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できると思って、やっぱり赤ちゃん  作者: 臥亜


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9/11

ハルがはじめて「ごめん」を知る日

僕は最近、できることが増えた。

 走る。

 登る。

 引き出しを開ける。

 いけないと言われたことほど、やりたくなる。

 人間の本能である。

 ◇

 午後三時。

 ミオはテーブルで絵を描いている。

 色鉛筆が整列している。

 赤、青、黄色、緑。

 秩序。

 美しい。

 僕は椅子を押す。

 よじ登る。

 視界が高くなる。

 世界は高いほうが楽しい。

「ハル、だめだよ」

 ミオが言う。

 優しい声。

 だが止まらない。

 僕は赤をつかむ。

 机に線を引く。

 ぐしゃ。

 大胆。

 芸術である。

「やめて!」

 ミオの声が強くなる。

 僕は笑う。

 反応があると、嬉しい。

 さらに一本。

 青。

 緑。

 机は春になる。

 そのとき。

 がしゃん。

 肘が当たる。

 コップが倒れる。

 水が広がる。

 絵の上に。

 ゆっくりと。

 色がにじむ。

 ミオが、固まる。

 僕も、固まる。

 世界が、静かになる。

 ◇

「……やだ」

 ミオの声が、震える。

 大きくない。

 でも、重い。

「それ、コンクール出すやつだったのに」

 コンクール。

 わからない。

 でも。

 わかる。

 これは、いつもの空気じゃない。

 ミオの目から、水が落ちる。

 僕は思う。

 泣けば、解決する?

 違う。

 今日は僕が、原因だ。

 ◇

 母が来る。

 状況を見る。

 机。

 水。

 絵。

 僕。

 全部、つながる。

 母は怒鳴らない。

 でも言う。

「ハル。だめだったね」

 低い声。

 静か。

 それが一番、重い。

 父も来る。

 ミオの肩に手を置く。

 僕は抱っこされない。

 そこに、立っている。

 胸が、きゅっとする。

 これは。

 抱っこが欲しい、とは違う。

 逃げたい、でも違う。

 何かが、落ちる感じ。

 ◇

 ミオが泣きながら言う。

「ハル、きらい」

 その言葉は。

 初めて聞く種類だった。

 世界が、ぐらっとする。

 僕は一歩下がる。

 涙が出る。

 でも、泣き方がわからない。

 これは交渉じゃない。

 戦略でもない。

 ただ、痛い。

 ◇

 夜。

 布団。

 今日は静か。

 母が言う。

「ハル、ミオに何て言う?」

 何て。

 言う。

 言葉は増えた。

「ねぇね」

「ぱぱ」

「まま」

「いや」

 でも、それじゃ足りない。

 僕はミオを見る。

 ミオは目を合わせない。

 胸がぎゅっとなる。

 僕は、ゆっくり言う。

「……ご」

 声が震える。

「ごぇ」

 違う。

 もう一度。

「ごめ」

 母が黙って見ている。

 父も。

 ミオも。

 世界が静かだ。

 僕は全部の勇気を集める。

「……ごめん」

 小さい。

 でも、確かに出た。

 ミオが顔を上げる。

 目が赤い。

「……いいよ」

 本当は、まだちょっと怒っている声。

 でも。

 嫌いの声じゃない。

 ◇

 ミオが僕を抱きしめる。

 強くない。

 でも、離れない。

 僕は初めて知る。

 泣けば、解決するわけじゃない。

 勝てば、いいわけじゃない。

 壊したら、

 直さなきゃいけない。

 それは、泣くより難しい。

 でも。

「ごめん」は、

 世界を動かすんじゃなくて、

 戻す言葉だ。

 ◇

 その夜。

 僕は少しだけ大きくなった。

 できることが増えたわけじゃない。

 でも。

 泣く以外の方法を、

 ひとつ覚えた。

 僕は一歳。

 まだ世界の中心になりたい。

 でも今日は、

 ちゃんと端っこに立てた。

 それはたぶん、

 悪くない。

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