《番外編》①
【Side:喜美子さん】
窓外に広がる庭園の緑が、古い硝子越しにゆらゆらと揺れている。
喜美子は、新しく雇い入れた家政婦の吉野さんへ、この屋敷に伝わる「作法」を伝えていた。
それは単なる家事の段取りではない。
歴史的価値のある建材の拭き方や、古びた調度品への接し方――いわば、この家の「呼吸」を教える作業だ。
義父が設計し、夫が精緻な改築を施したこの如月邸は、喜美子にとって人生そのものだった。
だが、寄る年波には勝てず、あちこちに綻びが見え始めている。
「……いっそのこと、建て直した方が、晃希さんも過ごしやすくなるのではなくて?」
ふと思いついた提案を、若き主へと進言してみた。
かつて図書室だった場所を改装した、現在の調香室。
そこは、晃希がまだ片目で文字を追うことができた頃、静かに本と対話していた大切な場所だ。
「……喜美子さんの言う通り、新しくすれば今よりずっと快適になるでしょうね」
晃希は白杖を傍らに置き、柔らかな声で答えた。
「でも――僕は、このまま維持できる限り、ここで過ごしたいんです」
「変化への不安、でしょうか? 同じ間取りにすれば、不自由はないかと思いますが……」
喜美子の問いに、晃希は少しだけ俯き、慈しむように机の縁をなぞった。
「いえ。……見えていた頃の、思い出なんです」
「思い出、ですか……」
喜美子は、胸の奥に小さな痛みが走るのを感じた。
「この家で生まれてから、僕の目に映っていたすべての光景。それを、現在の時間ごと失ってしまうのが、少しだけ惜しいんですよ」
その言葉に、喜美子は胸を突かれた。
彼は視力を失ってもなお、記憶の中にあるこの屋敷の色彩を、指先の感覚だけで繋ぎ止めている。
その健気で、あまりにも深い愛着。
「……大切に思ってくださるのですね」
「喜美子さんも、そうでしょう?」
悪戯っぽく微笑む彼に、喜美子は深く、深く頷いた。
──その時だった。
「お茶の用意ができましたよ~~!!」
廊下の向こうから、緊張感のない、けれど朗らかな吉野さんの声が響いた。
(主を呼びつけるなんて……! 後でしっかりと教育せねば!)
喜美子が眉をひそめた瞬間、目の前で晃希が“ククッ”と声を漏らして笑った。
「叱らないであげてください。彼女、本当によく頑張ってくれていますよ」
「ですが……!」
「それにね、僕が淹れたハーブティーを、美味しいって……一滴も残さず飲んでくれるんです!」
……喜美子は絶句した。
「……あの、草の味しかしない、あのお茶を!? ……あ、申し訳ありません!」
「いいんですよ。母も叔父も、一口でギブアップしたブレンドですからね。自分では自信作なんですけど」
あの、野原をそのまま液体にしたような、強烈な野草の香りを「美味しい」と笑って受け入れる女性。
晃希の孤独なこだわりの、最大の理解者が現れたのかもしれない。
「……吉野さん、ですわね。覚悟なさい」
”あの娘は、晃希さんを救う光になる”
喜美子は心の中で、まだ見ぬ未来の嫁──もとい、貴重な人材を、晃希のために全力で「如月家の色」に染め上げようと、密かに決意を固めるのだった。
***
【Side:晃一さん】
晃一は、如月家の重厚な応接室のソファに腰を下ろし、甥が降りてくるのを待っていた。
窓から差し込む午後の光が、歴史を刻んだ木製の家具に鈍い光を投げかけている。
これまで、幾人も家政婦を雇い入れては、ことごとく期待を裏切られてきた。
喜美子の代わりを務められる者など、そう簡単に見つかるはずもない。
晃希の未来を思うと、時々、胸が締め付けられるような不安に襲われる。
晃希の不自由な身を思えば、いっそ介護の専門職を当てるべきではないか──身内としての矜持と現実の間で、晃一は人知れず苦悩していたのだ。
「叔父さん、お待たせしてすみません。失礼します」
白杖の先で床を確かめながら、晃希が迷いのない足取りで入室してきた。
視力を失ってなお、この屋敷の広さを指先と耳で完璧に把握している甥。
その凛とした佇まいに、晃一はわずかに目を細める。
「いや、構わんよ。……元気そうだな」
「はい。吉野さんと喜美子さんが、毎日美味しい料理を作ってくれるおかげです」
晃希の口から出た「吉野さん」という名。
その響きに、どこか柔らかな色彩が混じっているような気がして、晃一は微かな違和感を覚えた。
「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」
ワゴンを引いて現れたのは、新しく雇われた吉野さんだ。
彼女が手際よく、けれどどこか楽しげにカップを並べる。立ち上る香りに、晃一は思わず鼻をひくつかせた。
「……ほう。吉野さん、コーヒーを淹れるのが上手くなったな」
「ありがとうございます! 晃希さんに、毎日特訓していただいた成果です」
そう言って吉野さんが誇らしげに胸を張る。
──晃一は驚きを隠せなかった。
あの、コーヒーの味にだけは病的なまでに厳しい晃希が、手ずから教え込んでいるというのか。
晃希の淹れるコーヒーは、プロのバリスタも顔負けの逸品だ。
その代わり、他人が淹れる味には容赦がない。
気に入らなければ口もつけず、二度と淹れさせない──そんな偏屈なまでの「こだわり」を持っていたはずの甥が。
(あのハーブティーの破壊的な味はともかく、コーヒーの技術だけは本物だ。それを、この娘に継承させているとは……)
晃一は、丁寧に淹れられた琥珀色の液体を一口含んだ。
雑味のない、深いコク。
それは紛れもなく、如月晃希が認めた「家の味」だった。
「ふむ……。貴重な人材を、見つけたのかもしれないな」
吉野さんが退出した後、晃一は満足げに息を吐いた。
晃希が自分のこだわりを分かち合い、誰かを信頼し始めている。その事実が、何よりも嬉しい。
“あの娘こそ、晃希の未来を支える存在だ”
吉野さんを、絶対に如月家から逃してはならない──。
帰り際、叔父としての強い決意を胸に、晃一は少しだけ足取り軽く屋敷を後にした。
※こうして、咲花さんは喜美子さんと晃一さんの思惑?通りに如月家に加わったのです。




