泣かないという選択
翌朝。
僕は目を覚ます。
隣に母はいない。
布団のぬくもりが、もう薄い。
リビングから声がする。
「ほら急いで、遅刻するよ!」
「わかってるって!」
お姉ちゃんと母の朝の戦いだ。
僕は天井を見る。
いつもなら、ここで泣く。
呼べば来る。
泣けば抱っこ。
簡単だ。
でも。
昨日の、あの腕を思い出す。
少しぎこちない、細い腕。
でもちゃんとあたたかかった。
僕は声を出さずに、体を起こす。
柵につかまり、立つ。
世界は高い。
ちょっと怖い。
でも、泣かない。
足を一歩。
ふらつく。
二歩。
どん、と尻もち。
痛い。
喉の奥が熱くなる。
泣けばいい。
泣けばすぐ解決する。
でも。
リビングから、お姉ちゃんの声。
「ママ、ハル起きてないの?」
「まだ静かだね」
その声を聞いた瞬間、
なぜか、胸がふくらむ。
僕は、静かだ。
世界は、まだ回っている。
泣かなくても。
そのとき。
お姉ちゃんがのぞきに来る。
「……あ、起きてる」
目が合う。
彼女は少し驚いた顔をする。
「今日、泣かなかったの?」
僕は立とうとする。
ふらつく。
今度はお姉ちゃんがすぐに手を出す。
支える。
僕はその指を握る。
ぎゅ。
お姉ちゃんは笑う。
「なにそれ。昨日からなんか成長してない?」
成長。
その言葉の意味はわからない。
でも、悪い響きじゃない。
母がやってくる。
「ほんとだ。今日は静かだったね」
母の顔は、少しだけ誇らしい。
父が後ろから顔を出す。
「え、パパ呼ばれてないの?」
僕は父を見る。
少し考える。
そして。
両手を広げる。
「ばっ」
父が笑う。
「やっぱり俺か!」
抱き上げられる。
高い。
安心。
ああ、やっぱり抱っこはいい。
僕は父の肩に顔を埋める。
泣かなくても抱っこは来る。
でも。
たまには泣いてもいい。
それが赤ちゃんだ。
◇
夜。
布団の中。
今日は少しだけ世界が小さい。
怖さも、ほんの少しだけ小さい。
僕は目を閉じる。
昼間、世界を動かすために泣く。
でも今日は違った。
泣かないことで、
誰かが来てくれた。
泣くのは力だ。
でも。
泣かないのも、きっと力だ。
僕はまだ一歳。
世界の仕組みは半分も知らない。
けれど今日、ひとつだけ学んだ。
家族は、
泣き声で動くんじゃない。
ちゃんと、見ている。
僕が泣いても。
泣かなくても。
母の胸の音を聞きながら、
僕は眠る。
明日もたぶん、泣く。
でもそれは、
世界を操るためじゃない。
この家の真ん中で、
ちゃんと赤ちゃんでいるためだ。




