③
屋敷に住み始めて二日目の朝、玄関のベルが毅然とした音で鳴った。
そこに立っていたのは、銀髪を美しく結い上げた芹沢 喜美子さん。
去年までこの屋敷を支えてきた「伝説の家政婦」だ。
「吉野さん。 あなたが、晃希さんが選んだ新しい子ね?」
彼女の瞳は熟成された琥珀のように深く、その立ち姿には一分の隙もない。
応接室へ案内し、私は震える手で紅茶を淹れた。
今の私にできる、精一杯の「おもてなし」だ。
「……それで。 吉野さんは、家政婦の経験がないそうね?」
喜美子さんはカップから立ち上がる湯気を鼻先で転がしてから私を見た。
「はい。 不器用で、採用されたのが自分でも不思議なくらいで……」
卑下して俯く私に、彼女は鈴を転がすような声で笑った。
「いいんじゃありません? 晃希さんがあなたを選んだのなら。……今までの、鼻持ちならない『自称プロ』たちよりは、ずっと素直で良さそうだわ」
それからの毎日は、魔法の修行のようだった。
「いい、吉野さん。この屋敷で『強い匂い』は厳禁よ。 清掃に使う洗剤はすべて、この無臭・自然由来のもの以外は使わないこと」
彼女から手渡された洗剤は、驚くほど透明で、何も語らない。
「吉野さん。 この屋敷の『静寂』を、あなたの生活臭で乱さないでね?」
喜美子さんは、私の手を取り、指先の匂いをそっと嗅いだ。
「……合格。 安物のハンドクリームの匂いはしないわね。 晃希さんの鼻は、1キロ先の雨の匂いを嗅ぎ分けるって噂なんだから」
「1キロ先……!? 人間業じゃないですね……」
私が戦慄していると、彼女はいたずらっぽく笑った。
「冗談よ。 でもね、彼にとっての『景色』は香りなの。 だから、あなたが使う洗剤一つで、彼の世界に『ノイズ』が混じってしまうのよ。 この無臭の石鹸、泡立てる時も優しくね。 空気を含ませすぎると、水の匂いが変わるから」
この屋敷は、喜美子さんの亡きご主人の家系が設計したという、歴史ある建築物。
清掃に使う洗剤一つとっても、如月さんの鋭い嗅覚を邪魔しない「無臭・自然由来」のものと決められていた。
「……吉野さん、この屋敷の柱、少し叩いてみて。 良い音がするでしょう?」
喜美子さんが、リビングの立派な大黒柱を愛おしそうに撫でた。
「あ、本当だ……。 芯が詰まっているような、響く音がします」
喜美子さんは誇らしげに胸を張った。
「主人は如月家の歴史を重んじながら、自分のルーツであるフランスの合理性を取り入れて、この屋敷を蘇らせたの。……誰が住んでも、どんな時でも、住人を優しく包むような構造にしたいって、主人は心血を注いでいたわ」
そう言って、彼女はそっと壁に耳を寄せる。
「だから、この屋敷の隅々まで、私の主人の……芹沢家の魂が宿っているのよ。 専門の業者が代々決まっているのも、如月家のお祖父様と主人が交わした『この屋敷を守り抜く』という約束があるからなの」
お祖父様の愛情と、隣人の設計士の信条。
その二つが合わさって、如月さんの「不自由な自由」を支えている。
「お料理は…私のレシピを全部教えるわ。 最初は一緒に作りましょう」
「えっ、そんな大事なものを……いいんですか?」
「晃希さんの口に合う味を、早く覚えてもらわないと困るからね」
掃除のコツ、庭師や専門業者とのやり取り、そして如月さんの好みの味。
喜美子さんは根気よく、けれど厳しく、屋敷に流れる「時間」を私に手渡してくれた。
***
「……私にとって、本当の家族は芹沢家なんだと思うな」
昨夜、彼がふと漏らしたその言葉の裏側には、胸が締め付けられるような「断絶」の記憶が隠されていた。
父親の急逝。
それは如月家にとっての悲劇であると同時に、少年の平穏な日々の終焉でもあった。
最愛の夫を亡くした母にとって、父の面影を色濃く受け継ぐ晃希さんの存在は、あまりに眩しく、そしてあまりに痛すぎたのだ。
『あなたを見ていると、お父様を思い出して……苦しいの』
それまで窒息するほどの過保護で彼を縛っていた母親は、ある日を境に、彼との対話を拒み、仕事という名の冷たい殻に閉じこもってしまった。
広い屋敷に残されたのは、視力を失いつつある一人の少年と、あまりに重すぎる静寂。
そんな彼の絶望の淵に、土足で踏み込んできたのが喜美子さんだったらしい。
「晃希くん、夕飯よ! 今日は、うちの子たちも大好きなグラタンなんだから、さっさと来なさい!」
母親が目を背けた彼の「瞳」を、喜美子さんは真っ直ぐに見つめ、その震える手を引いて賑やかな食卓へと連れ出した。
喜美子さんは、彼にとっての乳母であり、凍てつくような孤独の中で凍死しかけていた彼の魂を温め直してくれた、唯一の「光」そのものなのだ。
そんな二人の絆が詰まった「魔法のグラタン」が、その日の夕食に並んだ。
住み込みのルール。
それは、主である如月さんと共に食卓を囲むこと。
「喜美子さんって、本当に太陽のような方ですね。 お話ししているだけで、屋敷が明るくなる気がします」
私がグラタンを取り分けながら言うと、如月さんは慈しむように目を細めながら呟いた。
「……そうですね。 私は本当に、周りの人達に恵まれていると思います」
「……? あっ! 熱いので、火傷しないでくださいね」
自分の皿にもよそい、一口。
濃厚なホワイトソースが舌の上で溶け、チーズの香ばしさが追いかけてくる。
思わず笑みがこぼれるほどの絶品だ。
晃希さんがフォークを手にする。
彼はまず、皿の上をなぞるようにフォークの先を微かに浮かせ、熱の立ち上がりを確認した。
「……うん。ソースの濃度、完璧だね」
その所作は、まるで繊細な工芸品を扱う職人のよう。
「いただきます」
一口、運ぶ。
唇の端を汚すこともなく、彼は静かに、けれど慈しむように味わう。
その横顔があまりに美しくて、私は自分のスプーンを動かすのも忘れて見入ってしまった。
一切の淀みがない、流麗な食事の風景。
それに見惚れていた私は、不意に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
(……私、失念していた)
彼が今、この料理の「色」も「形」も見えていないということを。
彼がただ、鼻腔をくすぐるバターの芳香と、耳に届く私の声、そして指先に伝わる器の熱だけで、この世界を鮮やかに描き出しているのだということを。
「見えない」という事実を忘れさせるほど、彼の振る舞いは美しく、そしてこの屋敷の空気は、穏やかな幸福に満ちていたのだ。
※R18版よりも読み応えがあると思います。
長くてすみません。ひとまずは、ここまでです。
この物語を、お楽しみいただけたら嬉しいです。




