表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12


手の怪我が完治に近づいたある日の夕暮れ。


咲花さんは、キッチンで片付けを終えると、少し遠慮がちな声で僕に話しかけてきた。


「……あの、ご相談なのですが。 近いうちに、一日お休みをいただくことは可能でしょうか?」


正直、心臓が跳ねるほど驚いた。


この屋敷に来てから、彼女が自分から休みを求めたことは一度もなかったからだ。


「もちろんです! いえ、今まで気が回らなくてすみません。 僕の方から休養を勧めるべきでしたね」


動揺を隠そうと、明るく振る舞った僕に、彼女の声が微かに震えたのがわかる。


言葉に詰まるわずかな間、息遣いの乱れ、指先の小さな動き……

目は見えないけれど、彼女の迷いと覚悟は、確かに伝わってきた。


「いえ、そんな。 少し……諸事情がありまして。 我儘を言って申し訳ありません」


その声の微かな揺れは、悲しさにも決意にも聞こえ、僕は胸の奥で少し不安になった。


……ただの休暇ではない、何か理由があるのだと。


ショップから戻ったあの日以来、彼女の足音は以前のような軽やかさを失い、屋敷中を追われるように動き回っていた。

その気配は、僕に頼ることを頑なに拒んでいるようにも感じられた。


──そして今日、咲花さんは初めての休日を取った。


朝のうちに温めるだけで食べられる昼食を準備してくれ、「何かあったら、すぐに連絡してくださいね」と何度も念を押して出かけていった。


全く問題は無い──が、彼女が去ったあとの屋敷は驚くほど「空っぽ」だった。


『晃希さん、おはようございます!』


『コーヒーのおかわり、どうですか?』


『今日は、天気がよくて気持ち良いですね!』


耳を澄ませても、僕の名前を呼ぶあの弾んだ声は聞こえない。


洗濯機の振動、タオルをパンパンと干す音、廊下を歩く柔らかな足音──

それらすべての「生活の音」が消えた屋敷は、彼女が来る前の冷え切った静寂に逆戻りしたように思えた。


耳を澄ますほど、呼吸のリズムが乱れ、僕は自分が彼女の存在で日常を保っていたことに気づく。


「……寂しいな」


ポツリと零れた独り言が、広いリビングに虚しく反響する。


その余韻に耐えきれず、僕はソファから立ち上がった。


リビングに漂う「彼女が今朝までそこにいた気配」から逃れるように。

あるいは…調香という自分だけの世界に没頭することで、胸に空いた穴を塞ごうとするかのように、僕は二階のアトリエへと足を向けた。


慣れ親しんだ階段にそっと白杖を滑らせ、一段一段を自身の重みを確かめるように踏みしめていく。


重厚な扉を開け、無機質な硝子瓶の触感と、落ち着いた精油の香りに囲まれてようやく、僕は肺の奥まで深く息を吸い込む。


ここなら、迷うことはない。

すべては僕の指先が覚えている、秩序ある世界だ。


──けれど、その静寂さえもそう長くは続かなかった。


「……晃希さんっ! 聞こえて無いんですか!?」


二階のアトリエで、所在なげにムエットを振っていた僕を、喜美子さんの鋭い声が引き戻した。


作業が進んでいないことを見抜かれたのだろう、無理やり腕を引かれ、一階へ連行された。


応接室のソファーに座らされ、淹れたての紅茶が僕の手元に置かれる。


向かいに座る喜美子さんのエプロンの擦れる音が、何かしらの「圧力」を予感させ、僕は自然に背筋を伸ばした。


***


「咲花さんと、何かあったんですか?」


私は含みを持たせずに、真正面から晃希さんに尋ねる。


絶対に、二人でフレグランスショップへ行ってから、咲花さんの様子が変わったのだ。


それまでは『誠実に仕事をこなす』というスタンスだったのが、今は自分を追い込むように、必要以上に仕事を自身に課している。


晃希さんの事も、気を張って見守るようになっていた…。


まるで、何かを振り切るために仕事へ没頭していた、晃希さんのお母様のように。


──数日前、屋敷を訪ねた私に、咲花さんは申し訳なさそうにこう切り出しのです。


