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重厚な木製のドアを開けると、そこは外の世界とは切り離された「香りの貯蔵庫」だった。


窓は遮光カーテンで閉ざされ、わずかな隙間から差し込む光が、空気中に舞う微細な埃をキラキラと照らしている。


カチャ、カチャ……。


ガラス同士が触れ合う繊細な音が、静寂を規則正しく刻んでいた。


晃希(こうき)さんは、机に並んだ数百もの遮光瓶の間を、まるで鍵盤を叩くピアニストのように迷いなく指を滑らせている。


机の端をコンコンとノックして、来客がある事を知らせると…。


「……あぁ、ごめんね。 集中していて、入室に気づかなかった」


彼が顔を上げると、部屋に満ちていた「研ぎ澄まされた空気」がふわりと緩んだ。


視線は、正確に私の喉元のあたりを捉えている。

正確には「私の声が生まれた場所」へ向けて。

光のない瞳と向き合うたびに、私は不思議な感覚に陥る。


彼の袖口からは、さっきのハーブとは違う凛とした墨のような香りがした。


「大丈夫ですよ! ドアをノックしても、返事が無かったので。 また、集中してらっしゃるんだろうなぁと、思っていました」


──本当は、嘘である。

ノックもせずにドアを開けて、少しだけ様子を窺っていた。


「こちらこそ、驚かせてしまい、すみません。 晃一(こういち)様が応接室でお待ちです、切りの良いところでお越しください」


「晃一叔父さんねぇ…。 もう少し、待っててもらおうかな…」


「ふふ…、また小言を言われますよ!」


「……そうだね。 吉野(よしの)さんに飛び火したら厄介だから、今行くよ」


彼は迷わず椅子から離れ、傍らに立てかけられた白杖を手に取った。


驚くのはその足取りだ。


足取りは恐れも迷いもなく、床に引かれた見えない糸を辿るようにスタスタと歩みを進めていく。


途中、白杖の先が床を叩く「コツ、コツ」という音が、高い天井に反響しては消えていった。


私が先回りしてドアを静かに開けると、彼は気配の変化を感じ取ったように足を止め、柔らかな声を残す。


「ありがとう。 机の上は、そのままで。……僕にとっては、この散らかり方が一番の『地図』なんだ」


照れくさそうに笑うその表情は、先ほどの完璧な家主というより、大切なおもちゃを並べている子供のようにも見えて、私は不覚にも胸がトクンと跳ねるのを感じた。


自分の聖域を守るようなその一言に、私は「承知しました」とだけ答え、彼の背中を見送った。


「すぐに、お茶をお持ちしますね!」


廊下へ消えようとする彼の背中に声をかけると、晃希さんは足を止め、こちらに振り返って優雅に頭を下げた。


彼が去った後のアトリエで私は一人、火の元を確認する。


「火の元、ヨシ。……それにしても」


乱雑に見えて、実はミリ単位の秩序で並べられた器具たち。その一つ一つに、彼の「見えない努力」が染み付いている。


私は、勝手に整頓して彼を困らせた日のことを思い出し、自分の無作法を恥じた。


彼の「見えない世界」のルールを、私はこれから一つずつ、香りと共に覚えていくことになるのだろう。


***


私は今、この静かな洋館で家政婦として働いている。

この屋敷の主は、その瞳にほとんど光を宿していない。


けれど、彼は私よりもずっと鮮やかに、この世界の輪郭を捉えているようだった。


彼の生業は、調香師。

とにかく鼻が利くらしく、彼の手から生み出される香りは、選ばれたわずかな顧客のためだけに誂えられるという。


「……吉野さん、今日は少しだけ、雨の匂いが混じっていますね」


雲ひとつない晴天の日でも、彼は衣類に染みた湿気や、遠くの街の空気を嗅ぎ分ける。


