ハルがはじめて「ごめん」を知る日
僕は最近、できることが増えた。
走る。
登る。
引き出しを開ける。
いけないと言われたことほど、やりたくなる。
人間の本能である。
◇
午後三時。
ミオはテーブルで絵を描いている。
色鉛筆が整列している。
赤、青、黄色、緑。
秩序。
美しい。
僕は椅子を押す。
よじ登る。
視界が高くなる。
世界は高いほうが楽しい。
「ハル、だめだよ」
ミオが言う。
優しい声。
だが止まらない。
僕は赤をつかむ。
机に線を引く。
ぐしゃ。
大胆。
芸術である。
「やめて!」
ミオの声が強くなる。
僕は笑う。
反応があると、嬉しい。
さらに一本。
青。
緑。
机は春になる。
そのとき。
がしゃん。
肘が当たる。
コップが倒れる。
水が広がる。
絵の上に。
ゆっくりと。
色がにじむ。
ミオが、固まる。
僕も、固まる。
世界が、静かになる。
◇
「……やだ」
ミオの声が、震える。
大きくない。
でも、重い。
「それ、コンクール出すやつだったのに」
コンクール。
わからない。
でも。
わかる。
これは、いつもの空気じゃない。
ミオの目から、水が落ちる。
僕は思う。
泣けば、解決する?
違う。
今日は僕が、原因だ。
◇
母が来る。
状況を見る。
机。
水。
絵。
僕。
全部、つながる。
母は怒鳴らない。
でも言う。
「ハル。だめだったね」
低い声。
静か。
それが一番、重い。
父も来る。
ミオの肩に手を置く。
僕は抱っこされない。
そこに、立っている。
胸が、きゅっとする。
これは。
抱っこが欲しい、とは違う。
逃げたい、でも違う。
何かが、落ちる感じ。
◇
ミオが泣きながら言う。
「ハル、きらい」
その言葉は。
初めて聞く種類だった。
世界が、ぐらっとする。
僕は一歩下がる。
涙が出る。
でも、泣き方がわからない。
これは交渉じゃない。
戦略でもない。
ただ、痛い。
◇
夜。
布団。
今日は静か。
母が言う。
「ハル、ミオに何て言う?」
何て。
言う。
言葉は増えた。
「ねぇね」
「ぱぱ」
「まま」
「いや」
でも、それじゃ足りない。
僕はミオを見る。
ミオは目を合わせない。
胸がぎゅっとなる。
僕は、ゆっくり言う。
「……ご」
声が震える。
「ごぇ」
違う。
もう一度。
「ごめ」
母が黙って見ている。
父も。
ミオも。
世界が静かだ。
僕は全部の勇気を集める。
「……ごめん」
小さい。
でも、確かに出た。
ミオが顔を上げる。
目が赤い。
「……いいよ」
本当は、まだちょっと怒っている声。
でも。
嫌いの声じゃない。
◇
ミオが僕を抱きしめる。
強くない。
でも、離れない。
僕は初めて知る。
泣けば、解決するわけじゃない。
勝てば、いいわけじゃない。
壊したら、
直さなきゃいけない。
それは、泣くより難しい。
でも。
「ごめん」は、
世界を動かすんじゃなくて、
戻す言葉だ。
◇
その夜。
僕は少しだけ大きくなった。
できることが増えたわけじゃない。
でも。
泣く以外の方法を、
ひとつ覚えた。
僕は一歳。
まだ世界の中心になりたい。
でも今日は、
ちゃんと端っこに立てた。
それはたぶん、
悪くない。




