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第七章「沈黙の代償」

夜の闇に溶けていくように、白いパネルは音もなく消えた。

それは、ほんの数秒の出来事だった。

けれど、潤の胸の奥には――言葉にならない震えが残っていた。


「……本当に、消えた」


この数週間、毎日当たり前のようにそこにあった“選択肢”。

自分を導いてくれた“道しるべ”。

それが初めて――無視しただけで、何の予兆もなく、消えていった。


心臓が、ゆっくりと早鐘を打ち始める。

まるで、自分が立っていた地面が静かに崩れ始めているようだった。


ーーーー


翌朝。

オフィスの空気はいつも通り……に見えた。

けれど、潤の感覚はまるで違っていた。


いつもなら、出社した瞬間に目の前に“選択肢”が浮かぶ。

「挨拶する」

「黙って通る」

「軽い冗談を言う」

そんな当たり前のパネルが――今朝は、どこにもなかった。


「……あれ?」


社員証をタッチし、オフィスに入る。

周囲の同僚が「おはようございます」と声をかけてくる。

いつもなら、“最適な返し”がパネルで示される。

でも今は――何もない。

代わりに、喉の奥から中途半端な声が漏れた。


「あ……お、おはよ」


その一言に、自分でも驚くほどのぎこちなさがあった。

同僚が一瞬だけ怪訝な顔をして笑い返す。

その表情の細かな揺らぎすら、今の潤にはやけに重く感じられた。


ーーーー


午前の会議。

優との共同プロジェクトは佳境を迎えていた。

クライアントへのプレゼンを目前に控え、社内での調整は緊張感を増している。

優が資料を手に立ち上がり、メンバーに次の工程を説明する。その横で、潤は静かに座っていた。

いつもなら、目の前に“最適な言葉”が表示される。

議論のタイミング、相槌の入れ方、相手の意見を補う一言。


その全てが今、ない。


「……神谷、この部分、どうする?」


優が潤に視線を向けた。


一瞬、頭が真っ白になる。

パネルがないだけで、こんなにも何も出てこないなんてーー。


「え……えっと……」


わずかに遅れたその間が、会議室の空気を濁らせた。誰かが小さく咳払いする。

優の表情が、ほんの一瞬だけ曇る。


「……俺がやっとくよ」


そう言って優がフォローし、会議は再び進み出す。

でも、その一言は、胸に鋭く突き刺さった。


ーーーー


午後。

潤はひとり、休憩スペースでコーヒーを手に座っていた。指先が震えている。

“選択肢”の存在にどれだけ依存していたかを、今さら思い知らされる。


「神谷、最近どうしたの?」


同僚のひとりが声をかけてきた。

その声も、今はどう返していいのか分からない。

以前なら【A】や【C】を選んで、空気を作ることができた。

今はただ、ぎこちない笑顔しか出てこない。


「……大丈夫、大丈夫だから」


その言葉が、空っぽに響いた。


ーーーー


夕方。

優が潤の席にやってきた。

デスクの上に置かれた資料を見下ろし、短く息を吐く。


「……潤、明日のプレゼン、大丈夫か?」


「……ああ」


「いや、“ああ”じゃなくてさ。お前、今日はずっと調子悪い。何かあったのか?」


優のまっすぐな視線に、潤は思わず目を逸らした。

“選択肢”があったころなら、この瞬間も完璧に返せた。

今は――言葉が出てこない。


「……なんでもない」


その声は、まるで他人の声みたいだった。

優の目が、ほんの少しだけ寂しそうに揺れた。


「……そうか。ならいいけど」


そのまま、優は踵を返した。

潤の胸に、静かに重いものが沈んでいく。


ーーーー


夜。

アパートに戻った潤は、暗い部屋で一人、天井を見上げていた。

目を閉じれば、これまでの日々が鮮やかに浮かぶ。

“選べば”上手くいった日々。

“正解”を進んでいれば、何も怖くなかった。

でも今――その道は、消えた。


「……俺、何もできないのか」


部屋の静寂が、まるで答えのように押し寄せる。

耳の奥がジンジンと痛いほど静かだった。


その時ーー一瞬だけ。

視界の隅で、白いパネルの“残像”が揺らいだ気がした。だが、すぐに消えた。

まるで「今度は自分で決めろ」とでも言うように。


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