④
それは、穏やかな夕暮れの空気を切り裂くような、突然の破裂音だった。
『ガシャン……!! パリンッ!!』
二階の調香室から響いた、硬質なガラスが砕け散る音。
キッチンで夕食の準備をしていた私と喜美子さんは、弾かれたように顔を見合わせ、慌てて階段を駆け上がった。
扉を開けると、そこには無残に割れたフラスコと、床に広がる精油の染み、そして静かに立ち尽くす晃希さんの姿があった。
「……驚かせて、すみません。 久々に失敗してしまいました」
落ち着き払った声に、一瞬安堵しかけた。
しかし、後から駆け込んだ喜美子さんが、悲鳴のような声を上げる。
「……はぁっ! 晃希さん、手を! すぐに見せてください!!」
彼がギュッと握りしめていた右手が、ゆっくりと開かれる。
手のひらには、鋭いガラスの破片で切ったのだろう、パックリと開いた傷口から鮮やかな血が滴り落ちていた。
「吉野さん! 星野医院に、直ぐに電話してちょうだい!!」
喜美子さんの迷いのない止血処置の横で、私は震える指でスマホを握った。
完璧だった彼の「聖域」が、ほんの少しの綻びで、こんなにも残酷に牙を剥くなんて。
その事実に、指先はいつまでも凍えたように震えていた。
星野医院へ連絡を終え、数十分後。
往診に駆けつけてくれた大先生の落ち着いた声が、室内に響いた。
「……うん。縫うほどでもないし、処置が的確で早かったから、傷も残らず完治するよ」
大先生は、手際よく晃希さんの手のひらに包帯を巻きながら、傍らで固唾を飲む喜美子さんに告げた。
往診カバンの音と、消毒液の匂いが、パニックになりかけていた私の心を少しずつ鎮めていく。
「……よかった!」
喜美子さんの口から、ひときわ大きな安堵の溜息が漏れた。
……けれど、それはすぐに、激しい「お説教」へと変わる。
「……もう! 晃希さん、私の寿命を縮める気ですか!? あれほど気をつけてくださいと、言ってきたのに!!」
安心した反動だろう。
喜美子さんの声は、いつになく荒い。
まるで、自分の息子が不注意で怪我をしたのを叱り飛ばす母親そのものだった。
「……すみません。 考え事をしながら作業をしてしまって、つい手を滑らせました……」
晃希さんは、包帯を巻かれた右手を少し気まずそうに翳しながら、喜美子さんを宥めるように小さく微笑んだ。
その申し訳なさそうな顔が、いつもの「完璧な調香師」ではなく、いたずらが見つかった少年のように見えて、胸の奥が少しだけキュッとなる。
「……これ、痛み止めと抗生剤ね。 今日から三日間、食後に必ず飲ませるんだよ」
大先生が、私の手元に薬袋を差し出す。
「あ、はい! 承知しました」
薬袋を受け取ったとき、改めて、この屋敷の「主」の体を預かっているという責任の重さを、指先から感じた。
***
嵐のような騒ぎが去ると、屋敷は吸い込まれるような静寂に包まれた。
包帯を巻かれ、力なく横たわる彼の蒼白な横顔が、網膜に焼き付いて離れない。
私は、喜美子さんが弱火にかけていたお鍋の音に促されるように、夕食のトレイを手に取った。
『コンコン』
彼の部屋のドアをノックする。
ワゴンに乗せているのは、喜美子さん特製の『鳥ササミと野菜のおじや』だ。
「お加減は、どうですか……?」
「ありがとう。 騒がせてしまって、本当にすみません」
ベッドに腰掛けた彼は、トレーの上に置かれたスプーンに手を伸ばそうとして、ハッと動きを止めた。
包帯で巻かれた利き手は、スプーンを握ることすら許してくれない。
「……私が、やります。 お口に運びますから」
「……本当に、すみません。……むぐっ!?」
「あっ! すみません! スプーンを入れるの、早かったですか!?」
「……大、丈夫です」
慣れない「給餌」は、距離感もタイミングも難しく、酷く気まずい。
けれど、一生懸命に食事を摂る彼の姿を見ていたら、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
「ありがとう。 お手数をかけて、すみませんでした」
食後の薬をなんとか左手で飲み終えた彼は、今日、もう何回目か分からない謝罪を口にした。
「……あのっ! もう、止めませんか?」
気づけば、私は叫んでいた。
「私は、家政婦としてここにいるんです! だから、もっと頼ってください! 謝らないでください……!」
この人は、目が見えないことを理由に…これまで、どれほど悔しくて悲しい思いをしてきたのだろう。
周囲に迷惑をかけまいと必死に努力して、それでもどうしようもない時だってある。
その度に、こんな風に頭を下げてきたのだとしたら…。
「……僕を、憐れんでくれているのですか?」
ハッとして顔を上げると、視界がぐにゃりと歪んだ。
気づけば、ボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
「違いますっ! 自分が不甲斐なくて……何もできないのが、悔しいだけです……っ」
しゃくり上げる私に、ふっと柔らかい吐息が落ちた。
「そうですか……。 でも、僕は」
彼の左手が、私の右手をそっと、けれど確かに包み込む。
「あなたが居てくれて、嬉しいですよ。……咲花さん」
初めて呼ばれた、下の名前。
その指先の温もりが、私の涙ごと、胸の奥の冷たい不安を溶かしてくれた気がした。
部屋を辞したあとも、手のひらに残る彼の左手の熱は、ずっと消えなかった。
***
それからの数日間は、まるで魔法にかかったような時間だった。
