「運命の花に水はいらない」と婚約者が言うので、もう水はやりません
「運命の相手が見つかった。フィオナ、君との婚約は破棄する」
王宮の春の園遊会。満開の藤棚の下で、王太子ユリウス殿下は、高らかにそう告げた。
殿下の隣には、淡い金髪の小柄な令嬢が寄り添っていた。男爵家のコレット・ポワン様。十七歳。
殿下が、コレット様の手を取って、高く掲げた。二人の手首の内側に、同じ花が咲いていた。真っ赤な、ひなげしの花。肌の上に、描いたように鮮やかに。
「運命の印だ……」
「本当に咲くのね、初めて見たわ」
園遊会の客たちが、ため息まじりにざわめいた。
この国では、運命の相手と出会うと、二人の手首に同じ花が咲く。運命の相手は、どんな婚約よりも優先される。そう、古い法で決まっている。
「運命の花は、百日咲くというわ。百日の蜜月ね」
どこかの夫人が、うっとりと言った。
わたしは、殿下とコレット様の手首のひなげしを、じっと見つめた。五年間、殿下の婚約者だった。十四歳のときから。
それから、膝を折って礼をした。
「承知いたしました」
殿下が、少し拍子抜けしたような顔をした。わたしが泣くか、すがりつくとでも思っていたのだろう。
「……殿下、一つだけ。その花には、毎日、お水をおやりくださいませ」
一瞬の沈黙のあと、殿下は、声を立てて笑った。
「何を言うかと思えば。運命の花だぞ。水などいらない。百日咲くと決まっている」
コレット様も、殿下の腕にしがみついて、くすくすと笑った。
「フィオナ様ったら。お花のお世話ばかりしていらっしゃるから」
*
屋敷へ戻る馬車の中で、わたしは膝の上の手を見下ろした。
爪のあいだに、うっすらと土が残っていた。今朝も、夜明け前に、王宮の庭の片隅で薬草を摘んできたからだ。
五年前、婚約が決まってすぐに、わたしは殿下の秘密を一つ知った。殿下は、雨の降る前の日になると、ひどい頭痛に悩まされる。宮廷の医師の薬は苦すぎて、殿下は飲もうとなさらなかった。
だから、わたしは庭の片隅に、小さな薬草の畝をつくった。カモミールと、薄荷と、ひとつまみの月光草。苦くなくて、頭の重さがすっと引いていくお茶。毎朝、夜明け前に摘んで、乾かして、淹れて、殿下の侍従に託した。
五年間、一日も欠かさずに。
殿下は、一度も、誰が淹れているのかを聞かなかった。
一度だけ、侍従が、こっそり教えてくれたことがある。殿下が、空になった茶器を返しながら、「今朝のは、うまかった」とおっしゃったと。わたしは、その日一日、うれしくて、庭の土に何度も水をやりすぎた。
でも、その言葉が、わたしに向けられたことは、一度もなかった。
半年前、お茶会のあとで、殿下に言われたことがある。
「フィオナ。君の愛は、庭仕事みたいだな。地味で、毎日同じで、義務でやっているみたいだ」
わたしは、何も言えなかった。
「運命の相手は、きっと違うんだろうな。会った瞬間に、胸が焼けるように熱くなるんだ」
そして今日、殿下は、その相手を見つけた。
わたしは、窓の外を流れていく春の景色を見ながら、決めた。
もう、水はやらない。
*
屋敷では、父が、書斎の中を行ったり来たりしていた。
「運命の印だと? 五年だぞ。五年も婚約しておいて、園遊会のど真ん中で」
父は、拳で机を叩いてから、わたしを振り返った。
「フィオナ。おまえも、少しは怒ったらどうだ」
「怒っても、お花は枯れませんわ、お父様」
「おまえは、いつもそうだ。王太子妃になるのだから尽くせ、と言ったのは私だが、おまえは本当に、黙って尽くすばかりで……」
父は、言いかけて、ため息をついた。それから、少しだけ声を落とした。
「……つらかったら、しばらく、好きなことをしなさい。土いじりでも、何でも」
わたしは、父の顔を見た。父がそんなことを言うのは、初めてだった。
「はい。そうします」
*
次の朝、わたしは最後に一度だけ、夜明け前の王宮の庭へ行った。
薬草の畝を掘り起こして、根ごと籠に入れた。わたしが種から育てたものだ。持って帰っても、文句は言われないだろう。
それから、庭のいちばん奥へ向かった。
先王妃様が遺された、古い薔薇の株。五年前に初めて見たとき、それは枯れ木のようだった。庭師たちは、もう咲かないと言って、誰も手をかけなくなっていた。
