表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

第八章「崩落」

ガラス張りの会議室は、朝から張りつめた空気に包まれていた。

長いテーブルの上には整然と並べられた資料と、お茶のペットボトル。

クライアント企業の幹部たちが、静かに席につき、視線を一斉に前へ向けている。

その先には――潤と優。


「……神谷、大丈夫か?」


プレゼン直前、優が小声で訊いた。

その顔は、心配と緊張が入り混じっていた。


「……大丈夫」


そう言いながら、潤の手のひらは汗でじっとりと濡れていた。

かつてこの場に立ったときは、“選択肢”があった。

緊張も、ミスも、全てあの白いパネルが導いてくれた。

でも今――何もない。


司会役の社員が開会を告げると、部屋の空気がさらに張りつめた。

ライトが前方を照らし、プレゼンが始まる。


「では、本日のご提案内容について、弊社川島と神谷より説明させていただきます」


優が先に立ち上がり、落ち着いた口調で話し始めた。

彼の声はいつも通り澄んでいて、空間を掌握する力があった。

潤はその横で、心臓の鼓動だけが妙に大きく響いていた。


順調に進んでいく――少なくとも、序盤までは。


ーーーー


「では、次は神谷から、具体的な数値と運用のご説明をさせていただきます」


優の言葉で視線が一斉に潤へと向けられた。

それはまるで、光の下に晒されるような感覚だった。

スライドを切り替え、口を開く。

だが、喉がーー動かない。


いつもなら、目の前に【C】が浮かび、「堂々と話す」を選んでいた。

それが、今はない。

代わりに、心臓の音と、自分の呼吸の荒さだけが響いている。


「え……えっと……」


会議室に、わずかなざわめきが広がった。

その空気の変化は敏感な幹部たちの表情にすぐ現れる。

腕を組み、視線が冷たくなる。


優がさりげなく一歩前に出て、潤の横に並んだ。


「こちらの数値モデルについては、我々が慎重に検証を重ねております」


自然な声で、潤の代わりに説明を引き取る。

見事なフォローのはずだった。


だが、その一瞬の沈黙は、もう消せなかった。

幹部のひとりが眉をひそめる。


「ええと……その、神谷さん? こちらの数字、あなた自身の担当部分ですよね」


潤はとっさに頷く。

しかし、次の言葉が出てこない。

頭の中で、探しても探しても“正解”が見つからない。


「……はい、そうです」


「……では、質問を変えましょう。このモデルにおける変動リスクの想定値、どのように計算されていますか?」


刺すような質問だった。

今までなら【A】【B】【C】から選ぶだけで、完璧な返答が出せた。

今はーー何も導いてくれない。


「えっと……その……」


空気が一気に冷えた。

クライアントの幹部たちの表情が、一斉に固くなる。

優がすぐに割って入るように答えた。


「リスク想定は、我々のシミュレーションツールを使って——」


しかし、その“間”が、致命的だった。

一度失った信頼は、簡単には戻らない。

幹部のひとりが静かに資料を閉じる。

その音が、爆発音のように大きく響いた気がした。


ーーーー


プレゼンは、淡々と終わった。

終了後、幹部のひとりが形式的に「検討させていただきます」と告げて退席する。

その背中が遠ざかっていく光景が、潤の胸に突き刺さった。

ーーーーこれは、もう決まりだ。


プロジェクトは、失敗だ。


ーーーー


「潤!」


控室に戻った途端、優の声が響いた。

怒鳴り声ではなかった。

けれど、その一言に込められた“失望”の色は、何よりも痛かった。


「なんで何も言わなかったんだよ!」


「……言おうとした。でも、出てこなかった」


「出てこなかった? そんな理由、今の状況で通ると思ってるのか!」


優が机を強く叩く。

それでも潤は、何も言い返せなかった。

“選択肢”のない世界で、言葉を出すということがこんなにも難しいなんて、思いもしなかった。


「……お前、変わったよ。前のお前なら、こんなとき必死に言葉を探してた。足りなくても、泥臭く伝えようとしてた」


「優……」


「今のお前は……人間じゃなくて、“正解をなぞる機械”みたいだ」


優の言葉が、胸を深くえぐった。

何も言えなかった。

いや――何も、“持っていなかった”。


ーーーー


プロジェクトの失敗は社内にすぐに広まった。

あれほど上昇していた評価は、目に見えて冷え込み始めた。

部長は沈黙のまま、潤に厳しい視線を向ける。

同僚たちは露骨に話題を避け、昼休みの笑い声の輪にも戻れなくなった。


そして、唯一自分の味方だった優との距離までもーーーー静かに、遠ざかっていく。


“選択肢”によって築き上げた成功は、音もなく、崩れ始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