利き手が使えない不自由さが、皮肉にも、私たちの距離を驚くほど縮めてくれた。
──そして、怪我が少し落ち着き始めた頃、私は彼に請われるまま「外の世界」へと踏み出すことになった。
事故で駄目にしてしまった精油を、彼自身の鼻で確かめて買い直すためだ。
タクシーを降りると、私はまず、晃希さんの隣に立って自分の肘をそっと差し出した。
視覚障害のある方を導くときは、手を引くのではない。
私の二の腕を掴んでもらい、半歩先を歩くのが正しい形なのだと、喜美子さんから厳しく教わった。
「準備はいいですか?……行きますね、晃希さん」
私の肘の少し上に、彼の左手がそっと添えられる。
指先から伝わってくる、彼の微かな体温。
私の動きがそのまま彼の動きになるという責任感に、背筋がすっと伸びる。
段差があるときは一度止まり、「ここから数歩、上りです」と声をかける。
彼は私の肩の揺れや歩幅を感じ取りながら、迷いのない足取りでついてきてくれた。
(……一歩、一歩。私たちの距離が、一つのリズムになっていく)
慣れない外の世界で、私の腕を頼りにしてくれる彼の重みが、今は何より愛おしい。
人々の好奇な視線も、私たち二人の信頼関係を邪魔できないようだった。
***
ショップの重厚な扉に手をかけるより早く、内側から恭しくドアが開かれた。
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」
一歩足を踏み入れた瞬間、息を呑んだ。
そこは、以前動画サイトで眺めた『パリの路面店巡り』の映像がそのまま現実になったような、異国情緒と気品が漂う空間だった。
外の喧騒を完全に遮断した店内には、奥へと続く深い木目調のカウンターが鎮座し、客を迎える一人掛けのソファが、ゆったりと配置されている。
香水のサンプルから運命の一本を絞り込む様子は、まるでお客様の記憶を紐解く儀式のようだった。
(……不思議。これだけ香水があるのに、全然鼻が疲れない)
店内に満ちているのは、芳醇でありながらも透き通った空気。
目に見えない空気の質までが、如月家の「格」を物語っているようだった。
「いらっしゃいませ。 お待ちしておりました」
奥から現れたのは、洗練された身のこなしの美しい女性、櫻井店長だった。
「如月オーナーからお話は伺っております。……怪我の具合は、いかがですか?」
「咲花さんや喜美子さんが厳重に看病してくれているので、順調ですよ!」
厳重って……! そりゃあ、目を離すとすぐ調香室で精油の瓶を左手で触ろうとするのだから、当然だ。
「まぁ、それは安心しました」
私がむすっとしたのを察したのか、櫻井店長はクスリと上品に笑う。
「早速ですが、奥の調香室に精油と蒸留水の用意を整えております。 すぐに向かわれますか?」
晃希さんは少しプロの顔を見せて頷いた。
「ええ、お願いします。……咲花さん、作業には時間がかかるから、店内の香りを見て回るか、応接室でお茶でも飲んで待っていてくれるかな?」
「どちらも、万全の準備でご用意しております。 ご安心ください」
櫻井店長が微笑み、晃希さんの言葉を補う。
「さすが櫻井店長ですね。いつも、僕のわがままを先回りしてくださって、ありがとうございます」
「ふふ、こちらこそ。 晃希さんの生み出す香水が、この店の魂を支えてくださっているのですから。 お互い様でしょう?」
二人の間に流れるのは、長年、香りの世界で切磋琢磨してきた者同士だけが共有できる、軽妙で親しげな空気。
屋敷で私に見せる「主」の顔でも、あの日見せた「脆い少年」の顔でもない。
そこにあるのは、対等なビジネスパートナーとしての深い信頼だった。
(……私、一歩も入れない)
まるで透明なガラスの壁で仕切られたかのような疎外感。
私が一生懸命に覚えたお粥や薬の飲ませ方なんて、この洗練された世界では何の役にも立たないのだと痛感する。
「じゃあ、僕はここで一旦失礼するね。……咲花さん、退屈させてしまうけれど、少しだけ待っていて」
穏やかな声を投げかける晃希さん。
だけど、彼は櫻井店長に導かれるように奥のドアへと消えていった。
案内された応接室には、場違いな小娘であることを思い知らされるほど、立派な調度品が並んでいた。
テーブルに置かれたティースタンドの芸術品のようなケーキに圧倒され、紅茶の香りに思わず息を呑む。
「……美味しい…」
衝動的に声が出た。
喜美子さんの特訓を受け、かろうじて「合格点」を貰えるレベルで淹れられるようになった紅茶とは、香りも深みも雲泥の差だった。
今更ながら、自分の至らなさに愕然とする。
喜美子さん、晃一さん、櫻井店長、星野先生。
初心者でありながら家政婦を務められるのは、この如月家を取り巻く「プロフェッショナルな環境」と「周囲の優しさ」に守られているからだと痛感する。
『……私は本当に、周りの人達に恵まれていると思います』
以前、夕食の時に晃希さんが口にした言葉が、カップの底に沈む紅茶の色に重なる。
彼が恵まれているのではない。
彼を支える世界が、とてつもなく洗練されているのだ。
そして私は今、その端っこに、運良く拾い上げられただけ。
(このままじゃ、駄目だ……)
美味しいはずの紅茶が、少しだけほろ苦く喉の奥へ落ちていった。
けれど、あの日、私の涙を拭ってくれた彼の温もりだけは、この最高級の紅茶よりもずっと、私にとっての「真実」だった。
その温もりに相応しい私になりたい。
胸の奥で、小さな、けれど消えない決意の炎が静かに揺れた。




