泣けばだいたい解決する
世の中には、いろいろな力がある。
腕力。
財力。
権力。
そして――
泣力。
一歳に許された、最強の交渉術である。
◇
午前十時三十二分。
僕はカートに乗せられ、スーパーの通路を進んでいた。
母は今日の特売を確認し、
人参を握り、
鶏むね肉を比較し、
卵の値段に眉を寄せている。
生活という戦場で、母は常に戦っている。
その横で僕は、静かに機をうかがっていた。
――ターゲット発見。
レジ前の低い棚。
色とりどりの袋。
光沢。
しゃかしゃかという音。
お菓子。
母が気づく前に、僕は指を伸ばす。
「ばっ!」
母は即座に察知する。
「今日は買わないよ」
早い。
だが甘い。
僕は一度、静かになる。
ここでいきなり泣いてはいけない。
交渉は段階だ。
まずは視線固定。
次に唇を震わせる。
そして、間。
「……ふぇ」
小規模な波。
母はカートを揺らす。
「だめだよ。おやつは家にあるでしょ」
揺れでは落ちない。
よし、第二段階。
「ふぇぇぇ……」
音量を上げる。
周囲の視線が少し集まる。
母の背中が固くなる。
まだだ。
僕は背を反らす。
カートの中で、完璧なアーチを描く。
これが最終兵器――反り返り。
「ちょ、ちょっとハル! 落ちるから!」
声が半音上がる。
周囲が振り向く。
僕は全力を出す。
「ぎゃあああああああああ!!」
店内BGMに勝った。
母、崩れる。
「……ひとつだけ。ひとつだけね」
勝利。
僕はすぐに泣き止む。
母はため息をつきながら棚から一袋を取る。
「絶対わかってやってるよね……」
わかっている。
もちろんだ。
◇
帰宅。
袋が開けられる。
僕はお菓子をひとつ口に入れる。
甘い。
悪くない。
だが――
目的はすでに達成している。
僕は二口目を拒否する。
ぽい。
床へ落とす。
母、固まる。
「……え?」
僕は拍手をする。
ぱちぱち。
母は天井を見上げる。
「なんでなの……」
なぜなら。
お菓子は副産物だ。
欲しかったのは、
・母が困る顔
・周囲が振り向く緊張
・そして最終的な勝利宣言
つまり、
世界が僕を中心に回る瞬間。
それだけで十分だ。
◇
夕方。
父が帰宅する。
「ただいまー」
僕は即座に泣く。
「うぇぇぇん!」
父、靴も脱がずに抱き上げる。
「どうした!? パパいるぞ!」
母が台所から叫ぶ。
「さっきまでご機嫌だったよ!」
父は僕を揺らす。
「ママが怖かったか〜?」
違う。
タイミングだ。
僕は泣き止む。
父は誇らしげだ。
「ほらな?」
母が笑う。
「単純」
父は否定するが、顔は緩んでいる。
僕は思う。
泣けば、だいたい解決する。
泣けば、抱っこされる。
泣けば、注目される。
泣けば、世界は少しだけやさしくなる。
◇
夜。
布団に寝かされる。
静か。
暗い。
昼間の僕なら、
この家を動かせる。
でも今は違う。
天井が遠い。
部屋が広い。
胸が、すこしきゅっとする。
僕は小さく声を出す。
「……ふぇ」
昼間の戦略とは違う音。
すぐに足音。
母が来る。
「どうしたの?」
抱き上げられる。
胸の鼓動。
一定のリズム。
あたたかい。
僕は母の服をぎゅっと握る。
昼間、世界を動かすために泣く。
夜、安心するために泣く。
どちらも同じ音だけれど、
意味は違う。
母の胸に顔を埋めながら、
僕は目を閉じる。
泣けば、だいたい解決する。
でも。
本当に欲しいのは、
解決じゃない。
抱っこだ。
それを知っている僕は、
まだちゃんと、
一歳である。




