⑦
『ガチャッ……キィ、パタン』
静まり返った玄関ホールに、重厚な扉が閉まる音が響いた。
この屋敷は、玄関から応接室までが一直線のフローリング廊下で繋がっている。
キッチンでコーヒーを淹れていた僕は、跳ねる心臓を抑えながら白杖を掴んだ。
……咲花さんが帰ってきた!
その一心で、キッチンから曲がり角を抜け、メイン廊下へ出ようとした、その時──
大きな手のひらが、僕の肩に置かれた。
「……晃希の出迎えとは、珍しいこともあるものだな」
聞き慣れた、けれど待ち人ではない太い声。
「……叔父さん。 出張から戻ったんだね。 お帰りなさい」
あからさまに落胆してしまった自分の声が、自分でも情けないほど沈んで聞こえた。
「ああ、ただいま。……ところで屋敷の中が真っ暗だぞ。 防犯上も危ない、気を付けなさい!」
その指摘に僕は項垂れた。
昼間、喜美子さんにも言われていたのに…失念していた。
この屋敷の照明は警備システムのタイマーで一括管理されている。
だが、光を必要としない僕の世界では、日没さえ空気の冷たさでしか測れないのだ。
「……咲花さんは、どうしたんだ?」
「今日は、お休みを取って外出しています。 照明の事も、僕の責任です」
「いくら咲花さんが優秀だとしても、気を抜き過ぎだ。 最低限の危機管理は怠るな!」
叔父さんの叱責に頷くしかなかった…。
見えないから、僕は困らない。
けれど、夜になっても屋敷に灯りがないことは、外側から見れば「不在」と言っている様なものだ。
そんな当たり前の配慮すら忘れるほど、僕の頭の中は彼女のことで一杯だった。
***
応接室でコーヒーを飲みながら、僕は叔父さんのマシンガントークに捕まっていた。
「……櫻井店長が、咲花さんのことを誉めていたよ。よく気が付く、気丈なお嬢さんだ。 本当に、良い家政婦を雇ったな」
叔父さんの言葉に、胸の奥がチリリと熱くなる。
「そうですね……。 僕と一緒に歩いて、好奇の視線に晒されたはずなのに…彼女は、おくびにも出さず店まで付き添ってくれました」
障害を持つ僕と並んで歩くことを、躊躇う人も少なくない。
けれど、彼女は僕が頼ったとき、むしろ嬉しそうにその手を差し出してくれたのだ。
(……けれど、何だろう。 今の叔父さんの言葉に、何か引っかかる感覚がある)
自分でも「良い家政婦さんだ」と認めているはずなのに、その肩書きだけでは、今の僕の気持ちを説明しきれない。
彼女は確かに家政婦だけれど……僕にとっては、それだけの存在ではない。
側に居てほしい唯一の女性なのだ。
今だって、一刻も早く彼女が帰ってくることを待ち望んでいるくらいに。
(……いけない。 また、咲花さんのことで頭がいっぱいになっている…)
「……そういえば、出張先で陽華姉さんに会ったよ。 相変わらず忙しそうだったが、以前のような無理な働き方はしていない。 安心していいぞ」
「そうですか。 それは良かった……。 母ももう、若くはない年齢ですから」
母の安否に安堵したのも束の間、叔父さんはニヤリと笑い、愉快そうな声音で畳みかけてきた。
「……だがな、晃希。 姉さんはお前のことも相当気にしていたぞ。『好きな女性もいそうにないのか? いないなら誰か紹介してあげて』と頼まれてしまったが……実際はどうなんだ? 本当に、いないのか?」
逃げ場を塞ぐような、無邪気で残酷な問いかけ。
──その瞬間、僕の唇は思考よりも先に動いていた。
「……ちゃんと、いるのでお構いなく!」
咄嗟に口をついて出た、迷いのない肯定。
言い切ってから、自分でも内心で激しく動揺した。
……好きな女性。
その言葉が投げかけられた瞬間、僕の脳裏を埋め尽くしたのは、あの柔らかな笑い声と、僕の手を引く温かな体温──咲花さんの存在だった。
「それは何よりだ! ……さて、お邪魔虫は退散するとしよう。 気付いていなかったか? 咲花さんが帰って来てるぞ」
「えっ……!?」
──心臓が跳ねた。
応接室のドアは、彼女が戻って来た気配を感じられるように半分ほど開けていたはずだ。
(……叔父さんの声が大きくて、廊下の気配がかき消されていた!)
