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あの日、フレグランスショップで突きつけられたのは、言葉にできないほどの圧倒的な「差」だった。


贅を尽くした店構え、一点の曇りもない硝子瓶の輝き。

そして、洗練された櫻井店長と対等に、楽しげに専門的な言葉を交わす晃希さんの横顔……。


隣に立っていたはずの私は、いつの間にか透明な壁の向こう側に置き去りにされたような、冷たい疎外感に震えていた。


(私は、何をしていたんだろう……)


恵まれた環境に、周りの人たちの優しさに甘えて、ただ「家政婦の仕事」をこなせていると勘違いしていた。


晃希さんに頼られたことで、彼らと同じ地平に立てたと思い上がっていたのだ。


けれど、あの店での彼は、私の知らない「優秀な調香師」だった。


私が一生懸命覚えたお粥の作り方や、階段の昇り降りの補助なんて、あの洗練された世界では、何の役にも立たないのだと思い知らされた。


(もっと、彼の役に立ちたい。 この屋敷に相応しい、家政婦になりたい……)


あの日以来、私は取り憑かれたように動いていた。


喜美子さんへこれまで以上に積極的に質問し、掃除の細かな手順から献立の隠し味まで、教えを乞うた。


自身に足りないものを模索し、家事という仕事を極めようと必死に足掻いた。


そして何より、晃希さんのことを、なるべく不自然にならない範囲で見守るよう努めた。


──あの日、彼が負った手の怪我。


もし私がもっと気を付けて見ていたら、防げていたかもしれない。

あの痛々しい傷跡を思い出すたび、胸が締め付けられる。


私が「家政婦」としてもっと優秀であれば、彼をあんな風に傷つけることはなかったはずなのだ。


けれど、ただ家事をこなすだけでは足りない。


目の見えない人が、家族の中でどのように笑い、どのように日常を積み重ねているのか。


その真実を知りたかった。 実際に見聞きして、彼の「不自由」ではなく、彼の「人生」に寄り添える方法を学びたかった。


その一心で、私は晃希さんを幼い頃から診ている大先生(おおせんせい)──星野(ほしの)先生に相談した。

自分の不甲斐なさを埋めるための「正解」を求めて。


『……若い人ってのは、本当に色々と、余計なことまで考えすぎるものだが。 まあ、考えが足りないよりはマシかな』


大先生はそう独り言ちながらも、ある一軒の家を紹介してくれた。


「目が見えない人と共に歩む日常」が、そこにはあるのだという。


***


面識のない家の前で、私は何度も深呼吸を繰り返していた。


手にした手土産の袋が、指先の汗でわずかに湿る。

耳には遠く車のエンジン音と鳥の囀りが聞こえ、鼻には庭先の緑の匂いが届く。


(大丈夫! 失礼のないように、しっかりお話を聞こう……)


意を決してインターホンを押すと、スピーカー越しに弾んだ声が響いた。


『はーい! どなたですか?』


「はじめまして! 星野先生からご紹介いただきました、吉野と申します。 本日、お約束をさせていただいた……」


『ああ! 吉野さんですね。 今、開けますね〜!』


弾むような明るい声に、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。


ガチャリと開いたドアの向こうから、優しい温かな生活の匂いが溢れ出してきた。


奥様は妊娠七ヶ月のふっくらしたお腹を愛おしそうに擦りながら、私をリビングに案内してくれた。


「コーヒー、紅茶……それとも緑茶がいいかな?