わたしは、なぜか放っておけなかった。毎朝、薬草を摘むついでに、桶に一杯の水をやった。根元の土をほぐし、枯れた枝を少しずつ切った。
三年目の春に、小さな芽が出た。四年目に、つぼみがついた。今年は、淡い桃色の花が、二輪咲いている。
「お嬢さん、今朝もですかい」
年老いた庭師のベンさんが、鋏を手に、腰を伸ばした。
「ええ。でも、今朝で最後なの。ベンさん、この薔薇のこと、お願いしてもいいかしら」
「そりゃあ、かまいませんが……」
ベンさんは、ちらりとわたしの後ろを見た。
「あいにく、お嬢さんを待ってた方が、おられましてね」
振り向くと、背の高い男の人が、薔薇の生垣の陰に立っていた。
飾り気のない灰色の上着に、土のついた長靴。指先は、インクで青く染まっていた。左手にだけ、薄い革の手袋をはめている。二十代の後半くらい。落ち着いた、深い緑の目をしていた。
「突然、失礼します。王立植物園の園長を務めている、エーリヒといいます」
わたしは、息をのんだ。王立植物園の園長。国王陛下の弟君で、王位継承権を返上して、植物の研究に一生を捧げているという変わり者の王弟殿下。
「半年前、ベンから聞きました。誰も見放したこの薔薇に、毎朝水をやり続けているお嬢さんがいる、と」
王弟殿下は、二輪の桃色の花を見て、目を細めた。
「五年間、この薔薇に水をやり続けた人を、探していました。……植物園で、働いていただけませんか」
*
王立植物園は、王都の西の丘の上にあった。
ガラスの大温室に、見たこともない南の国の木々が茂り、湿った土と花の匂いが、むっと立ちこめていた。
「ここが、私の研究室です」
エーリヒ様――園長様は、そう呼んでほしいと言った――に案内された部屋は、壁という壁が棚で埋まっていた。棚には、ガラスの額が、何百枚も並んでいた。
額の中には、紙に写し取られた、茶色い花の形が収められていた。ひなげし、すみれ、木蓮、勿忘草。どれも、押し花のように色を失って、縮れていた。
「これは……」
「枯れた運命の印を、写し取ったものです。この十年で、私が記録した、二百十四組」
わたしは、言葉を失った。
「運命の花は、百日咲く。この国の誰もが、そう信じています。百日の蜜月だと」
園長様は、棚の端から、古い羊皮紙の写しを一枚取り出した。かすれた古い文字が並んでいた。
「三百年前の、原文です。古語で、こう書いてある。『運命の花は、百日のうちに水を得ざれば、枯る』」
「百日のうちに、水を……」
「百年前に、誰かが読み違えたんです。『百日咲く』と。それ以来、誰も原文を読まなくなった」
園長様は、羊皮紙を棚に戻した。
「運命の花は、咲くだけです。咲いたあと、水をもらえなければ、百日で枯れる。二百十四組のうち、百九十一組が、枯れました」
「水というのは……」
「相手を、気にかけることです」
園長様は、一つ一つ、指を折った。
「相手の小さな求めに、応えること。相手のありのままを、見ること。相手を、知ろうとすること。それが、印の花の水になる。高価な贈り物も、甘い言葉も、水にはなりません。それから、片方だけが水をやっても、もう片方の花は育たない」
わたしは、昨日の殿下の笑い声を思い出した。
運命の花だぞ。水などいらない。
*
「なぜ、そんなことを、ご存じなのですか」
わたしが尋ねると、園長様は、しばらく黙っていた。
それから、左手の手袋を、ゆっくりと外した。
手首の内側に、茶色く縮れた花の痕があった。小さな鈴が、いくつも連なったような形。
「鈴蘭です。十年前、私が十八のときに咲きました。相手は、伯爵家の令嬢でした」
園長様は、自分の手首を見下ろした。
「運命なのだから、と思いました。ちょうど北で戦が始まって、私は軍に加わりました。手紙の代わりに、宝石を送りました。彼女が何を好きなのか、何に困っているのか、一度も聞かなかった。運命なのだから、聞かなくても分かり合えると思っていた」
園長様の声は、静かだった。
「九十九日目の朝、鈴蘭は、枯れていました。……彼女は、そのあと別の人と結婚して、今は三人の子の母です。幸せに暮らしていると聞いています。それで、よかったのだと思います」
園長様は、手袋をはめ直した。
「私は、落ちただけだった。育てなかったんです。花が好きだと言いながら、水をやるのを忘れる人がいる。私が、そうでした」