いつから? どこから聞いていた…?
廊下には、僕たちの声が漏れ出て聞こえていただろう。
すると、叔父さんはドアに向かって、明るい声を張り上げる。
「咲花さん、久しぶりだね! 急用を思い出してちょうど帰るところなんだ。 見送りとか大丈夫だよ!」
出張の土産は、またの機会に渡すと言い残し、叔父さんは唐突に席を立った。
僕の肩をポンッと叩き、耳元で早口に捲し立てた。
「晃希、しっかりしろよ! ──じゃあな!」
……してやったり、という満足げな気配。
叔父さんは特大の爆弾を落としたまま、嵐のように、そそくさと屋敷を去っていった。
後に残されたのは…沈黙が痛いほど流れる応接室と、玄関ホールの廊下で立ちつくす、彼女の気配だけだった。
***
玄関ホールに見覚えのある立派な革靴が並んでいるのを見て、私は「ただいま戻りました」の声を飲み込んだ。
(晃一さんがいらしてる……。 お仕事の話かしら)
お休みを頂いていた身で、大切なお客様の邪魔をしてはいけない。
私は買ってきた《芋羊羹》を胸に抱え、なるべく足音を立てないように、そうっと廊下を渡ってキッチンへと向かった。
メイン廊下は、真っ直ぐ応接室へと繋がっている。
その手前で、右に曲がってキッチンへと滑り込もうとした、その瞬間。
開け放たれた応接室のドアの隙間から、淹れたてのコーヒーの香りと共に、親密そうな二人の話し声が漏れてきた。
『……母も若くはない年齢ですから、安心しました』
晃希さんの、穏やかで優しい声。
けれど、次に続いた晃一さんの問いかけに、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
『晃希のことも気にしてたぞ。 好きな女性もいないのか? いないなら紹介してあげてくれってさ。……本当のところ、いないのか?』
──思わず、足を止めてしまう。
聞いちゃいけない。
そう思うのに、身体が石のように固まって動かない。
ごくり、と唾を飲み込んだ直後。
『……ちゃんと、いるのでお構いなく!』
それは、今まで聞いたこともない晃希さんの声で…。はっきりとした、拒絶にも似た強い肯定だった。
──心臓を、冷たい手で直接掴まれたような気がした。
キッチンに駆け込むと、そこにはまだ、晃希さんが淹れたコーヒーの芳醇な香りが微かに残っていた。
その香りに包まれるだけで、胸の奥がきゅっと痛む。
(晃希さん……好きな女性が、いたんだ。 やっぱり、あの櫻井店長かな……)
光の中に住む、凛とした美しい彼女。
二人が並んで語らう姿を思い浮かべれば、溜息が出るほどお似合いだった。
(もし結婚されるなら……私はもう、この屋敷にはいられない。 きっと、子育ての経験のある家政婦が必要となるだろう…)
いつまで雇ってもらえるか、早めに確認しなくては。
次の仕事先も、新しい住む場所も、一から探さなきゃいけない。
何より……晃希さんの好きな女性と、この屋敷で三人で暮らすなんて。
そんなの、心が苦しくて一分一秒だって平気ではいられない。
(……バカだな。 ショップへ行ったあの日、本当はもう分かっていたはずなのに。 今さら、こんなにも惹かれていたことに気づくなんて)
込み上げる涙を、ぎゅっと目を閉じて押し戻す。
今は泣いている場合じゃない。
「……しっかりしないと。 私はまだ、この屋敷の家政婦なんだから!」
自分を鼓舞するように小さく呟くと、私は震える手でお茶の用意を整えようとした。
──すると、晃一さんの大声が聞こえてきた。
『咲花さん、久しぶりだね! 急用を思い出してちょうど帰るところなんだ。 見送りとか大丈夫だよ!』
(……気付かれてた!? でも、お見送りくらいは…!)
