⑤
手の怪我が完治に近づいたある日の夕暮れ。
咲花さんは、キッチンで片付けを終えると、少し遠慮がちな声で僕に話しかけてきた。
「……あの、ご相談なのですが。 近いうちに、一日お休みをいただくことは可能でしょうか?」
正直、心臓が跳ねるほど驚いた。
この屋敷に来てから、彼女が自分から休みを求めたことは一度もなかったからだ。
「もちろんです! いえ、今まで気が回らなくてすみません。 僕の方から休養を勧めるべきでしたね」
動揺を隠そうと、明るく振る舞った僕に、彼女の声が微かに震えたのがわかる。
言葉に詰まるわずかな間、息遣いの乱れ、指先の小さな動き……
目は見えないけれど、彼女の迷いと覚悟は、確かに伝わってきた。
「いえ、そんな。 少し……諸事情がありまして。 我儘を言って申し訳ありません」
その声の微かな揺れは、悲しさにも決意にも聞こえ、僕は胸の奥で少し不安になった。
……ただの休暇ではない、何か理由があるのだと。
ショップから戻ったあの日以来、彼女の足音は以前のような軽やかさを失い、屋敷中を追われるように動き回っていた。
その気配は、僕に頼ることを頑なに拒んでいるようにも感じられた。
──そして今日、咲花さんは初めての休日を取った。
朝のうちに温めるだけで食べられる昼食を準備してくれ、「何かあったら、すぐに連絡してくださいね」と何度も念を押して出かけていった。
全く問題は無い──が、彼女が去ったあとの屋敷は驚くほど「空っぽ」だった。
『晃希さん、おはようございます!』
『コーヒーのおかわり、どうですか?』
『今日は、天気がよくて気持ち良いですね!』
耳を澄ませても、僕の名前を呼ぶあの弾んだ声は聞こえない。
洗濯機の振動、タオルをパンパンと干す音、廊下を歩く柔らかな足音──
それらすべての「生活の音」が消えた屋敷は、彼女が来る前の冷え切った静寂に逆戻りしたように思えた。
耳を澄ますほど、呼吸のリズムが乱れ、僕は自分が彼女の存在で日常を保っていたことに気づく。
「……寂しいな」
ポツリと零れた独り言が、広いリビングに虚しく反響する。
その余韻に耐えきれず、僕はソファから立ち上がった。
リビングに漂う「彼女が今朝までそこにいた気配」から逃れるように。
あるいは…調香という自分だけの世界に没頭することで、胸に空いた穴を塞ごうとするかのように、僕は二階のアトリエへと足を向けた。
慣れ親しんだ階段にそっと白杖を滑らせ、一段一段を自身の重みを確かめるように踏みしめていく。
重厚な扉を開け、無機質な硝子瓶の触感と、落ち着いた精油の香りに囲まれてようやく、僕は肺の奥まで深く息を吸い込む。
ここなら、迷うことはない。
すべては僕の指先が覚えている、秩序ある世界だ。
──けれど、その静寂さえもそう長くは続かなかった。
「……晃希さんっ! 聞こえて無いんですか!?」
二階のアトリエで、所在なげにムエットを振っていた僕を、喜美子さんの鋭い声が引き戻した。
作業が進んでいないことを見抜かれたのだろう、無理やり腕を引かれ、一階へ連行された。
応接室のソファーに座らされ、淹れたての紅茶が僕の手元に置かれる。
向かいに座る喜美子さんのエプロンの擦れる音が、何かしらの「圧力」を予感させ、僕は自然に背筋を伸ばした。
***
「咲花さんと、何かあったんですか?」
私は含みを持たせずに、真正面から晃希さんに尋ねる。
絶対に、二人でフレグランスショップへ行ってから、咲花さんの様子が変わったのだ。
それまでは『誠実に仕事をこなす』というスタンスだったのが、今は自分を追い込むように、必要以上に仕事を自身に課している。
晃希さんの事も、気を張って見守るようになっていた…。
まるで、何かを振り切るために仕事へ没頭していた、晃希さんのお母様のように。
──数日前、屋敷を訪ねた私に、咲花さんは申し訳なさそうにこう切り出しのです。
『実は、今度の週末に一日お休みを頂くことになりまして……。 申し訳ありませんが、その日に晃希さんの様子を見に来ていただけませんか?』
その言葉を聞いたとき、私は感慨深い思いで承諾しました。
今や彼女は、私が毎日顔を出さずとも、この広い屋敷の家政を完璧にこなせるようになっている。
それほどまでに立派に成長した彼女が、わざわざ私を呼び戻してまで「休み」を欲したのだから…。
それは単なる休息ではなく、何か切実な理由があるのだと、あの子の引き締まった表情が物語っていました。
「何かって? ……咲花さんは責任感が強いですから。僕も、信頼してますよ」
呑気に答える晃希さんに、私は呆れて息を吐いた。
自身が原因だと、思い至らないのだろうか。
「本当に? 何か心当たりもありませんか!?」
私はあえて、逃げ道を塞ぐように問い詰めました。
すると…晃希さんは、少し気まずそうに眉を下げて聞き返してきたのです。
「……喜美子さんは、何か知っているんですか?」
「様子がおかしいことくらい、察することができます!」
「そうですね。……僕も、そう思っていました」
(──思っていたなら、なぜ本人に聞かないのよ!? 同じ屋敷で暮らしているっていうのに!!)
