⑥
あの日、フレグランスショップで突きつけられたのは、言葉にできないほどの圧倒的な「差」だった。
贅を尽くした店構え、一点の曇りもない硝子瓶の輝き。
そして、洗練された櫻井店長と対等に、楽しげに専門的な言葉を交わす晃希さんの横顔……。
隣に立っていたはずの私は、いつの間にか透明な壁の向こう側に置き去りにされたような、冷たい疎外感に震えていた。
(私は、何をしていたんだろう……)
恵まれた環境に、周りの人たちの優しさに甘えて、ただ「家政婦の仕事」をこなせていると勘違いしていた。
晃希さんに頼られたことで、彼らと同じ地平に立てたと思い上がっていたのだ。
けれど、あの店での彼は、私の知らない「優秀な調香師」だった。
私が一生懸命覚えたお粥の作り方や、階段の昇り降りの補助なんて、あの洗練された世界では、何の役にも立たないのだと思い知らされた。
(もっと、彼の役に立ちたい。 この屋敷に相応しい、家政婦になりたい……)
あの日以来、私は取り憑かれたように動いていた。
喜美子さんへこれまで以上に積極的に質問し、掃除の細かな手順から献立の隠し味まで、教えを乞うた。
自身に足りないものを模索し、家事という仕事を極めようと必死に足掻いた。
そして何より、晃希さんのことを、なるべく不自然にならない範囲で見守るよう努めた。
──あの日、彼が負った手の怪我。
もし私がもっと気を付けて見ていたら、防げていたかもしれない。
あの痛々しい傷跡を思い出すたび、胸が締め付けられる。
私が「家政婦」としてもっと優秀であれば、彼をあんな風に傷つけることはなかったはずなのだ。
けれど、ただ家事をこなすだけでは足りない。
目の見えない人が、家族の中でどのように笑い、どのように日常を積み重ねているのか。
その真実を知りたかった。 実際に見聞きして、彼の「不自由」ではなく、彼の「人生」に寄り添える方法を学びたかった。
その一心で、私は晃希さんを幼い頃から診ている大先生──星野先生に相談した。
自分の不甲斐なさを埋めるための「正解」を求めて。
『……若い人ってのは、本当に色々と、余計なことまで考えすぎるものだが。 まあ、考えが足りないよりはマシかな』
大先生はそう独り言ちながらも、ある一軒の家を紹介してくれた。
「目が見えない人と共に歩む日常」が、そこにはあるのだという。
***
面識のない家の前で、私は何度も深呼吸を繰り返していた。
手にした手土産の袋が、指先の汗でわずかに湿る。
耳には遠く車のエンジン音と鳥の囀りが聞こえ、鼻には庭先の緑の匂いが届く。
(大丈夫! 失礼のないように、しっかりお話を聞こう……)
意を決してインターホンを押すと、スピーカー越しに弾んだ声が響いた。
『はーい! どなたですか?』
「はじめまして! 星野先生からご紹介いただきました、吉野と申します。 本日、お約束をさせていただいた……」
『ああ! 吉野さんですね。 今、開けますね〜!』
弾むような明るい声に、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
ガチャリと開いたドアの向こうから、優しい温かな生活の匂いが溢れ出してきた。
奥様は妊娠七ヶ月のふっくらしたお腹を愛おしそうに擦りながら、私をリビングに案内してくれた。
「コーヒー、紅茶……それとも緑茶がいいかな?
