二人しかいなかった頃の話です。熱くてじめじめした鬱陶しい季節に、貴方の鬱陶しい髪の毛を刈り取った思い出。胸がすく思いでした。嫌がるあなたを縛り付け、泣き叫ぶあなたの髪の毛を切る夢を今でも見ることがあります。ああ、あのころは本当に楽しかった。
ところで、髪の毛はきちんと切っていますか?
公務員なのだから、身だしなみは人並み以上に気を遣わなくてはなりません。もしもやましいところがあるのならば、一度休みの日にでも研究室へ来てください。何をするとは申しません、ただ私のストレスが解消され、一人の公務員がさっぱりした髪型になる。一挙両得どころか、社会全体に対して良い影響を与えることになるでしょう。我ながら良い思い付きです。どうせ遠い場所でもないのだし、ぜひそうしなさい。
では、ストレス解消の良い機会を心待ちにしております。あなたもせいぜい体に気を付けて社会のために奉仕してください。そうすることを決めたのはほかならぬあなたなのですから。
ではでは。
桐原咲月
言訳大臣へ
お久しぶりです。
覚えていますか、後輩の柳原です。先輩のいた実験室に入ることになりましたので、ここで報告させていただきます。もしかしたら桐原先輩や相馬先輩から聞いてらっしゃるかもしれませんが、一応。
先輩は新しい環境で苦労をされているらしいという話を耳に挟みました。まあ、先輩方が談笑してらっしゃるのを盗み聞きしていたのですが、とりあえず私は心配していません。大変だ、とか。面倒だ、とか。先輩の口癖でしたから。ですからきっと口ばかりで、今も先輩は暢気にのらりくらりと生きてらっしゃることでしょう。それから、私の方は元気で楽しくやっています。先輩の作った実験ファイルはありがたく利用させていただいていますし、各種フォーマットもありがたいです。日に三度先輩に拝まずにはいられない毎日、先輩さまさま、ありがたやー。
拝みついでに、研究室の近況について報告しておきます。先輩のことだから、気にしていない顔をしながら気になっていないように思わせて、そこまで気にしていない事でしょう。しかし、自分にかかわりのない、それでいて知らないわけでもない場所での人間模様は、適当に楽しむには最良の娯楽です。これは先輩が教えてくれたことなので、その教えに従うと同時に、先輩に対する恩返しとして報告させていただきます。
桐原先輩と相馬先輩が急接近中です。相対速度は光速を突破、過去へさかのぼり時間軸を破壊する勢いで接近し、華麗なる擦れ違い劇を披露してくれています。私としては見ていて楽しい限りで、先輩の教えが正しかったことを日々かみしめております。それはそれは、そこに人生の縮図があったのだと、十年後の私は語っていることでしょう。悲劇と喜劇をない交ぜにして煮込んで煮詰めて、練って固めた不思議な食べ物が出来上がりそうな気がしてきました。とてもとても、言葉で表すことはできません。いっそ、私の卒業論文はこれをテーマにしてしまいたい。このテーマであれば、私は世の中すべての人をうならせることが出来そうな気がします。
とはいえ、気がするだけでしょう。きっと、先輩はうなりもせず、私の論拠の穴をついて、思ってもみなかった本質をついてくれるのです。本当に、自分にかかわりのない事ばかりに鋭い人でした、先輩は。
というわけで、一度研究室に足を運んでもらえるとうれしいです。から廻っている恋心について、後輩に本質を教えてください。
柳原由香里
森田郁夫様へ
拝啓。
さびしいわけではないが、君からの手紙が途絶えがちなのでこちらから送ってみた。しばらく顔を合わせていないと、相手が何を考えているのかさっぱり分からなくなってしまうから困る。君を含めて、大学時代の友人、知人は、みんな僕の思い出のアルバムの中に納まってしまったのかもしれない。まあ、若干名、そこに納まろうとしない知人もいるのだが、それが僕の人望ゆえであると考えれば案外悪い話でもないのだろう。しかし、人間、前を向いて生きてゆかなければならない。どんな人間にだって事情があり、守るべきものが出来る時も来る。どうだろうか、僕は今何かいいことを言おうとしたいたはずなのだが、着地点を決めていなかったのでどうしようかと思っている。君の方でぜひ、この言葉を締めくくる格言めいた一言を考えてほしい。ふりと落ち、ボケと突っ込み、僕たちの間は案外そういうものであったのかもしれない。そう考えれば、攻守交代、いつだって君のばかのしりぬぐいをしてきた僕の言葉を完成させる言葉を考えることだって君にとって悪い話には聞こえないはずだ。