『実は、今度の週末に一日お休みを頂くことになりまして……。 申し訳ありませんが、その日に晃希さんの様子を見に来ていただけませんか?』


その言葉を聞いたとき、私は感慨深い思いで承諾しました。


今や彼女は、私が毎日顔を出さずとも、この広い屋敷の家政を完璧にこなせるようになっている。


それほどまでに立派に成長した彼女が、わざわざ私を呼び戻してまで「休み」を欲したのだから…。


それは単なる休息ではなく、何か切実な理由があるのだと、あの子の引き締まった表情が物語っていました。


「何かって? ……咲花さんは責任感が強いですから。僕も、信頼してますよ」


呑気に答える晃希さんに、私は呆れて息を吐いた。

自身が原因だと、思い至らないのだろうか。


「本当に? 何か心当たりもありませんか!?」


私はあえて、逃げ道を塞ぐように問い詰めました。

すると…晃希さんは、少し気まずそうに眉を下げて聞き返してきたのです。


「……喜美子さんは、何か知っているんですか?」


「様子がおかしいことくらい、察することができます!」


「そうですね。……僕も、そう思っていました」


(──思っていたなら、なぜ本人に聞かないのよ!? 同じ屋敷で暮らしているっていうのに!!)


心の中で叫んだ私の叫びを、晃希さんは気付くはずもないのでしょう。

この子は、調香のことになれば驚くほど鋭い感覚を発揮するくせに、自分のこと……いえ、大切な女の子のこととなると、途端にこれです。


「……怖かったんです、確かめるのが。……咲花さんが、この屋敷を出たがっているのではないかと」


冷めかけた紅茶のカップを両手で包み込み、ようやく絞り出すように晃希さんから漏れ出た言葉は、あまりにも情けなくて、けれど切実な響きを含んでいました。


それを聞いた私は、思わず持っていたカップを落としそうになりました。


「…………はぁ?」


あまりに見当違いな……いえ、斜め上すぎる彼の被害妄想に、驚きを通り越して、変な声が出てしまいました。


「咲花さんがいつ、この屋敷を出たいなんて言いましたか?」


私はテーブルに手をつき、鼻息も荒く思わず身を乗り出します。

私の剣幕に驚いたのでしょう…晃希さんは「落ち着いて」とでも言うように、私へと手をかざしながら答えたのです。


「いえ、何となくですが……。 あの日、ショップへ一緒に行ってから、彼女、急に『家政婦の仕事を極めたい』なんて言い出したりして…喜美子さんにも、猛烈に質問攻めをしていたでしょう?」


「……ええ、そうですね。それで? それがどうして『屋敷を出る』に繋がるのですか?」


私の問いに、晃希さんは「何を当然のことを」と言わんばかりの、至極真面目なトーンで続けました。


「仕事を極めたいのなら、この屋敷に留まるより、他で経験を積みたいと思っても不思議ではありません。……僕と違って、彼女にはどこへでも行ける自由があるんですから」


(……ダメだわ、この子。 重症だわ!)


おばあちゃんの私から見れば、二人が見事なまでに空回りしているのは一目瞭然です。


一周回って面白くなってきたので、このまま放置して高みの見物でも決め込もうかしら……なんて意地悪な考えが頭をよぎりましたが、いけませんね。

このままじゃ、この迷える子羊さんは一生、暗闇の中で「一人反省会」を続けてしまいそう。


「老婆心ながら、はっきり申し上げます。……いいですか、晃希さん。 彼女が帰ってきたら、きちんと言葉を交わしなさい。……逃げてはいけませんよ!」


「……はい。 わかりました!」


いくつになっても、手の掛かる子だけど……私が口を酸っぱくして言えるのも、今のうちだけです。


いつかは、私も旦那様の元へ行かなくてはならない。


その日までに……人一倍に辛い思いをしても、優しくあろうとする強くて愛しいこの青年が、幸福を掴み心からの笑顔を見せてほしいと、ただ強く願うことしかできない。


──思考に耽る晃希さんの邪魔はしたくありません。

私は糊のきいたエプロンの音を立てぬよう静かに立ち上がり、咲花さんが残していった昼食を温めるため、そっと部屋を出ました。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