第八章「崩落」
ガラス張りの会議室は、朝から張りつめた空気に包まれていた。
長いテーブルの上には整然と並べられた資料と、お茶のペットボトル。
クライアント企業の幹部たちが、静かに席につき、視線を一斉に前へ向けている。
その先には――潤と優。
「……神谷、大丈夫か?」
プレゼン直前、優が小声で訊いた。
その顔は、心配と緊張が入り混じっていた。
「……大丈夫」
そう言いながら、潤の手のひらは汗でじっとりと濡れていた。
かつてこの場に立ったときは、“選択肢”があった。
緊張も、ミスも、全てあの白いパネルが導いてくれた。
でも今――何もない。
司会役の社員が開会を告げると、部屋の空気がさらに張りつめた。
ライトが前方を照らし、プレゼンが始まる。
「では、本日のご提案内容について、弊社川島と神谷より説明させていただきます」
優が先に立ち上がり、落ち着いた口調で話し始めた。
彼の声はいつも通り澄んでいて、空間を掌握する力があった。
潤はその横で、心臓の鼓動だけが妙に大きく響いていた。
順調に進んでいく――少なくとも、序盤までは。
ーーーー
「では、次は神谷から、具体的な数値と運用のご説明をさせていただきます」
優の言葉で視線が一斉に潤へと向けられた。
それはまるで、光の下に晒されるような感覚だった。
スライドを切り替え、口を開く。
だが、喉がーー動かない。
いつもなら、目の前に【C】が浮かび、「堂々と話す」を選んでいた。
それが、今はない。
代わりに、心臓の音と、自分の呼吸の荒さだけが響いている。
「え……えっと……」
会議室に、わずかなざわめきが広がった。
その空気の変化は敏感な幹部たちの表情にすぐ現れる。
腕を組み、視線が冷たくなる。
優がさりげなく一歩前に出て、潤の横に並んだ。
「こちらの数値モデルについては、我々が慎重に検証を重ねております」
自然な声で、潤の代わりに説明を引き取る。
見事なフォローのはずだった。
だが、その一瞬の沈黙は、もう消せなかった。
幹部のひとりが眉をひそめる。
「ええと……その、神谷さん? こちらの数字、あなた自身の担当部分ですよね」
潤はとっさに頷く。
しかし、次の言葉が出てこない。
頭の中で、探しても探しても“正解”が見つからない。
「……はい、そうです」
「……では、質問を変えましょう。このモデルにおける変動リスクの想定値、どのように計算されていますか?」
刺すような質問だった。
今までなら【A】【B】【C】から選ぶだけで、完璧な返答が出せた。
今はーー何も導いてくれない。
「えっと……その……」
空気が一気に冷えた。
クライアントの幹部たちの表情が、一斉に固くなる。
優がすぐに割って入るように答えた。
「リスク想定は、我々のシミュレーションツールを使って——」
しかし、その“間”が、致命的だった。
一度失った信頼は、簡単には戻らない。
幹部のひとりが静かに資料を閉じる。
その音が、爆発音のように大きく響いた気がした。
ーーーー
プレゼンは、淡々と終わった。
終了後、幹部のひとりが形式的に「検討させていただきます」と告げて退席する。
その背中が遠ざかっていく光景が、潤の胸に突き刺さった。
ーーーーこれは、もう決まりだ。
プロジェクトは、失敗だ。
ーーーー
「潤!」
控室に戻った途端、優の声が響いた。
怒鳴り声ではなかった。
けれど、その一言に込められた“失望”の色は、何よりも痛かった。
「なんで何も言わなかったんだよ!」
「……言おうとした。でも、出てこなかった」
「出てこなかった? そんな理由、今の状況で通ると思ってるのか!」
優が机を強く叩く。
それでも潤は、何も言い返せなかった。
“選択肢”のない世界で、言葉を出すということがこんなにも難しいなんて、思いもしなかった。
「……お前、変わったよ。前のお前なら、こんなとき必死に言葉を探してた。足りなくても、泥臭く伝えようとしてた」
「優……」
「今のお前は……人間じゃなくて、“正解をなぞる機械”みたいだ」
優の言葉が、胸を深くえぐった。
何も言えなかった。
いや――何も、“持っていなかった”。
ーーーー
プロジェクトの失敗は社内にすぐに広まった。
あれほど上昇していた評価は、目に見えて冷え込み始めた。
部長は沈黙のまま、潤に厳しい視線を向ける。
同僚たちは露骨に話題を避け、昼休みの笑い声の輪にも戻れなくなった。
そして、唯一自分の味方だった優との距離までもーーーー静かに、遠ざかっていく。
“選択肢”によって築き上げた成功は、音もなく、崩れ始めていた。