見えないはずなのに、香りだけで心さえも感じ取られているような気がした。


彼は、暗闇の中で生きることに長い時間をかけて慣れてきたのだという。

生まれた時から片方の光はなく、もう片方の視力も、大人になるにつれて砂時計の砂が落ちるように、ゆっくりと失われていった。


今はただ、世界の輪郭と淡い光が、ぼんやりと網膜に滲む程度。

だからだろうか、彼がこの屋敷を歩く姿は、まるで自らの体の一部をなぞるように滑らかだ。


どこに柱があり、どこに段差があるのか。

幼い頃から過ごしてきたこの場所は、彼にとって指先や足裏に刻み込まれた「記憶の地図」そのものなのだ。


それでも、広大な屋敷を美しく保ち続けるのは、一人の手には余る。

彼が「見えない」場所で、埃が積もり、薔薇の枝が自由奔放に伸び、生活の秩序が静かに崩れていく。


──家事という名の、目に見える世界の管理。


それを彼に代わって引き受けるのが、私の仕事だ。

彼の潔癖なまでに整った内側を、現実の汚れから守るための門番のような役割。


そう思うと、私は少しだけ背筋が伸びる心地がした。


立ち居振る舞いから、言葉選びの一つひとつに至るまで。

彼はまるで、長い時間をかけて磨き上げられた一級の香水瓶のように、どこまでも上品で隙がなかった。


もっとも、働き始めたばかりの私は、その完璧さにどこか疑いの目を向けていたのだけれど。


──今は猫を被っているだけで、時間が経てば、わがままな本性や名家特有の傲慢さが顔を出すのではないか。


離婚という手痛い経験を経て、人の「裏側」に敏感になっていた私は、無意識にそんな心の予防線を張っていた。


この屋敷に流れる空気の重厚さも、私の疑念に拍車をかけた。

聞けば、如月(きさらぎ)家は代々、辣腕の事業家や高名な芸術家、さらには政治家までもを輩出してきた華麗なる一族なのだという。


廊下に飾られた出所の知れぬ絵画や、使い込まれてなお輝きを失わないアンティークの数々。

それら無機質な調度品たちが、主人の背負う「家柄」という名の巨大な影を、無言で物語っているようだった。


働き始めて数日もすると、この屋敷を去っていった前任者たちの「不誠実な足跡」が、嫌でも目に付くようになった。


主人の目が見えないのをいいことに、手の届かない棚の奥には厚い埃が積もり、帳簿の隅には、彼が気づかないことを前提とした不自然な端数が並んでいる。


さらに質が悪いのは、主人の端麗な容姿に目をつけ、身の回りの世話を口実に関係を迫った者さえいたという話だ。


「……こんなの、酷い!」


放置されたまま黒ずんだ銀食器を磨きながら、私は思わず溜息を漏らした。


掠め取られた金銭、怠慢、そして歪んだ色恋。

暗闇の中で静かに、けれど誠実に生きようとする彼を取り巻いていたのは、そんな身勝手な「人の業」ばかりだったのだ。


汚れに無頓着な屋敷の隅々は、彼がこれまでどれほど孤独に、無防備な状態で他人の悪意に晒されてきたかを無言で訴えていた。


***


そもそも私は、家政婦という仕事自体が初めての素人だった。

紹介された住所を頼りに、慣れない土地の駅を降りた私は、視界に飛び込んできた光景に思わず足を止めた。


「……うそ、あそこ?」


緩やかな坂を上ったその先に、周囲を威圧するように佇む一軒の洋館。

敷地をぐるりと囲む洒落た鉄柵は、まるでおとぎ話の城を守る結界のようだ。

そして入り口には、初夏の陽光を浴びて狂い咲く、見事な薔薇のアーチが鎮座していた。


「ちょっと、場違いすぎない……?」

思わず独り言が漏れた。


通路沿いを歩きながら眺める分には素敵だけれど、いざ目の前にすると、その格式高さに足がすくむ。

まるで、古い物語のページをそのまま現実へ切り取ってきたような佇まいだった。


ここに住み込んで、私一人が管理する? 初心者が?