まったく、書いていて思ったのだが、働き始めてからという者、僕は言い訳ばかりがうまくなってしまっているような気がしてならない。詐欺師でもないのに口がうまくなるとはこれいかに。むしろその対極にある職業のはずである。中年ばかりいる職場にいると心がすさむ。
そういえば近頃、別の部署にいる先輩に妙に気に居られている。先輩というほど年齢も近くないのだが、いったい僕のどこが彼の琴線に触れたのだろうか。もしかしたら、将来、姿勢を背負うに値する人間であることを見抜かれたのかもしれないが、僕にそんなもの背負う気がないのだからどうしようもない。とりあえずシュークリームを頂いたので、これを書きながらありがたく食べているところだ。美味しい。
しかしどうしたものか、僕の生活をひっくり返したところで若い女性を書くための材料が見当たらない。まさか毎朝通勤途中に見かける女子高生について書いたところで仕方がないし、どうにも僕が変態である印象しか伝えることが出来そうもない。そういうわけで、ここは一丁、現役の学生たちに縁がある君に一つ頼みたいと思う。
僕に出会いをくれ。
これは真剣な願いであるから、くれぐれも誠実に対応してほしい。僕は飢えている、そんな折に妙なからかい方をされたら、流血沙汰も辞さない。
森田郁夫
筆不精の友人へ
拝啓。
先日の会、君が君なりに考えてくれた結果なのだと思うが、君の欲望が漏れていて僕にとって有益であったかどうかは疑わしい。まあ、少なくとも若い人間とのふれあいという目的に関しては、遂げることが出来たような気がしないでもない。どうだろうか?
我らが後輩である柳原が君と同じ研究室にいることは、実を言うと知っていた。君はもしかしたら僕が驚くことを期待していたのかもしれないが、僕はそこほど世間に疎い人間ではない。それから、君が思うほど柳原とも親しくない。ただ、ほんの少し馬が合うだけである。彼女のねじまがった根性は、僕たち男の価値観に近いのだろう。まあ、そういうところに女性として魅力を感じるかと言えば、答えは否であるのだが。あれは友人としては理想的であるが、恋人としては最低の女である。
まあ、柳原に関しては良い。どうせ一度は顔を突き合わせて話をする必要を感じていたのだ、あの女が僕のいう事を本当に分かっているのかどうかは疑わしいが僕としては言うべきことは言うことが出来た。
問題はもう一人、桐原のことだ。僕は確かに君言っていたはずである。僕はあの女と一方的な戦争状態にある、と。僕は元来優しい性格をしているので、誰かに対して面と向かって罵ることはできないし、暴力なんてもってのほかだ。そんな僕に対する罵詈雑言、君のいないところで何があったのか、一部始終は柳原にでも聞いてほしい。あの女は僕をかばうふりをして火に油を注ぎ続けた。
大体、我が懐かしの研究室に足を踏み入れた瞬間、はさみを突き出されたのだ。命に危険を感じた。腰が抜けたところを柳原と二人係で縛り付け、泣き叫ぶ僕を容赦なくあの女は切り刻んだのだった。とんでもない話だ。あの情景を誰かが目にしていたら、きっとその人は警察に通報していたに違いない。ぜひそうして欲しかった。誰か助けてほしかった。
そしてそんなこと以上にショッキングだったのは、桐原には知られていないとばかり思っていた僕の勤め先をいつの間にか知られていたことである。僕にはもう逃げ場がない。助けを求めたところでその相手もあの女の手先なのだろう。君のように。
友情とはこんなにもはかないものなのか。君は桐原に気に入られたい一心で僕を売ったのかもしれないが、しかし冷静に考えてほしい。友人を売るとか人間的にどうだろう、と。
そんな事をしてまでフられた君に乾杯しながら僕は酒を飲む。
森田郁夫
傷心の友人へ
久しぶりに手紙を送る。俺がせっかく手紙を送ってしまった自分に気持ち悪さを恥じていたというのに、それを指摘した君が文通をしているとはこれいかに。もしや自分の相手は女だから許されるのだというつもりか? そうなのだろう、地獄に落ちるといい。
良い機会なので報告しておこう。おれは失恋した。どうしようもなく、壊滅的に破壊的に絶望的に失恋した。一瞬、死ぬことが頭をよぎるほどの衝撃だった。ふられることを考えていなかった自分の甘さを呪い、彼女の目がこちらを向いていないことに気が付かなかった自分の見る目のなさを呪った。彼女と本当に楽しく話をしていると思っていたのだが、考えてみれば、俺と彼女の間にはいつだって手紙があったのだ。まったく、恋は盲目とは、よく言ったものだ。結局、最初から最後まで、俺の独り相撲だった。彼女はきっと、一度だって俺の方を向いた事は無かっただろうし、ずっと近くではなく遠くを見ていたのだ。
