②
自宅の調香室は、僕にとって唯一、世界が完璧な秩序を持つ場所だ。
カチャ、カチャと、ガラス器具が触れ合う微かな音。
精油の雫が蒸留水に溶け込み、無水エタノールがそれを空間に解き放つ。
依頼主の望む「形のない記憶」を具現化する作業に没頭すると、僕の嗅覚以外の感覚は、深い霧の向こうへ消えていく。
目が見えないという感覚も、それと同じだ。
たとえ同じ障害を持っていても、感じる世界は人それぞれ違う。
僕の場合、それは「光と影」が混ざり合う曖昧な境界線の中で、天候や太陽の機嫌に左右される、ひどく不安定な視界だった。
「……この苦みは、少し尖りすぎているな」
薄暗いアトリエで、僕はピペットから一滴の精油を落とした。
無水エタノールが揮発して、鋭い香りが鼻腔を突く…。
その瞬間、記憶の底に沈んでいた「鉄錆の匂い」が、鮮やかな色を伴って浮上する。
自分の左側に「世界が存在しない」のだと思い知らされたのは、まだ幼い頃の、ある晴れた日のことだ。
庭でボール遊びに興じる親戚の子供たちの声を、僕は部屋の隅で聞いていた。
「晃希は止めておきなさい。 危ないから!」
母の忠告は絶対だった。
けれど、あの日だけは従兄弟が僕の手を引いた。
「少しだけ遊ぼうよ」と。
──ドンッ!!
飛んできたボールを掴もうと必死に伸ばした僕の手を、強烈な衝撃が弾いた。
僕の「死角」である左側から、同じように手を伸ばした従兄弟の肘が顔面に直撃したのだ。
口の中に広がる、鉄錆のような血の味。
── 絶叫する母の声。
その日を境に、従兄弟は家に来なくなり、僕は外で遊ぶことを止めた。
事故の後、僕の世界は母の手によって、柔らかく、けれど頑丈な絹の幕で覆われた。
『晃希、座っていなさい。お母さんが全部やってあげるから』
『外は危ないわ。 あなたには、この家の中が一番安全なのよ』
母の言葉は、呪文のように僕を縛り付けた。
左側の空白を恐れるあまり、僕はその「安全な檻」の中に閉じこもることを選んだ。
掃除の行き届いた部屋、決まった時間に運ばれてくる食事。
そこには何の危険もなかったが、同時に「僕自身の人生」も存在しなかった。
母は、僕が何かにぶつかって怪我をするたびに、自分の身を削るように絶望した。
その悲鳴を聞くのが辛くて、僕はますます動かなくなり、母の顔色を伺う「籠の鳥」になっていったのだ。
──僕がこのまま、母の罪悪感をなだめるための『可哀想な人形』でいれば、この家は平和なのだろうか。
そんな澱んだ思考を打ち砕いたのは、視力が失われるのと反比例して鋭くなっていった、鼻の感覚だった。
窓の隙間から忍び込む雨の匂い、母が隠し持っていた古い手紙の紙の匂い、そして叔父が持ってきた、異国のスパイスの香り。
母の「檻」の外には、こんなにも鮮やかで、残酷で、美しい世界が広がっている。
──僕は、母に守られるだけの存在では終わりたくない。
僕の心は、外の世界を求めていた。
たまに外へ出れば、左側から来る車に驚き、飛び退くたびに浴びせられる「そんなに?」という怪訝な視線。
見えない側にいる人にぶつかっては謝り続ける日々。
僕は、いつしか左側の耳を澄ます癖がつき、失われていく視力と引き換えに、目に見えない「気配」を鼻で嗅ぎ分ける術を身につけていった。
***
「どれ、私にも嗅がせてくれないか?」
叔父のショップで母への贈り物として、初めて自分で調香した香水を差し出した時のこと。
泣きながら喜ぶ母の傍らで、叔父がムエットを鼻に近づけ、目を見開いた。
「……晃希。これ、売らないか? 驚くほどいい値段がつくぞ」
叔父の店で初めて香水を作り上げた時、僕は確信した。
この「香り」という目に見えない糸を使って、外の世界と、誰かの心と、自分の力で繋がりたいのだと。
──それから数年後。
僕は自宅を改装したアトリエで、オーダーメイドの調香師になった。
「……本当に、働くの? ずっと私のそばにいてくれればいいのに」
泣き出しそうな母の声を背に、僕は初めて自分の足で檻の外へ踏み出した。
僕の香水を購入した婦人は、それを「商談の時の御守り」だと呼んでくれた。
「この香りを纏うと、不思議と上手くいくの」
もちろん、僕の作る液体にそんな魔術的な効力はない。
けれど、香りが人の精神を支える「杖」になることは知っている。
「晃希の香りは、主張はしない。 けれど、消えない記憶になるんだ」
叔父のその言葉に、僕は初めて、自分の欠けた視界を受け入れられた気がした。
誰かの記憶に、優しい色を添えることができるのなら。
この暗闇も、あながち悪いものではないと思う。
***
カチリ、と遮光瓶の蓋を閉める。
今日の作業はここまでだ。
白杖を手に取り、僕は慣れた足取りでアトリエの重い扉を開けた。
聖域から一歩外へ出ると、そこにはアトリエには決して持ち込まない、生活の「柔らかな匂い」が待っていた。
廊下を進み、陽光が差し込む応接室へ足を踏み入れる。
「お疲れ様です、晃希さん。 ちょうど、晃一様もいらしたところですよ」
僕の左側から、弾んだ声がした。
──吉野さんだ。
アトリエの緊張感で強張っていた僕の肩が、その声を聞いただけでふっと軽くなる。
「例の香りの進捗は、どうかな?」
ソファに座っていた叔父が問いかける。
僕は手探りで自分の定位置に腰を下ろした。
「……もう少しで完成しますよ。 お客様にも、よろしくお伝えください」
その時、テーブルにそっとカップが置かれる音がした。
立ち上がるのは、香ばしく深いコーヒーの薫り。
アトリエでは決して許されない、けれど今の僕が最も求めていた「安らぎ」の匂いだ。
「……うん。 吉野さん、本当にコーヒーを淹れるのが上手くなりましたね」
「ありがとうございます! 如月さんに特訓していただいた成果です!」
吉野さんの声が、かつては恐怖の入り口だった僕の「見えない左側」を温かく満たしていく。
「こちら、晃一様からいただいたフィナンシェです。 バターの香りがとてもいいんですよ」
手探りで差し出された皿を受け取り、しっとりとした菓子を口に運ぶ。
広がる甘さと、吉野さんの明るい気配。
調香という名の「孤独な対話」から戻ってきた僕を、彼女の淹れたコーヒーが、優しく現実へと繋ぎ止めてくれる。
僕は、その確かな温度を楽しみながら、ゆっくりと最後の一口を飲み干した。