*
植物園での日々は、静かに過ぎていった。
わたしは、温室の鉢の水やりと、薬草園の手入れを任された。園長様は、朝から晩まで研究室にこもって、枯れた印の記録と、古い文献の山に埋もれていた。
三日目の昼、研究室の机の上に、手つかずの朝食の皿が、そのまま置かれているのに気づいた。
「園長様。朝食を、召し上がっていませんね」
「……ああ。忘れていました」
次の日から、わたしは昼に、薬草を練りこんだパンを焼いて、研究室に持っていくことにした。園長様は、最初は戸惑った顔をしていたけれど、そのうち、わたしが扉を叩く前に、机の上の本を片づけて待っているようになった。
五日目の朝、わたしの部屋の前に、小さな陶器の壺が置いてあった。
蓋を開けると、蜜蝋と、金盞花の匂いがした。添えられた紙切れに、インクの青い字で、ひとこと。
『手の、ひびに』
わたしは、自分の手を見た。毎朝の水仕事で、指の関節が、赤くひび割れていた。五年間、誰にも気づかれなかったひびだった。
十日目は、雨だった。
温室に入ると、天窓が一枚だけ、細く開けてあった。雨の匂いが、土の匂いと混じって、ガラスの中に流れこんでいた。
「園長様、天窓が開いています。鉢が濡れてしまいます」
「ああ、それは」
園長様は、研究室の扉の陰から、少し気まずそうに顔を出した。
「二日目に、あなたが言っていたので。雨の日の、土の匂いが好きだと」
わたしは、言葉が出なかった。
そんなことを言ったのか、自分でも、覚えていなかった。
気にかけてもらうというのは、こういうことなのだ。わたしは、五年間、殿下のお茶を淹れながら、一度も、それをもらったことがなかった。
*
十五日目、植物園に、若い夫婦が訪ねてきた。
仕立屋の夫と、パン屋の娘だという。二人の手首には、青い勿忘草の印が咲いていた。けれど、その花びらの半分が、茶色く縮れていた。
「七十日目なんです」
妻のほうが、泣きそうな顔で言った。
「最初は、毎日、夢みたいでした。でも、だんだん、喧嘩ばかりになって。この人は、仕立ての注文で朝から晩まで工房にこもっていて、わたしは夜明け前からパンを焼いていて……」
「俺だって、贈り物はしてるんだ。先週は、絹のリボンを」
「リボンなんか、パンをこねるときに邪魔なだけよ」
園長様は、黙って二人の手首を見比べていた。わたしは、少し迷ってから、口を開いた。
「奥様。旦那様の好きな朝ごはんを、ご存じですか」
妻は、きょとんとした。
「……知りません。朝は、わたしのほうが先に家を出るので」
「旦那様。奥様が、パンをこねるとき、いちばん困っていらっしゃることは?」
夫は、しばらく考えて、首を振った。
「……知らない」
「では、明日の朝から、それを一つずつ、聞いてみてください。それから、聞いたことを、一つだけ、してさしあげてください。高いものでなくていいんです。小さなことを、毎日」
十日後、二人はまた植物園にやってきた。
手首の勿忘草の、茶色かった花びらの縁が、薄い青に戻り始めていた。
「この人ね、朝はゆで卵が好きなんですって。固ゆでの。三年も一緒にいて、知らなかった」
「こいつは、冬場、手がかじかんでパンがこねられないって言うから、毎朝、竈に先に火を入れておくことにしたんだ」
二人は、照れくさそうに顔を見合わせて、笑った。
夫婦が帰ったあと、園長様が、わたしを振り返った。
「……二百十四組を記録して、枯れる理由は分かっていました。でも、戻った組を見たのは、初めてです」
園長様は、窓の外の、坂道を下っていく二人の背中を見送った。
「私は、枯れた花ばかり、数えてきたんですね」
*
二十日目、植物園に、王太子殿下が乗りこんできた。
「フィオナ!」
殿下は、こめかみを押さえながら、温室の通路をずかずかと歩いてきた。後ろから、コレット様が、退屈そうについてきていた。
「どういうつもりだ。君がお茶をやめたせいで、毎日、頭が割れそうだ。侍従に聞いたぞ。あのお茶は、五年間、君が淹れていたそうだな」
「はい」
「なぜ、黙ってやめた。今すぐ、元に戻せ」
わたしは、じょうろを置いた。
「殿下。お茶の淹れ方でしたら、お教えいたします。薬草も、株分けしてお渡しします。毎朝、夜明け前に摘んで、少しずつ」
