泣力の限界
翌日。
僕は実験をした。
午前中、母は洗濯物を干していた。
ベランダの向こうに、空。
青い。
僕は床に座り、積み木を握る。
落とす。
カタン。
母は振り向かない。
もう一度。
カタン。
まだ来ない。
よし。
「ふぇ」
小波。
母の声が外から飛ぶ。
「ハルー? ちょっと待ってねー」
来ない。
来ない?
僕は眉をひそめる。
もう一段階。
「ふぇぇぇぇん!」
大きめ。
それでも、足音はしない。
代わりに聞こえるのは、洗濯ばさみの音。
ぱち、ぱち、ぱち。
世界が、動かない。
僕は一瞬、戸惑う。
あれ?
泣けば、だいたい解決するはずだ。
僕は最大出力を出そうと息を吸う。
そのとき。
視界の端に、お姉ちゃんがいた。
学校は休みらしい。
ランドセルはなく、代わりに本を抱えている。
「……ハル」
僕を見る目は、ちょっとだけ複雑だ。
「ママ、忙しいって言ってたよ」
僕は泣くのをやめない。
これは実験だ。
どこまで通用するか。
「ふぇぇぇぇぇぇん!!」
お姉ちゃんは本を置く。
少しだけため息。
それから、僕の前にしゃがむ。
「しょうがないなあ」
抱き上げる。
母より細い腕。
少しぎこちない。
でも、あたたかい。
僕は泣き止む。
お姉ちゃんは僕を見て言う。
「……ほんとズルいよね」
ズルい?
僕は彼女の頬に手を伸ばす。
むに。
「いひゃい」
笑った。
あ、と思う。
これは、勝利ではない。
お姉ちゃんは僕を抱いたまま、窓の外を見る。
「ママ、毎日こんなのやってるんだよ」
その声は、ちょっと大人だった。
僕は急に気づく。
世界は、僕だけでは回っていない。
母がいて。
父がいて。
お姉ちゃんがいる。
僕が泣かなくても、
洗濯物は干されるし、
朝は来る。
泣力にも、限界がある。
◇
夜。
父が珍しく真面目な顔で言う。
「今日さ、ハルあんまり泣かなかったんだって?」
母が笑う。
「お姉ちゃんが助けてくれたの」
父が驚く。
「マジか、すごいな」
お姉ちゃんは照れたように言う。
「別に。うるさかっただけ」
僕はその様子を見ている。
昼間、抱っこしてくれた腕を思い出す。
少しだけ、ぎこちなくて。
でも、ちゃんと安心できた。
僕は立ち上がり、よろよろと歩く。
三歩。
転ぶ。
父が慌てる。
「おっと!」
でも僕は泣かない。
代わりに、お姉ちゃんの方へ向かう。
彼女の足にしがみつく。
お姉ちゃんが固まる。
「え、なに」
僕は見上げる。
言葉は出ない。
でも、伝わるといい。
――昼間、ありがとう。
お姉ちゃんは顔を赤くして言う。
「なにそれ。急に甘えてくるの反則なんだけど」
父が笑う。
「やっぱりズルいな」
母が言う。
「でも、それが赤ちゃんでしょ」
そう。
僕はズルい。
泣くし、
甘えるし、
抱っこを選ぶ。
でも。
夜、布団に入るとき。
今日は少しだけ、怖くない。
胸の音がなくても、
この家には、あの腕がある。
僕は小さくつぶやく。
「……あい」
たぶん、意味はまだ誰にもわからない。
でも。
泣けばだいたい解決する。
けれど。
泣かなくても、
抱っこしてくれる人がいる。
それを知った今日、
僕はほんの少しだけ、
スーパーじゃなくなった。




