赤ちゃんって、ずるい
お姉ちゃんは、赤ちゃんじゃない。
それはとても大事なことだ。
朝は自分で起きるし、
服も着替えるし、
歯も一人で磨く。
転んでも泣かない。
宿題もやる。
つまり、えらい。
でも。
えらい人は、
あまり抱っこされない。
◇
僕はリビングの床で遊んでいた。
積み木を積んで、
壊して、
また積む。
世界は単純で、楽しい。
その横で、お姉ちゃんはランドセルを背負っている。
「いってきます」
母は洗い物をしながら言う。
「気をつけてね」
父は新聞をたたむ。
「帰りに雨降るかもな」
僕は顔を上げる。
お姉ちゃんは、誰にも抱っこされない。
靴を履いて、
ドアを開けて、
一人で行く。
当たり前みたいに。
その背中を見て、
僕はなぜか胸がもぞもぞした。
◇
午後。
お姉ちゃんが帰ってくる。
「ただいまー」
声は元気だけど、
靴の脱ぎ方がちょっと乱れている。
母が聞く。
「どうだった?」
「ふつう」
ふつう、という言葉は便利だ。
本当のことを言わなくていい。
お姉ちゃんは僕を見る。
僕はにこっとする。
たぶん。
よだれ付きで。
「……かわいい」
そう言いながら、
少しだけ眉が下がる。
そのあとすぐ、
僕は転ぶ。
わざとじゃない。
たまたまだ。
でも。
「ふぇ!」
声を出した瞬間。
母が来る。
父も来る。
「どうしたの!」
「大丈夫か!」
抱っこ。
安心。
世界、復旧。
その向こうで、
お姉ちゃんが立っている。
黙って。
◇
夜。
お風呂のあと。
僕は先に出て、
バスタオルに包まれる。
お姉ちゃんは後。
髪をタオルで拭きながら、
母に言う。
「ねえ」
「なに?」
「赤ちゃんってさ」
少し、間。
「ずるくない?」
母の手が止まる。
「どうして?」
「だってさ、なにしても許されるじゃん」
お姉ちゃんは床を見ている。
「泣いたら抱っこ。
転んだら心配。
なにもしなくても、かわいい」
母は何も言わない。
それは、
すぐに答えが出ない質問だから。
僕は母の腕の中で、
その言葉を聞いている。
ずるい。
そうかもしれない。
◇
その夜。
布団。
暗い。
僕は泣かない。
昼間みたいに、
すぐ泣けば抱っこは来る。
でも。
今日は、泣かない。
少しして、
足音。
お姉ちゃんが、そっと来る。
「……起きてる?」
僕は目を開ける。
お姉ちゃんは、しゃがむ。
「ねえ、ハル」
声が小さい。
「赤ちゃんってさ、
ほんとずるいよ」
でも。
その手は、
僕の頭をなでている。
ゆっくり。
優しく。
「でもね」
少しだけ、声が揺れる。
「赤ちゃんでいられるの、
今だけなんだよね」
僕は何も言えない。
言葉がない。
でも、
その声の意味は、
なんとなくわかる。
お姉ちゃんは立ち上がる。
「おやすみ」
僕は小さく声を出す。
「……あい」
意味は、たぶん伝わらない。
でも。
お姉ちゃんは、立ち止まって振り返る。
少し笑って言う。
「ほんとずるい」
でもその顔は、
ちっとも怒っていなかった。
◇
世界を操るのは、簡単だ。
泣けばいい。
でも。
誰かの背中を見るとき、
僕はまだ、
なにもできない。
だから今は、
赤ちゃんでいる。
ずるいままで。
それが許される、
ほんの短い時間を使って。