「誰が摘むんだ」
「……ご自分で、どなたかのために、淹れてみてはいかがですか」
わたしは、コレット様のほうを見た。殿下は、意味が分からないという顔をした。
「なぜ私が、そんなことを」
そのとき、わたしは、殿下の手首に目をとめた。
ひなげしの花びらの縁が、ほんのわずかに、茶色く縮れていた。
「殿下。花の縁が」
「光の加減だろう」
殿下は、袖を引き下ろした。コレット様が、殿下の腕を引っぱった。
「ねえ、殿下。帰りに宝石商に寄ってくださるって、お約束でしょう? 新しい首飾り、まだ見せてもらっていないわ」
「頭が痛いと言っているだろう」
「わたしのお願いを聞いてくださらないの? 運命の相手なのに」
二人の声が、温室のガラスに響いた。
研究室の扉の前で、園長様が、静かにそれを見ていた。
「殿下」
「叔父上。いらしたのですか」
「その花は、あと四十日ほどです」
殿下の顔が、さっと赤くなった。
「叔父上の負け惜しみは、結構です。ご自分の花が枯れたからといって」
殿下は、コレット様の手を引いて、足音荒く出ていった。
*
四十日目の夕方、植物園の門の前に、コレット様がひとりで立っていた。
目が、赤く腫れていた。
「フィオナ様。……お花が、どんどん茶色くなるの」
コレット様は、手首を差し出した。ひなげしの花びらは、半分近くが、乾いた茶色に変わっていた。
「お水って、どうやってあげるの? お庭のお水をかけても、ちっとも元に戻らないの」
わたしは、少し考えてから、尋ねた。
「コレット様。殿下の好きなものを、ご存じですか」
コレット様は、きょとんとした。
「……知らないわ」
「殿下が、雨の前の日に、頭が痛くなることは?」
「知らない。だって、運命なんだもの。殿下がわたしを好きでいてくだされば、それでいいの。わたしは、愛される側なんだから」
それから、コレット様は、うつむいて、小さな声で付け加えた。
「……お父様がね、殿下を逃したら、うちはおしまいだって。借金が、たくさんあるの。だから、わたし、ずっと、殿下に好かれていなくちゃいけないの」
十七歳の手首の上で、半分枯れたひなげしが、かすかに震えていた。
わたしは、少し迷ってから、言った。
「コレット様。好かれていなくちゃ、と思っているあいだは、たぶん、水にはなりません。……明日、殿下に、一つだけ聞いてみてください。今朝は、頭が痛くありませんか、と」
コレット様は、唇を噛んで、黙って帰っていった。
*
六十日目、建国祭の夜会が開かれた。
わたしは、園長様に頼まれて、植物園の者として、同じ馬車で王宮へ行った。園長様は、十年ぶりの夜会だと言っていた。
大広間の真ん中で、王太子殿下とコレット様が踊っていた。二人とも、手首の見える袖の短い装いだった。運命の印を、皆に見せるために。
けれど、広間のざわめきは、園遊会の日とは違っていた。
「ご覧になって。お花が……」
「茶色いわ。ほとんど」
ひなげしは、もう赤いところのほうが少なかった。乾いた花びらが、手首の上で、縮れていた。
踊りの途中で、コレット様が、足を止めた。
「殿下。わたしの好きな色、ご存じ?」
「……何だ、急に。赤だろう。ひなげしの」
「青よ!」
コレット様の声が、楽団の音楽を突き破った。
「青が好きなの。一度だって、聞いてくださらなかったじゃない!」
「君こそ、私の頭痛のことを、一度でも聞いたことがあるか! 宝石、宝石と、そればかりで――」
広間じゅうが、静まり返った。
その瞬間だった。
二人の手首の上で、ひなげしの花が、音もなく崩れた。乾いた茶色の花びらが、粉のようにほどけて、大理石の床にはらはらと落ちた。
手首には、縮れた茶色い痕だけが残っていた。
「印が……枯れた……」
「運命の印が、枯れたぞ!」
悲鳴のようなざわめきが、広間を走った。
*
殿下は、自分の手首を見下ろして、立ち尽くしていた。それから、顔を上げて、人垣の中にわたしを見つけた。
「フィオナ」
殿下は、ふらつく足で、わたしの前まで来た。
「フィオナ。……戻ってきてくれ。君がいれば、お茶も、何もかも、元どおりになる。君は、五年間、私を愛してくれていたんだろう?」
わたしは、殿下の顔を見上げた。