逃げ出しそうになる足を必死に叱咤し、ビビりながらも薔薇のアーチを潜り抜ける。

頭上から降り注ぐ甘い香りと、石畳が靴音を弾ませる小さな音。

玄関へ続く小路を、まるで異世界へ迷い込むような心地で進んでいた、その時だった。


「……どなたですか?」


薔薇のアーチを潜り抜けた瞬間、静謐な空気を震わせるように、低く落ち着いた声が届いた。

声の主は、庭の茂みに腰を下ろしていた。


彼は顔を上げたが、その瞳は私を捉えていない。

レンズの奥にある瞳は、どこか遠くの、私には見えない景色を眺めているようだった。


驚いたのは、その周りに漂う「気配」だ。

彼の周りだけ、陽だまりに溶け出したハーブの香りが濃密に渦を巻いている。

摘み取られたばかりのミントの鋭い清涼感と、踏みしめられた土の湿った匂い。


彼がわずかに首を傾げると、衣擦れの音と共に、微かに甘い、けれどどこか寂しげな香木のような匂いがふわりと流れてきた。


「ここは個人の住宅ですが。……ああ、足音から察するに、女性の方ですね?」


視線は合わない。

それなのに、まるで見透かされているような錯覚に陥る。


彼は顔を上げていたが、その瞳は私の姿を捉えておらず、視線はわずかに私の肩越しを泳いでいた。


(ああ、この人が聞いていた『目が見えないご主人』なんだ……)


