表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

第九章「崖下」

プロジェクトの失敗から、三日が経った。


朝のオフィスの空気は、変わらずざわめいているはずなのに、潤にはそれがひどく遠く感じられた。

コピー機の音、誰かの笑い声、電話の着信音。

それらはまるで透明なガラス越しに聞こえるように、ぼやけていた。


かつて自分に向けられていた視線は、もうどこにもない。

今あるのは――誰も目を合わせようとしない「空気」。

通路をすれ違うとき、同僚たちがほんのわずかに視線を逸らす。誰も何も言わない。

だが、その沈黙こそが、潤の立場を残酷なほどはっきりと物語っていた。


ーーーー


「神谷くん、例の件、進捗どうなってる?」


不意に後ろから声をかけられ、ビクリと肩が震える。

上司の声音は淡々としていたが、その奥にある「失望」は隠しようもなかった。

以前なら、潤の行動一つ一つに評価の目があった。それが今は、監視の目になっている。


「え……ええと、資料の更新と確認を進めています」


「確認だけじゃなく、きっちり形にしろ。今は失敗を重ねられないんだ。分かるな?」


その言葉に、潤は小さく頷くしかなかった。


“わかってる”――頭では。

だが、あの日以来、“選択肢”は一度も現れていない。

頼れるものがなくなった今、潤は何をするにも自信が持てなくなっていた。


ーーーー


昼休み、デスクでひとりコンビニ弁当をつつきながら、潤は深く息を吐いた。

まるで空気そのものが自分を押し潰してくるようだった。


「……なんで、こんなことになったんだ」


うまくいっていた。

選択肢があったあの頃は、怖いものなんてなかった。

“正解”さえ選べば、道は勝手に開けた。

優と肩を並べ、誰もが潤を評価してくれた。


今は、その全てが幻のようだ。



午後。

潤は以前、優から引き継いだ小口の発注案件に取りかかっていた。

本来ならそれほど難しい仕事ではない。

単純な発注処理と数量の調整――ただ、それだけのはずだった。


だが、頭のどこかがぼんやりしていた。

細かい数字が目の前で踊るように滲む。

「これでいいはず」と、何度も心の中で言い聞かせる。


送信ボタンを押したとき、わずかに胸がざわついた。

ーー何かがおかしい気がする。

だが、もう遅い。



夕方。

デスクの電話がけたたましく鳴り響いた。


「はい、神谷です」


受話器を耳に当てた瞬間、相手の声が怒気を含んでいるのがわかった。


「どういうことですか!? 発注数、間違った数字になってるんですが!?」


頭の中が真っ白になる。

クライアントの担当者の声が容赦なく突き刺さる。


「こんなの現場じゃ処理できません!至急訂正してください!」


「す、すみません! すぐに確認して……!」


受話器を置く手が震えていた。

発注書を確認した瞬間、血の気が引いた。

数量が――桁違いに間違っていた。

完全な初歩的ミス。

“あの頃”の自分なら、絶対にしなかったような失態だった。



「潤!」


振り返ると、そこには優が立っていた。

クライアント対応のメールを確認したのだろう。

その顔には、怒りというよりも――深い失望が浮かんでいた。


「この案件、お前に任せたよな?」


「……ああ」


「信じてたんだ。だから任せたんだよ。俺……お前なら大丈夫だと思ってた」


その言葉が、胸を締めつけるように痛かった。

優の目は、以前のように笑っていなかった。

まるで、知らない誰かを見ているようだった。


「潤、お前……いつからそんなに“空っぽ”になったんだよ」


その一言に、潤の視界が揺れた。

言い返したいのに、言葉が出てこない。

“選択肢”があれば――何か言えたかもしれない。

でも今は何もない。


「……ごめん」


それだけだった。


優は何も言わず、静かに背を向けた。

潤はその背中を追うこともできなかった。

もう、彼との間にあった“絆”はーー完全に、崩れ落ちていた。



その夜。

自室の薄暗い明かりの中、潤は机に突っ伏していた。

クライアントからの怒鳴り声と、優の冷たい視線が頭の中で何度もループする。

静まり返った部屋が、まるで自分を責めるようだった。


「……俺、何もできないじゃないか」


胸の奥に、静かで深い“落下音”が響いた気がした。

選択肢があった頃に積み上げた成功は、跡形もなく崩れ去り、今残っているのは、何も持たない自分だけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