五年間、毎朝、お茶を淹れた。殿下の好きなもの、苦手なもの、頭痛の起きる天気を、全部覚えた。それは、確かに愛だったのだと思う。
でも、片方だけが水をやっても、花は育たない。
わたしは、膝を折って、礼をした。
「申し訳ございません、殿下。わたくし、今は別の庭に、毎朝お水をやっておりますので」
殿下の顔が、くしゃりと歪んだ。
「ユリウス」
玉座のほうから、低い声がした。国王陛下だった。園長様の兄君は、眉間に深い皺を寄せて、息子を見下ろしていた。
「運命法を盾に、五年の婚約を、園遊会の真ん中で破ったのだ。その印が枯れたのなら……明日の朝、私の部屋へ来なさい」
殿下は、青い顔で、うなだれた。
広間の床では、コレット様が、しゃがみこんで、散らばった茶色の花びらを拾い集めていた。その唇が、小さく動くのが見えた。
――青が好きって、もっと早く、言えばよかった。
*
「運命の花は、百日咲くのではありません」
静まり返った広間に、園長様の声が響いた。
「三百年前の原文には、こうあります。『百日のうちに水を得ざれば、枯る』。水とは、相手を気にかける行いのこと。この十年で私が記録した二百十四組のうち、百九十一組が、枯れました」
広間が、ざわめいた。何人かの貴族が、そっと自分の袖口を押さえた。
「残りの二十三組は、今も咲いています。……宰相夫人、よろしければ」
園長様が、広間の隅に目をやった。白髪の老宰相と並んで立っていた小柄な夫人が、少し照れたように微笑んで、手袋を外した。
夫人の手首に、紫のすみれが咲いていた。まるで今朝咲いたばかりのように、瑞々しく。
「四十年になりますわ」
夫人は、隣の老宰相を見上げた。
「毎朝、わたくしが主人のお茶を淹れて、主人は毎晩、わたくしの肩をもんでくれるの。四十年、一日も欠かさずに。……それだけのことですのよ」
老宰相が、照れくさそうに咳払いをした。その手首にも、同じすみれが咲いていた。
*
夜会のあと、わたしたちは、夜明け前の植物園に戻った。
大温室の中は、まだ暗かった。ガラスの天井の向こうで、東の空が、少しずつ白み始めていた。
「フィオナ嬢」
園長様が、温室の真ん中で立ち止まった。
「私には、もう、印は咲きません。一生に一度だけのものだから。あなたの手首にも、何も咲いていない」
園長様は、左手の手袋を外した。茶色く縮れた鈴蘭の痕が、薄明かりの中に浮かんだ。
「だから、これは、運命ではありません」
園長様は、深い緑の目で、まっすぐにわたしを見た。
「感情は、明日には変わるかもしれない。でも、決意なら、毎朝、新しくできる。水をやるように。……私は、毎朝、あなたを選ぶと決めました。あなたが、毎朝、あの薔薇に水をやり続けたように」
わたしは、園長様の手首の、枯れた鈴蘭を見つめた。
この人は、十年間、自分の失敗を、二百十四枚の額に写し取って、ずっと見つめてきたのだ。もう二度と、水をやるのを忘れないように。
「半年前、ベンから話を聞いて」
園長様が、少し目をそらした。
「夜明け前に、何度か、王宮の庭へ行きました。生垣の陰から、桶を抱えたあなたが、あの薔薇に水をやるのを見ていた。……あなたは、王太子の婚約者だったから、声はかけられなかった。ただ、毎朝、あの薔薇の前で、あなたが小さく『おはよう』と言うのを聞いていました」
わたしは、頬が熱くなるのを感じた。誰も見ていないと思っていた。
「五年間、誰にも見られていない水やりを、続けられる人がいる。……それを見て、私は、自分が十年前に何をしなかったのかを、やっと分かった気がしたんです」
「わたくしも」
声が、少し震えた。
「わたくしも、毎朝、決めます」
わたしは、温室の棚に置いてあった小さなじょうろを手に取った。それから、園長様の左手を取って、その手首の枯れた鈴蘭の上に、ほんの少しだけ、水を注いだ。
「毎朝、お水をやりますね」
園長様が、目を丸くして、それから、声を立てて笑った。初めて聞く笑い声だった。
*
夜明けの最初の光が、ガラスの天井から差しこんだ。
わたしは、濡れた園長様の手首を、ハンカチで拭こうとして、手を止めた。
茶色く縮れた鈴蘭の痕の、真ん中。
針の先ほどの、小さな緑が、見えた気がした。
――枯れた運命の印から芽が出るなんて、園長様の二百十四枚の記録の、どこにも書いていない。