失恋したからには、それを認めたからには、それはここまでだ。引き摺っても仕方がない、引き摺ってしまうことも仕方がないが、せめて自分の心だけは引きずることをやめるのだと思うことにしようと思う。
心を入れ替えて研究に集中する。こうなればいっそ、この道での第一人者にでもなっていつかどこかでテレビでこういうのだ。原動力は失恋です、失恋の痛手をばねにしてここまでやってきました。私がここに立っていることが出来るのは、あの日抱いた心の痛みがあるからです、と。
ああ、心が痛い。そして寂しい。耐え切れなくてこんな手紙を書いてしまうくらいさびしい。俺を慰めてほしい。切実に。今優しくされたら俺は誰にでも惚れるだろう。情けない男だ。書いていてまた死にたくなってきた。俺はだめな人間である。私は貝になりたい。生まれ変わったら苔にでもなりたい。
見苦しい文章を済まない。しかし、それほど取り乱しているのだ。こうして書いていて、自分でわかっていてもどうしようもないくらい取り乱している。こんなにも本気だったのだと、自分でも驚くくらいだ。こんなにも人を好きになることは初めてで、こんなにも人を好きになれたことを誇りに思い、思いが通じなかったことが悔しい。
出来ればどうか、俺に足りないものを教えてほしい。どうか、どうか、そうでもしなければこの失恋が浮かばれない。そうでもしなければ俺は前に進めない。
友人としてお願いする。
相馬隼大
森田郁夫様へ
こんにちは。
もしも先輩がよるに読んでいるのならこんばんは。まあ、私は昼間にこれを書いているので、こんにちはとさせてもらいます。考えてみたら、先輩の事情なんて考える必要がありませんでした。
先日の合コン、本当に楽しかったです。相馬先輩があんなに面白い人だなんて、私思っていませんでした。あそこまで人間がから廻ることが出来るだなんて、誰が想像できるでしょうか。私、少しだけ相馬先輩に興味がわきました。今の傷ついている姿なんて、最高にキュートです。桐原先輩はああいう人に興味はないでしょうけれど、あれはあれで、女性に好まれるタイプだと私は思います。そんな慰めの言葉を送ったところ、相馬先輩は一週間、自分探しの旅に出てしまいました。その一週間のことを話してくれませんが、きっといろいろなことがあったのでしょう。いつか聞いてみたいと考えています。
いいえ、必ず聞き出して見せようと考えています。
先輩の方はどうでしょうか、散髪の時はひどく憮然とした顔をしてらっしゃいましたが、なかなかどうして、桐原先輩は髪の毛を切るのが上手ですね。手馴れているような気もしましたが、もしかして昨年はいつもああしていたのでしょうか。非常に甘酸っぱい感じで私の食指をそそりそうな匂いがします。まあ、桐原先輩はからかうと真剣に怒るので桐原先輩から聞き出すことはできないでしょうけれど。
とりあえずこれから先、私の照準は相馬先輩に向けることにします。ですので、先輩との文通も疎遠になることでしょう。せいぜい桐原先輩と仲良く文通していてください。桐原先輩がどんな手紙を書いているのか実際に見たことはありませんが、たぶん、あの人の手紙は都合よく話半分に受け取るのがちょうどいいと思います。そもそも、酔った勢いで抱き着いたりする相手を、真剣に嫌っているわけがありません。
というか、髪の毛を切ってくれる相手が自分を嫌っているだなんて、いったい何をどう理解したらそういう風になるのか、一度教えてほしいです。頭おかしいのですか、先輩は。もしかしたらお互いに意地を張りあっているのかもしれませんけれど、それはそれでお二人ともバカです。こんな事を、尊敬する先輩に言いたくはありませんでしたけれど。
けれど何となく、相馬先輩のためにそう言ってもいいかなあと、そう思ったのです。あの人も、いい面の皮ですから。
もう少し素直になればいいのに。
柳原由香里
もどかしい先輩へ
拝啓。
まずはこの手紙を書くまでに比較的長い時間が空いてしまったことをわびようと思う。以前の会合から大凡一月半。君が心配したのも無理からぬ話なのかもしれない。何はともあれ、心配をかけたのであれば、その事について詫びなければならない。
特に大きな理由があったわけではない。少し忙しくなり時間が取れなかったことと、僕自身、いろいろと考えたいことがあったからである。うんざりしそうなくらい忙殺され、いったい何がやりたくてここに居るのかわからなくなってしまっている。