心の中で叫んだ私の叫びを、晃希さんは気付くはずもないのでしょう。
この子は、調香のことになれば驚くほど鋭い感覚を発揮するくせに、自分のこと……いえ、大切な女の子のこととなると、途端にこれです。
「……怖かったんです、確かめるのが。……咲花さんが、この屋敷を出たがっているのではないかと」
冷めかけた紅茶のカップを両手で包み込み、ようやく絞り出すように晃希さんから漏れ出た言葉は、あまりにも情けなくて、けれど切実な響きを含んでいました。
それを聞いた私は、思わず持っていたカップを落としそうになりました。
「…………はぁ?」
あまりに見当違いな……いえ、斜め上すぎる彼の被害妄想に、驚きを通り越して、変な声が出てしまいました。
「咲花さんがいつ、この屋敷を出たいなんて言いましたか?」
私はテーブルに手をつき、鼻息も荒く思わず身を乗り出します。
私の剣幕に驚いたのでしょう…晃希さんは「落ち着いて」とでも言うように、私へと手をかざしながら答えたのです。
「いえ、何となくですが……。 あの日、ショップへ一緒に行ってから、彼女、急に『家政婦の仕事を極めたい』なんて言い出したりして…喜美子さんにも、猛烈に質問攻めをしていたでしょう?」
「……ええ、そうですね。それで? それがどうして『屋敷を出る』に繋がるのですか?」
私の問いに、晃希さんは「何を当然のことを」と言わんばかりの、至極真面目なトーンで続けました。
「仕事を極めたいのなら、この屋敷に留まるより、他で経験を積みたいと思っても不思議ではありません。……僕と違って、彼女にはどこへでも行ける自由があるんですから」
(……ダメだわ、この子。 重症だわ!)
おばあちゃんの私から見れば、二人が見事なまでに空回りしているのは一目瞭然です。
一周回って面白くなってきたので、このまま放置して高みの見物でも決め込もうかしら……なんて意地悪な考えが頭をよぎりましたが、いけませんね。
このままじゃ、この迷える子羊さんは一生、暗闇の中で「一人反省会」を続けてしまいそう。
「老婆心ながら、はっきり申し上げます。……いいですか、晃希さん。 彼女が帰ってきたら、きちんと言葉を交わしなさい。……逃げてはいけませんよ!」
「……はい。 わかりました!」
いくつになっても、手の掛かる子だけど……私が口を酸っぱくして言えるのも、今のうちだけです。
いつかは、私も旦那様の元へ行かなくてはならない。
その日までに……人一倍に辛い思いをしても、優しくあろうとする強くて愛しいこの青年が、幸福を掴み心からの笑顔を見せてほしいと、ただ強く願うことしかできない。
──思考に耽る晃希さんの邪魔はしたくありません。
私は糊のきいたエプロンの音を立てぬよう静かに立ち上がり、咲花さんが残していった昼食を温めるため、そっと部屋を出ました。