あ、今はノンカフェインのルイボスティーもあるよ!」
「あ、本当にお構いなく! 突然お邪魔してしまって、こちらこそ申し訳ありません」
「いいのよ、少し動いた方がいいって先生にも言われているんだから!」
その屈託のない笑顔に甘えて、私は道すがら購入した《栗きんとん》を差し出した。
奥様が「わあ、ここの大好き! 主人と一緒にいただこうかしら」と喜んでくれたことで、ようやく私の心に温かな灯がともる。
***
二人で緑茶を味わっていると、リビングのドアが静かに開いた。
コツ、コツ……と、白杖を床に滑らせる一定のリズム。
仕事着の男性が、迷いのない足取りで入ってくる。
この家の御主人、佐伯 健悟さんだ。
「……お邪魔しています。 星野先生から伺って来ました、吉野と申します!」
「ああ、奥さんから聞いてますよ。 うん? 何かいい匂いがするね。 栗かな? 俺も混ぜてくれないか?」
彼は手探りで、向かいの椅子を引いて腰を下ろした。
お茶を啜り、栗きんとんを頬張りながら笑い合う二人。
そこには何の障害も、不自然な気遣いも感じられない。
あるのは、積み重ねてきたであろう、ごく当たり前の「幸せな日常」の風景だった。
「吉野さんは、如月さんのお屋敷で働いているんだってね。……俺と同じ、目が見えない彼と共同生活を?」
彼の声には、驚きや偏見はなく、純粋な興味と好奇心が混ざっていた。
「はい。 家政婦として、もっとできることがあるのではと思い、今日はアドバイスを頂きたくて伺いました」
「アドバイスねぇ。 奥さん、何かあるかな?」
彼が奥様に振ると、優しく微笑んだ奥様が答える。
「そう考えてここまで足を運んだ。 それだけで、もう十分なんじゃないかな」
「え……?」
「僕らの経験は参考止まり。 結局、当事者同士で話し合って、二人だけの形を作っていくしかないんだよ!」
健悟さんはカラリと笑い、「休憩が終わるから」と仕事場の治療院へ戻っていった。
簡潔すぎる、けれど確かな重みのある言葉に、私はしばらく呆然としていた。
「……あっ! 私、ご挨拶もせずに……!」
ハッと我に返ったときには、もう彼の気配はない。
黙ったまま退室を見送ってしまった自分の不作法に慌てると、奥様が可笑しそうに肩を揺らした。
「フフッ! 大丈夫だよ、吉野さん。 気にしないで、元々がああいう人なの。……そういうところを、私もいつの間にか好きになっちゃったんだから。 やだっ…! 惚気けちゃったかな?」
少し照れ臭そうに笑う奥様の表情を見て、私の胸の奥に詰まっていた「正しくあらねば」という冷たい塊が、音を立てて崩れていくのがわかった。
私が求めていた「特別なスキル」なんて、この夫婦の前では、どこか滑稽なほど小さなことに思えた。
***
駅までの帰り道を、奥様がゆっくりとした足取りで送ってくれる。
休憩がてら、陽射しが優しく降り注ぐ途中の公園に寄った。
木々の葉が風に揺れる音や、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
ベンチに腰を下ろすと、奥様がトートバッグからボトルを取り出した。
「家を出る前に用意しておいたの。 シトラス風味のハーブティーだよ! 苦手じゃなければいいんだけど…」
「大丈夫です。 いただきます!」
透き通った黄金色の液体が紙コップに注がれると、爽やかな香りがほのかに漂う。
口に含むと、苦味の少ないハーブの風味が舌の上に柔らかく広がった。
「私、一度、離婚しているんです」
不意に、自分の過去を口にしていた。
爽やかなシトラスの香りが、頑なだった心を押し流そうとしたのかもしれない。
「そう…大変だった?」
「それなりに、色々とありました…。 でも、今のお屋敷で過ごすうちに段々と癒されていくのがわかりました」
「…居心地が良いところなんだ?」
「はい、私には分不相応なくらいに…。 回りの環境も関わる人達も、晃希さんも…」
「…失望、されたくないの?」
「はい。 きっと、今の幸せを失うのが怖くて仕方ないんだと思います…」
紙コップをきゅっと指先で握って、口元をつぐむ。
私の震える告白を、奥様は静かに聞いてくれた。
「この子を授かったときね…私、一瞬だけ怖くなったの。 もし旦那と同じように目が見えなかったら? この子が辛い思いをしたら? 私は、守りきれるのかって…」
奥様の瞳に、一瞬だけ過去の不安が混ざり合って揺れた。
「でもね、旦那が言ってくれたの! 幸せかどうかなんて、その時々で変わるものだって。……結局のところ、私は旦那の反応が怖かっただけ。 授かったことを、ただ一緒に喜んで欲しかったんだとわかった。……吉野さんも如月さんと、しっかり話し合った方がいいと思うよ?」
……その柔らかい微笑みに、固く閉ざしていた心の背中を、そっと押された気がした。
シトラスの余韻が残る喉の奥を、熱い決意が鮮やかに駆け抜ける。
──帰り道、駅前の和菓子屋で、同じ《栗きんとん》を…と、思ったけれど売り切れだったので代わりの物を手にした。
これは「献上品」でも、「完璧な家政婦としての義務」でもない。
ただ、今の等身大の私の気持ちを。私の弱さも、怖さも、すべてを。
あの日、彼が淹れてくれたハーブティーのように、温かな言葉で伝えたい。
夕暮れに染まる屋敷へと、もう迷うことのない確かな足取りで、私は歩き出した。
※セリフの長い箇所が…削れず。
読み難かったら、すみません!




