⑩《最終話》
佐伯家からの帰り道。
夕暮れの公園でベンチに腰を下ろすと、私は今日一番の興奮を晃希さんにぶつけていた。
「赤ちゃんの名前、咲良ちゃんって言うんです!」
「へぇ……どういう字を書くの?」
隣に座る晃希さんの掌を取り、指先でゆっくりと文字をなぞる。
「私の『咲』と、奥さんの桂良さんの『良』を組み合わせてくださったそうなんです。 なんだか照れくさいですけど、素直に……すごく嬉しいです!」
晃希さんは一瞬、何かを考え込むような気配を見せた。
……あれ、もしかして、あまり良く思わなかったのかな? 不安になって顔を覗き込もうとした瞬間、彼はふわりと表情を緩めた。
「きっと、咲花さんみたいに優しくて素敵な女性になるね」
「っ、恐縮です……!」
──杞憂だった。
彼の言葉はいつだって、私の心を真っ直ぐに温めてくれる…。
数時間前、佐伯家のリビングで赤ちゃんを囲んでいた時のことを思い出す。
ミルクを一生懸命に飲む、ふくふくの頬。
「生命」そのもののような温かさ。
奥さんの桂良さんは、私の離婚歴を知っていても「咲花さんから一文字もらいたい」と言ってくれた。
『離婚したから、如月さんに出会えたんでしょ? 大切なのはそこじゃないかな』
桂良さんの言葉が、胸の奥に澱んでいた「縁起が悪いのでは?」という気持ちを溶かしていく。
『私は、晃希さんと出会えて……本当に幸せです!』
そう答えた私に、桂良さんは「ほら、良縁を運んでるじゃない」と悪戯っぽく笑ったのだ。
***
──数日後。
晃希さんが調香した「黒猫」の香水を手に、私たちは再び佐伯家を訪れていた。
けれど、そこで待っていたのは予期せぬ修羅場──健悟さんの妹・香澄さんと、その彼氏さんによる同棲の挨拶だった。
「交際半年で同棲なんて、まだ早いんじゃないか!?」
「兄さんだって、一年経たずに結婚したじゃない!」
過保護な兄・健悟さんの猛反対に、リビングは緊迫した空気に包まれる。
慎重すぎるほど慎重な健悟さんに、思わず私は口を開いていた。
「……何の問題もなく幸せになるなんて、無理ではないでしょうか?」
「「えっ?」」
晃希さんと健悟さんの声が重なる。
全員の視線が、私に集まった。
「だって私、結婚した時に離婚するなんて一ミリも思っていませんでしたけど……結局、離婚しましたから!」
……一瞬の沈黙。
その後、桂良さんが耐えきれずに吹き出した。
「ふふっ! 咲花さん、この場でのその発言は……それこそ縁起が……!」
晃希さんも隣で顔を下に向け、可笑しそうに肩を揺らしている。
(あぁ、やってしまった…!)
私は顔から火が出る思いで、妹さんと彼氏さんに何度も頭を下げた。
──結局、健悟さんは彼氏くんの熱意と、何より「芹沢 喜美子さんの孫」という血縁の縁に免じて、話は「(仮)同棲」という形でまとまったのだ。
***
──その日の夜。
夕食に、喜美子さん直伝のミートソースパスタを囲んでいた。
「人の縁って、どこで繋がるかわからないものですね」
「本当に。 僕は咲花さんと出会えて、心から幸せだよ」
そう言いながら、晃希さんは手際よくパスタを口に運ぶ。
目が見えないはずなのに、どうして彼は一滴もソースを飛ばさずに食べられるのだろう。……私のエプロンには、すでに赤い点々がいくつか咲いているというのに。
食後、お茶を淹れようと席を立とうとした時。
急に晃希さんがそわそわし始めた。
ふと見ると、いつも穏やかな晃希さんが、どこか緊張した面持ちで背筋を伸ばしている。
「……晃希さん? お腹が、痛いとかですか?」
「違います。……あのね、咲花さん。 少し、僕の話を聞いてくれるかな」
彼は探り当てるようにして、テーブルの上にある私の手をそっと包み込んだ。
大きな、けれど少しだけ震えている掌の熱が伝わってきて、私の鼓動が跳ねた。
晃希さんは、私の指先を一本ずつ、愛おしむように優しくなぞる。
「君の弾んだ笑い声、一緒に食べるご飯の匂い、隣を歩く時の柔らかな服の擦れる音……。 目が見えない僕にとって、君の存在そのものが、僕をこの世界に繋ぎ止めてくれる光なんだ…」
彼はポケットから、手のひらに収まる小さなケースを取り出した。
それは、晴れ渡った春の空を思わせる、澄んだ淡い青色のボックス。
リボンが解かれ、彼がそっと蓋を開けると、中には寄り添うように二つのリングが収められていた。
「どうか、僕の隣にいて欲しい。……僕と、結婚してください」
熱を帯びた声が、真っ直ぐに胸の奥へと響く。
視界が涙で滲む中、私は「はい……っ」と答え、ケースの中から少し大きな方の指輪を手に取った。
「私からも……お願いします。 ずっと、お傍にいさせてください!」
私は彼の左手を取り、節の太い薬指へ、祈るような心地で指輪を滑り込ませた。
続いて、晃希さんが迷いのない手つきで私の左手を引き寄せる。
彼は私の指を一本ずつなぞって確かめると、残ったもう一つの指輪を、私の薬指へとスルリと嵌めてくれた。
驚くほどしっくりと収まったその重みは、彼が何度も私の手に触れ、その形を、厚みを、心に刻んでくれていた証だった。
「……絶対に、離しませんよ!」
互いの指に光るお揃いの証を確かめ合う間もなく、私は彼の胸の中へと引き寄せられた。
彼は私の髪に顔を埋め、深く安堵したように息を吐く。
「……あ、晃希さん。 あの……」
「ん?」
「……私のエプロン、ミートソースがついてたんですけど……晃希さんの服に、ついちゃったかも……」
幸せな沈黙を破った私の台無しな一言に、晃希さんは一瞬きょとんとした後、今日一番の「くしゃくしゃの笑顔」で笑い声を上げた。
「いいよ。……君との日常が染み付いていくなら、僕はそれが一番嬉しいんだ」
そう言って、彼はもっと強く、愛おしそうに私を抱きしめ直してくれた。
***
『……私は本当に、周りの人達に恵まれていると思います』
晃希さんは、ふとした瞬間に、自分に言い聞かせるようにそう零す。
かつて私が「どうしてそんなに前向きでいられるんですか?」と尋ねたことがあった。
『……お呪い、みたいなものだよ。 自分ではどうしようもない暗闇に呑まれそうな時、そう呟くんだ。 そうすると、世界も案外、悪くないなって思える気がしてね』
穏やかな声の裏側に透けて見える、彼が一人で歩んできた果てしない孤独。
絶望に立ち止まるのではなく、言葉の光を灯して一歩ずつ進んできた、その静かな強さ。
──私はこの人の、こういうところに惹かれてやまないのだ。
洋館に咲く桜が、今夜も窓の外で揺れている。
この人に出会えた幸福を。 そして私の存在が、彼にとっても同じ光であることを。
春の夜の香りに包まれながら、私は傲慢にも、永遠を願わずにはいられなかった。
(一応の補足として…晃希さんは中途失明者なので
識字ができる設定です)
※ここまで、読んでくださった方には
本当に、ありがとうございました!
R18版だと番外編が存在しますが、
こちらでは、違う構成で投稿します。