彼を驚かせないよう、私はあえて砂利を強めに踏み鳴らし、自分の位置を知らせながらゆっくりと歩み寄った。


「はじめまして。……【さくら家事代行サービス】から参りました、吉野と申します」


「……あぁ! そうでした、叔父から聞いていたような。 失礼しました、時々ここをカフェか何かと勘違いして入ってくる方がいるものですから」


如月さんはふわりと微笑んだ。

その声は、摘みたてのハーブのように清涼感があり、私の緊張をすっと解いていく。


「いえ、私も表札を確認していなければ、間違えて何か注文をお願いしていたかもしれません」


「……表札、やはり薔薇に隠れていましたか?」


「正直に申し上げますと、かなり葉っぱに覆われていましたね。 少し、剪定が必要かもしれません」


私の言葉に、彼は「なるほど」と困ったように眉を下げた。

その仕草があまりに上品で、自分が家政婦の面接に来ていることを一瞬忘れそうになる。


「庭のハーブを摘んでいたんです。 よかったら、中でハーブティーでもいかがですか?」


彼は白杖を地面に這わせ、まるで自分の庭に敷かれた透明なレールを辿るように、玄関へと歩き出した。


白杖を持っていない方の手には、数種類のハーブが大切そうに握られている。

私は、彼の迷いのない背中を追いかけた。


視界を失っているはずの彼が、私よりもずっと堂々と、この美しい世界の真ん中を歩いている。

その不思議な光景に、私はただ圧倒されていた。


*****


「少し蒸らしますので、お待ちくださいね」


ワゴンの上で茶器が触れ合い、澄んだ音が室内に響いた。


如月さんは目が見えていないはずなのに、その手つきは驚くほど淀みがない。

沸騰を避けた絶妙な温度の湯がポットに注がれると、ふわりと香りが解き放たれた。


目の前に置かれたガラスのカップからは、幾重にも重なった香りの層が立ち上がっている。

最初に鼻をくすぐったのは、先ほど庭で嗅いだミントの目が覚めるような青さ。

けれど、ひと口含んでみると、そこには驚くほど柔らかな、蜂蜜に似た甘みが隠れていた。


「……美味しい」


喉を通るたびに、緊張で冷え切っていた胃のあたりが、じんわりと内側から解けていく。

単に爽やかなだけではない。

どこかに、雨上がりの森のような、少しだけ湿った「苦み」がある。

そのわずかな苦みが、かえって今の私のやりきれない境遇に寄り添ってくれるような気がして、不思議と涙が出そうになった。


「生のハーブは、乾燥したものとは『呼吸』が違うんです。 吉野さんの心が、少しでも静かになればいいのですが」


彼はカップを口に運びながら、まるで見えているかのように私の方を向いて微笑んだ。

絶妙なバランスで調合されたその一杯は、今の私にとって、どんな言葉よりも雄弁な「おまじない」だった。


魔法のような一杯を味わいながら、私はふと疑問を抱いた。

これほど繊細で、完璧なもてなしができる人が、本当に家政婦など必要としているのだろうか。


「……私は、これくらいのことしかできないんです」


私の胸中を見透かしたかのように、如月さんは眉を下げて、困ったように微笑んだ。


「お茶を淹れるような、手の中で完結する小さな仕事はいい。 けれど、家を守り管理し続けることは、今の私にはあまりに荷が重いのです」


その言葉で、私はハッと気づかされた。


庭の表札が、生い茂る葉に飲み込まれていたこと。

自分の目で見ることができれば、すぐにでも剪定を頼んだはずだ。


けれど彼は、誰かに指摘されるまで自分の家の「顔」が隠れてしまっていることにさえ気づけない。

この広大な屋敷には、彼の手の届かない場所…彼の感覚が及ばない「空白」が、至る所に潜んでいるのだ。


──彼には、目が必要なのだ。


埃を払い、伸びすぎた枝を切り、彼が誇りを持ってこの家で生き続けるための「視界」を補う誰かが。


(確かに、家政婦は必要だ……)


私は、冷めかけたカップを見つめながら心の内で深く頷いていた。


「……吉野さんは、住み込みでの勤務を希望されているのでしたね?」


問いかけながら、彼はガラスのポットを迷いのない動作で差し出した。


「差し支えなければ、その理由を伺っても? ここは街から少し離れていますし、不便も多いでしょうから」


琥珀色の液体がカップに満たされる。

私は温かい湯気を逃さないようにカップを包み込み…少しの沈黙の後、意を決して言葉を紡いだ。


「……先日、離婚しまして。 マンションを引き払ったので、今はマンスリーアパートで仮住まいのような生活なんです。 だから、住み込みで働ける場所を切実に探していました」


もっと賢い理由があったかもしれない。

けれど、彼の淹れたお茶があまりに優しかったせいか私は隠す気になれなかった。


「なるほど……。 お声の響きや所作がとてもお若かったので、もっと何か、ご家族の事情のようなものを想像しておりました」


如月さんは同情するでもなく、ただ静かに私の言葉を受け止めてくれた。


「……27歳です。 もう、若くはないと思います」


自分の年齢に、今の状況。自嘲気味に呟いた私に、彼はふわりと目を細めて笑った。


「私は33歳ですから。 27歳なんて、眩しいほどに若く感じますよ」


──嘘だ。

彼の方が、ずっと若々しく、そして浮世離れして見える。

逆光の中に佇む彼は、驚くほど長身で、すらりと伸びた手足はまるで彫刻のような無駄のなさを湛えていた。

整いすぎた鼻筋に、穏やかな微笑み。


(……なるほど。 これなら、関係を迫る女性がいたという話も納得だ)


こんなにも「美しく、かつ危うい」主人の世話を、本当に私が務めきれるのだろうか。

お茶の温かさとは別に、私の胸の奥に小さな、けれど確かな緊張が走り抜けた。


「……ハーブティー、お口に合いましたか?」


彼の問いに、私は弾かれたように顔を上げた。


「はい! 本当に……驚くほど。 なんだか、ずっと張り詰めていたものが、この一杯で解けていくような気持ちになりました」


お世辞ではない。

明日からの生活さえ不透明だった私の心に、この香りは確かな「休息」をくれたのだ。

本当に、この香りに包まれて毎日を過ごせたら、どんなに救われるだろう。


「それは何よりです。……吉野さん。 いつから、こちらへ来ていただけますか?」


「えっ……。 採用、していただけるんですか?」


思わず聞き返した私に、如月さんは少しだけ意外そうに、けれど慈しむような笑みを浮かべた。


「もちろんです。 古い屋敷ですが、持て余すほどに部屋はありますから。 住み込みでも、あなたが窮屈に感じることはないはずですよ」


──選ばれた。

どん底にいた自分を、この美しい暗闇の主が必要だと言ってくれた。


「ありがとうございます! 精一杯、お役に立てるよう努めます。 よろしくお願いします!」


私の声に、如月さんはふんわりと目を細め、私の方へそっと手を翳した。

触れるためではなく、そこにいる私の熱や、声の振動を確かめるような、祈りにも似た仕草。


「そんなに気負わないで。……こちらこそ、よろしくお願いします。 吉野さん」


彼の指先から、微かにハーブの香りが流れてくる。

私は、来週からこの屋敷に住み込みの家政婦として勤めることになった。


離婚届の冷たい感触がまだ指に残っていたけれど。

今はこの屋敷の、優しく複雑な香りに、自分の運命を預けてみたい。

そう、心から思えたのだ。



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