あ、今はノンカフェインのルイボスティーもあるよ!」


「あ、本当にお構いなく! 突然お邪魔してしまって、こちらこそ申し訳ありません」


「いいのよ、少し動いた方がいいって先生にも言われているんだから!」


その屈託のない笑顔に甘えて、私は道すがら購入した《栗きんとん》を差し出した。


奥様が「わあ、ここの大好き! 主人と一緒にいただこうかしら」と喜んでくれたことで、ようやく私の心に温かな灯がともる。


***


二人で緑茶を味わっていると、リビングのドアが静かに開いた。


コツ、コツ……と、白杖を床に滑らせる一定のリズム。

仕事着の男性が、迷いのない足取りで入ってくる。


この家の御主人、佐伯(さえき) 健悟(けんご)さんだ。


「……お邪魔しています。 星野先生から伺って来ました、吉野と申します!」


「ああ、奥さんから聞いてますよ。 うん? 何かいい匂いがするね。 栗かな? 俺も混ぜてくれないか?」


彼は手探りで、向かいの椅子を引いて腰を下ろした。


お茶を啜り、栗きんとんを頬張りながら笑い合う二人。

そこには何の障害も、不自然な気遣いも感じられない。


あるのは、積み重ねてきたであろう、ごく当たり前の「幸せな日常」の風景だった。


「吉野さんは、如月さんのお屋敷で働いているんだってね。……俺と同じ、目が見えない彼と共同生活を?」


彼の声には、驚きや偏見はなく、純粋な興味と好奇心が混ざっていた。


「はい。 家政婦として、もっとできることがあるのではと思い、今日はアドバイスを頂きたくて伺いました」


「アドバイスねぇ。 奥さん、何かあるかな?」


彼が奥様に振ると、優しく微笑んだ奥様が答える。


「そう考えてここまで足を運んだ。 それだけで、もう十分なんじゃないかな」


「え……?」


「僕らの経験は参考止まり。 結局、当事者同士で話し合って、二人だけの形を作っていくしかないんだよ!」


健悟さんはカラリと笑い、「休憩が終わるから」と仕事場の治療院へ戻っていった。


簡潔すぎる、けれど確かな重みのある言葉に、私はしばらく呆然としていた。


「……あっ! 私、ご挨拶もせずに……!」


ハッと我に返ったときには、もう彼の気配はない。


黙ったまま退室を見送ってしまった自分の不作法に慌てると、奥様が可笑しそうに肩を揺らした。


「フフッ! 大丈夫だよ、吉野さん。 気にしないで、元々がああいう人なの。……そういうところを、私もいつの間にか好きになっちゃったんだから。 やだっ…! 惚気けちゃったかな?」


少し照れ臭そうに笑う奥様の表情を見て、私の胸の奥に詰まっていた「正しくあらねば」という冷たい塊が、音を立てて崩れていくのがわかった。


私が求めていた「特別なスキル」なんて、この夫婦の前では、どこか滑稽なほど小さなことに思えた。


***


駅までの帰り道を、奥様がゆっくりとした足取りで送ってくれる。


休憩がてら、陽射しが優しく降り注ぐ途中の公園に寄った。

木々の葉が風に揺れる音や、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。


ベンチに腰を下ろすと、奥様がトートバッグからボトルを取り出した。


「家を出る前に用意しておいたの。 シトラス風味のハーブティーだよ! 苦手じゃなければいいんだけど…」


「大丈夫です。 いただきます!」


透き通った黄金色の液体が紙コップに注がれると、爽やかな香りがほのかに漂う。

口に含むと、苦味の少ないハーブの風味が舌の上に柔らかく広がった。


「私、一度、離婚しているんです」


不意に、自分の過去を口にしていた。

爽やかなシトラスの香りが、頑なだった心を押し流そうとしたのかもしれない。


「そう…大変だった?」


「それなりに、色々とありました…。 でも、今のお屋敷で過ごすうちに段々と癒されていくのがわかりました」


「…居心地が良いところなんだ?」


「はい、私には分不相応なくらいに…。 回りの環境も関わる人達も、晃希さんも…」


「…失望、されたくないの?」


「はい。 きっと、今の幸せを失うのが怖くて仕方ないんだと思います…」


紙コップをきゅっと指先で握って、口元をつぐむ。

私の震える告白を、奥様は静かに聞いてくれた。


「この子を授かったときね…私、一瞬だけ怖くなったの。 もし旦那と同じように目が見えなかったら? この子が辛い思いをしたら? 私は、守りきれるのかって…」


奥様の瞳に、一瞬だけ過去の不安が混ざり合って揺れた。


「でもね、旦那が言ってくれたの! 幸せかどうかなんて、その時々で変わるものだって。……結局のところ、私は旦那の反応が怖かっただけ。 授かったことを、ただ一緒に喜んで欲しかったんだとわかった。……吉野さんも如月さんと、しっかり話し合った方がいいと思うよ?」


……その柔らかい微笑みに、固く閉ざしていた心の背中を、そっと押された気がした。

シトラスの余韻が残る喉の奥を、熱い決意が鮮やかに駆け抜ける。


──帰り道、駅前の和菓子屋で、同じ《栗きんとん》を…と、思ったけれど売り切れだったので代わりの物を手にした。


これは「献上品」でも、「完璧な家政婦としての義務」でもない。


ただ、今の等身大の私の気持ちを。私の弱さも、怖さも、すべてを。

あの日、彼が淹れてくれたハーブティーのように、温かな言葉で伝えたい。


夕暮れに染まる屋敷へと、もう迷うことのない確かな足取りで、私は歩き出した。




※セリフの長い箇所が…削れず。

読み難かったら、すみません!

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