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9/12


桜の蕾がふくらみ、柔らかな春の気配が街を包み始める頃。


私と晃希さんは、佐伯さんのご自宅を訪ねていた。


昨年末、奥様が無事に女の子を出産されたという報せを受けてから、この日をずっと楽しみにしていたのだ。


三ヶ月検診を終えたと聞き、お祝いにと、以前立ち寄った和菓子屋で《さくら餅》を誂えて。


「いらっしゃい! 如月さんは、はじめましてですね。佐伯です。 今日は、ゆっくりしていってくださいね!」


奥様の明るい声に導かれ、私たちはリビングのソファーへ腰を下ろした。


向かいの椅子には、ご主人の健悟さんが、まるで宝物を扱うように赤ちゃんを抱いて座っている。


「お久しぶりです! 今日は、会えるのを楽しみにしていました」


「元気だったか? 如月さんは、はじめまして。 佐伯健悟です。 よろしくお願いします」


「はじめまして。 如月晃希です。 こちらこそ、よろしくお願いします」


視線を交わすことはできなくとも、二人は正確に相手の「声」がする場所へと顔を向け、敬意を込めた挨拶を交わす。


見えない二人だけにわかる、静謐で確かな繋がりがそこにはあった。


──その時、赤ちゃんの可愛らしいぐずり声がリビングに響く。


奥様が「ミルクかな?」と笑い、私をキッチンへ誘ってくれた。


「咲花さん、よかったら……赤ちゃんのお世話、少し手伝ってくれる?」


「……いいんですか!? ぜひ、お願いします!」


かつて、暗い迷路の中にいた私の背中を、穏やかな優しい言葉で押してくれた奥様。


目の前にいる彼女は、あの頃よりもずっと柔らかく、すっかり「お母さん」の顔をしていた。


春の陽射しがたっぷりと降り注ぐ、温かな『こども部屋』。

その幸福な空気の中へ誘われるように、私は奥様と一緒に一歩、足を踏み入れた。


***


リビングに残された僕は、密かな気まずさを感じていた。


調香師という仕事以外で、初対面の相手と二人きりになる機会は少ない。


何を話すべきか模索していると、健悟さんが穏やかに口を開いた。


「咲花さん、元気になって良かったです。 以前ここに来た時は、相当思い詰めている様子だったので。……解決したようで安心しましたよ」


僕は、かつて咲花さんが自分のために一人で模索し、この場所を訪れていた経緯を聞いていた。

あの日から、二度と一人で悩ませないと誓った。


「その節は、大変お世話になりました。 お陰様で、こうして二人で伺うことができました」


「俺は何もしてませんよ。 家内が『障害のある男性を好きになった女性を助けたい』って、お節介を焼いただけですから。 乗り越えてくれて、俺たちも嬉しいんです」


健悟さんの言葉に、僕は静かに頭を下げた。


ふと、健悟さんが鼻先を動かし、興味深そうに尋ねる。


「……ところで。 テーブルのさくら餅も良い匂いですが、如月さんの側から、花のような淡い香りが漂っている気がするんですが」


「よく、気づかれましたね。……実は、白杖の持ち手にサシェを忍ばせてあるんです。 杖の場所を把握しやすくするための、ささやかな工夫で」


調香師として、極限まで抑えた仄かな香り。

他の人にはまず気づかれないはずのそれを、健悟さんは正確に捉えていた。


「へぇ、それはいい。……咲花さんが纏っている香水と『お揃い』ですよね?」


僕は、思わず言葉を詰まらせた。


昨年のクリスマス。

彼女をイメージして、甘すぎず透明感のある花の香りを調香し、贈ったもの。


「……はい。 わかりますか」


「普通の嗅覚なら気づかないでしょうね。……独占欲、ですか?」


見透かされたような問いに、気恥ずかしさが込み上げる。


確かに、自分以外の人間が作った香りを彼女が選ぶ可能性を想像しただけで、胸の奥がざわついた。


あの日、自分の淹れたものではないハーブティーの香りが彼女から漂ってきた時の、あの耐え難い拒絶感。


(……僕は、自覚している以上に執着が強いらしい)


一度囲い込んだら、二度と外の世界には触れさせたくない。

自分の色だけで染め上げ、逃げられないように画策してしまう。


我ながら重いという自覚はあるが、当の彼女が「お揃いなんて嬉しい!」と無邪気に笑っているのだから、救いようがない。


「……俺、妹がいるんですけどね」


健悟さんが唐突に話題を変えた。


一人暮らしを頑張り、最近年下の彼氏ができたという妹さんの話。

来月の誕生日に、特別なプレゼントを贈りたいのだという。


「……如月さん。 厚かましいのは承知で、妹をイメージした香水を調香していただけませんか?」


「ええ、喜んで。……どんな方か、詳しく伺ってもいいですか?」


「そうですね……一言で言うと、『ツンデレの黒猫』かな」


「……は…い?」


健悟さんは、妹さんが苦労の末に体を壊し、立ち直るまでの壮絶な過去を語った。


そして今は、心機一転して『ラブホテルの受付』をしているのだと。


「……ラブホ、ですか」


「如月さん、行ったことあります? 俺は利用したことないんですが。 妹に聞いても嫌がられるし、未体験の場所って、なんだか興味が湧きませんか?」


「……それは、確かに」


ふと、脳裏に咲花さんとの濃密な時間が蘇る。


自分の屋敷も悪くないが、誰にも邪魔されない、遮音された非日常の空間──。


(……今度、咲花さんを誘ってみようか)


そんな「個人的な下心」を胸の奥に仕舞い込み、僕は健悟さんから妹さんの詳細なデータを引き出し始めた。


健悟さんの大切な妹さんにふさわしい、誇り高い黒猫のような香りを調香するために。



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