誰も悪くないのかもしれないし、納めるべきものを納めようとしない年寄りが悪いのかもしれないし、僕が悪いのかもしれない。もしかしたら、いや、誰が悪いと言ったところで、責任の所在に責任を求めることも、出来ないのだ。
みなまで言うな、遅れてきた五月病という奴だ。愚痴をこぼす人間をことごとく下に見てきたこの僕がこうして、他ならぬ君に愚痴をこぼすなんて、いっそ罵ってくれていい。むしろそうしてくれれば、怒りをばねにして立ち上がれるかもしれない。何もかもどうなっても構わないというこの気持ちを、いったいどこに捨てたらいいのか、誰か教えてくれないだろうか。
夢と現実なんて、そんなふわふわした話を真剣に考えなければならないという事実そのものが嫌だ。嫌だ、全部嫌だ。こんな事を考える自分が一番嫌だ。自分で決めたことを後悔しそうな事実そのものを闇に捨て去ってしまいたい。どうかしているだろうと思うのだが、いっそ開き直って淡々と生きていきたい。機械のように手だけ動かして生きていいのならば、それを選んでしまうかもしれない。
とか、思っていたわけだ。
そんな折に、君からの手紙が届いた。つまり、先日の手紙である。
それに関して余計なことを言えば絶交されても仕方がなく、それについてからかえば裁判沙汰になっても文句が言えない、というくらい真剣な手紙だった。しらふであれを書いたのならば尊敬するが、君のことだからしらふで書いたのだろう。あるいは、酔っ払ってあんなものが書けるかと、言うのだろうか。
柄にもなく恥ずかしい事を言えば、勇気づけられた。自分が間違っていなかったことを再確認で期待し、間違っていると言われようが構わないと思い直すことだってできた。
なので、君に伝えたいことがある。いろいろと込み入ったようで単純な話であり、時間はとらせない。では、近々会おう。
森田郁夫
桐原咲月様へ
拝啓。
しばらくぶりである。あの頃君から届いた手紙が押入れの奥から出てきたので、懐かしく思いつつこれを書いた。読み返してもこみあげてくる隠しきれない気持ちの悪さは、時間をおいても和らぐことがない。なぜ僕はこんなものを保管していたのだろうか。君の方は僕の手紙を捨ててしまっていることを希望する。
前にあったのは君の結婚式だったか。いったい何がどうなった結果君たちが結婚するに至ったのか、今でも僕には理解できない。あの女、かなり性格が悪いのに君はどうして彼女と結婚したのだろう。考えても、考えても、答えが出ない。まあ、考えても仕方がないという事なのだろう。そもそも、惚れただのなんだのと言う話に、明確な理論などないものだ。理由だって、在ってないようなものだと僕は考えている。君だってそうだろう、なにをどう説明して自分達のなれそめを語ったところで、もしかしたらその前から彼女に惚れていたのではないかと感じるかもしれない。
気にしても仕方がないのだ。世の中の多くのことは、気にしても仕方がない。大切なものだけ気にして、それ以外のことは適当に放っておけばいい。君が幸せならば、それでいいのだという話だ。君の嫁に関してもしかしたらひどい事を書いてしまったかもしれないが、それはまあ、お互いに知らない仲ではないし昔を懐かしんでくれたら幸いだ。
そう言えば、君の結婚式以前の話になるが、君の失恋事件はあの研究室で語り草になっているそうだ。君の恥は忘れられるどころか一種の伝説、研究室にひそかに伝わる先輩の伝記となっているぜ。今度、研究室に顔を出してみるといい。研究生たちは君を温かく歓迎するだろうし、いろいろと話を聞きたがること請け合いだ。僕は実際にあったことがあるのだが、僕たちと同じように青春を満喫している気の良い奴らだ。失恋事件と言ったところで、結婚した今の君にとっては笑い話だろう?
僕が卒業して4年。君が卒業して2年。僕たちは変わったけれど、あの研究室は今も変わらず続いている。少しばかり人気は出たそうだが、教授は相変わらずだ。そういうものが世の中に一つでも存在しているのだと思うと、僕は何故だか安心する。
ついては、そろそろ本題に入ろう。
実はこのたび結婚することになった。ぜひとも君にも式に出席してほしいと、咲月ともども思っている。君と、君の嫁である旧姓柳原由香里に、これを招待状に替えて送る。
森田郁夫
久しぶりの親友へ
リハビリテーションという名のデトックス。とりあえず何に影響を受けたのかわかる人にはすぐわかる。