胸のざわつきで足元がおぼつかないまま、スリッパをぱたぱたと鳴らして玄関ホールへ急いだ。
けれど、私の焦りとは対照的に、晃一さんは悠然とドアに手をかけている。
閉まる扉の隙間から、彼が投げたのは意味ありげなウィンク。
鮮やかなその余韻だけを残して、彼は夜の向こう側へと姿を消した。
「……いまの、何のサイン?」
呆然と立ち尽くす私に、背後から晃希さんの声が降ってくる。
「……咲花さ〜ん? おかえりなさい! こちらで、一緒にコーヒーでも飲みませんか?」
──そうだ! 私は、いつまでこの屋敷で雇って貰えるのか確認しなくてはならなかった。
意を決して、応接室に居る晃希さんの元へと向かう私の胸は、今にも張り裂けそうなほど、重く、苦しく波打っていた。
***
「……ただいま、戻りました。 お休みをいただき、ありがとうございました」
応接室に入ると、晃希さんが一人、静かに座っていた。
何とか平静を装うと思っていたのに…。
彼を目の前にすると、自覚したばかりの気持ちが溢れて胸がぎゅっと苦しい。
「お帰りなさい、咲花さん。……? どうかしましたか、なんだか様子が……」
「あの、晃希さん。 私は、いつまでに退職すればよろしいでしょうか?」
彼の顔を見る勇気がなくて、私は俯いたまま告げた。
「……え? 退職……? どういう、ことですか?」
「……先ほどの会話、聞いてしまいました。 大切な女性がいらっしゃるんですよね。 もし、その方と結婚されるのだとしたら……私は、心から祝福なんて、できそうにありません」
一気にまくしたてた言葉の語尾が、情けなく震える。
視界はとうに歪み、涙の滴がポツリと床に落ちて、小さな染みを作った。
(こんな、身勝手な告白をするつもりなんてなかったのに…)
一度決壊した想いは、もう私の手には負えない。
顔を上げれば、その瞬間にすべてが崩れてしまいそうで、私はただ、絞り出すような声で自分を突き放した。
「……だから。お願いです、私を……辞めさせてください」
晃希さんが、椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。
視界を塞ぐ私の両手を、手繰り寄せるようにして掴まれる。
指先にこもった熱は、痛いほどに強かった。
「僕は、祝福してほしいな。 というか……君に喜んでもらえるのが一番嬉しいんだけど。 ダメかな?」
「っ……晃希さんが幸せになるのは、私も嬉しいです! でも……っ」
「じゃあ、これからも僕の側にいてくれるよね?」
耳元で、甘く、毒のように響く声。
絡められた指先の力がさらに強まり、逃げ道を塞がれる。
息を呑む間も無く、私は抗えない力で彼の胸の中へと引き寄せられた。
──カラン、と。
静かな部屋に、乾いた音を立てて白杖が床を転がる。
身体の一部のように大切にしていたそれを放り出してまで、彼は私を壊れ物のように強く抱きしめた。
「僕も相当に鈍いけれど、咲花さんも……なかなかの鈍感だね」
呆れたような、でも愛しさが滲む声。
引き寄せられた私の額に、彼の額がこつんと重なる。至近距離で、彼が喉を鳴らして密やかに笑うのが分かった。
──そんなふうに、悪戯っぽく笑う人だったんだ。
(ていうか……顔、近すぎ……っ!!)
鼻先が触れそうなほどの距離。遮るもののない彼の体温と、鼓膜を震わせる低い声。
さっきまで張り裂けそうだった胸は、今度は別の熱を帯びて、壊れてしまいそうなほど激しく脈打っている。
「……僕の大切で、大好きな人は、咲花さんだよ。 どうかな、喜んでくれる?」
その響きに、堰を切ったように視界が滲む。
零れ落ちそうになった雫を、彼の指先が吸い取るようにそっと掬い上げた。
「……これは、嬉し涙? ……僕の、都合のいい勘違いかな?」
探るように、震える指先が私の頬をなぞる。
私の頬を濡らした涙が彼の指の腹を伝うと、晃希さんは少しだけ不安そうに、探るように眉を寄せた。
晃希さんの瞳は何も映していないはずなのに、至近距離で見つめられると、心の奥まで射抜かれているような錯覚に陥る。
その指先の震えが愛おしくて、私は彼の大きな手を自分の頬へ重ね、声を絞り出した。
「……もちろん、嬉し涙ですよ! 晃希さんこそ、相当な鈍感ですっ!!」
精一杯の、可愛くない意趣返し。
──けれど、その夜。
想いが通じ合った喜びと、彼が隠し持っていた深い独占欲に、私は翻弄されることになる。
藪をつついて出てきたのは、私の知っている穏やかな晃希さんとは違う、執着心の強い「男」の顔をした彼だった。




