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自宅の調香室は、僕にとって唯一、世界が完璧な秩序を持つ場所だ。


カチャ、カチャと、ガラス器具が触れ合う微かな音。


精油の雫が蒸留水に溶け込み、無水エタノールがそれを空間に解き放つ。


依頼主の望む「形のない記憶」を具現化する作業に没頭すると、僕の嗅覚以外の感覚は、深い霧の向こうへ消えていく。


目が見えないという感覚も、それと同じだ。

たとえ同じ障害を持っていても、感じる世界は人それぞれ違う。


僕の場合、それは「光と影」が混ざり合う曖昧な境界線の中で、天候や太陽の機嫌に左右される、ひどく不安定な視界だった。


「……この苦みは、少し尖りすぎているな」


薄暗いアトリエで、僕はピペットから一滴の精油を落とした。

無水エタノールが揮発して、鋭い香りが鼻腔を突く…。


その瞬間、記憶の底に沈んでいた「鉄錆の匂い」が、鮮やかな色を伴って浮上する。


自分の左側に「世界が存在しない」のだと思い知らされたのは、まだ幼い頃の、ある晴れた日のことだ。


庭でボール遊びに興じる親戚の子供たちの声を、僕は部屋の隅で聞いていた。


「晃希は止めておきなさい。 危ないから!」


母の忠告は絶対だった。


けれど、あの日だけは従兄弟が僕の手を引いた。

「少しだけ遊ぼうよ」と。


──ドンッ!!


飛んできたボールを掴もうと必死に伸ばした僕の手を、強烈な衝撃が弾いた。


僕の「死角」である左側から、同じように手を伸ばした従兄弟の肘が顔面に直撃したのだ。


口の中に広がる、鉄錆のような血の味。


── 絶叫する母の声。


その日を境に、従兄弟は家に来なくなり、僕は外で遊ぶことを止めた。


事故の後、僕の世界は母の手によって、柔らかく、けれど頑丈な絹の幕で覆われた。


『晃希、座っていなさい。お母さんが全部やってあげるから』


『外は危ないわ。 あなたには、この家の中が一番安全なのよ』


母の言葉は、呪文のように僕を縛り付けた。

左側の空白を恐れるあまり、僕はその「安全な檻」の中に閉じこもることを選んだ。


掃除の行き届いた部屋、決まった時間に運ばれてくる食事。

そこには何の危険もなかったが、同時に「僕自身の人生」も存在しなかった。


母は、僕が何かにぶつかって怪我をするたびに、自分の身を削るように絶望した。

その悲鳴を聞くのが辛くて、僕はますます動かなくなり、母の顔色を伺う「籠の鳥」になっていったのだ。


──僕がこのまま、母の罪悪感をなだめるための『可哀想な人形』でいれば、この家は平和なのだろうか。


そんな澱んだ思考を打ち砕いたのは、視力が失われるのと反比例して鋭くなっていった、鼻の感覚だった。


窓の隙間から忍び込む雨の匂い、母が隠し持っていた古い手紙の紙の匂い、そして叔父が持ってきた、異国のスパイスの香り。


母の「檻」の外には、こんなにも鮮やかで、残酷で、美しい世界が広がっている。


──僕は、母に守られるだけの存在では終わりたくない。

僕の心は、外の世界を求めていた。


たまに外へ出れば、左側から来る車に驚き、飛び退くたびに浴びせられる「そんなに?」という怪訝な視線。


見えない側にいる人にぶつかっては謝り続ける日々。


僕は、いつしか左側の耳を澄ます癖がつき、失われていく視力と引き換えに、目に見えない「気配」を鼻で嗅ぎ分ける術を身につけていった。


***


「どれ、私にも嗅がせてくれないか?」


叔父のショップで母への贈り物として、初めて自分で調香した香水を差し出した時のこと。


泣きながら喜ぶ母の傍らで、叔父がムエットを鼻に近づけ、目を見開いた。


「……晃希。これ、売らないか? 驚くほどいい値段がつくぞ」


叔父の店で初めて香水を作り上げた時、僕は確信した。


この「香り」という目に見えない糸を使って、外の世界と、誰かの心と、自分の力で繋がりたいのだと。


──それから数年後。

僕は自宅を改装したアトリエで、オーダーメイドの調香師になった。


「……本当に、働くの? ずっと私のそばにいてくれればいいのに」


泣き出しそうな母の声を背に、僕は初めて自分の足で檻の外へ踏み出した。


僕の香水を購入した婦人は、それを「商談の時の御守り」だと呼んでくれた。


「この香りを纏うと、不思議と上手くいくの」


もちろん、僕の作る液体にそんな魔術的な効力はない。

けれど、香りが人の精神を支える「杖」になることは知っている。


「晃希の香りは、主張はしない。 けれど、消えない記憶になるんだ」


叔父のその言葉に、僕は初めて、自分の欠けた視界を受け入れられた気がした。


誰かの記憶に、優しい色を添えることができるのなら。

この暗闇も、あながち悪いものではないと思う。


***


カチリ、と遮光瓶の蓋を閉める。

今日の作業はここまでだ。


白杖を手に取り、僕は慣れた足取りでアトリエの重い扉を開けた。


聖域から一歩外へ出ると、そこにはアトリエには決して持ち込まない、生活の「柔らかな匂い」が待っていた。


廊下を進み、陽光が差し込む応接室へ足を踏み入れる。


「お疲れ様です、晃希さん。 ちょうど、晃一様もいらしたところですよ」


僕の左側から、弾んだ声がした。


──吉野さんだ。

アトリエの緊張感で強張っていた僕の肩が、その声を聞いただけでふっと軽くなる。


「例の香りの進捗は、どうかな?」


ソファに座っていた叔父が問いかける。

僕は手探りで自分の定位置に腰を下ろした。


「……もう少しで完成しますよ。 お客様にも、よろしくお伝えください」


その時、テーブルにそっとカップが置かれる音がした。

立ち上がるのは、香ばしく深いコーヒーの薫り。


アトリエでは決して許されない、けれど今の僕が最も求めていた「安らぎ」の匂いだ。


「……うん。 吉野さん、本当にコーヒーを淹れるのが上手くなりましたね」


「ありがとうございます! 如月さんに特訓していただいた成果です!」


吉野さんの声が、かつては恐怖の入り口だった僕の「見えない左側」を温かく満たしていく。


「こちら、晃一様からいただいたフィナンシェです。 バターの香りがとてもいいんですよ」


手探りで差し出された皿を受け取り、しっとりとした菓子を口に運ぶ。

広がる甘さと、吉野さんの明るい気配。


調香という名の「孤独な対話」から戻ってきた僕を、彼女の淹れたコーヒーが、優しく現実へと繋ぎ止めてくれる。


僕は、その確かな温度を楽しみながら、ゆっくりと最後の一口を飲み干した。



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