第六章「亀裂」
プロジェクト会議室の空気は、重かった。
誰も大声を出していないのに、空気がピリついている。
資料のページをめくる音さえ、妙に耳に刺さるほどに。
「この部分、俺はもっとストレートに押し出した方がいいと思う」
優がホワイトボードに線を引きながら言った。
「回りくどい説明は時間の無駄になる。プレゼンの場では“印象”が勝負だ」
潤は黙ってその線を見つめていた。
頭の中では、もうあの白いパネルが浮かび上がっている。
【A】優に賛成する
【B】自分の意見を言う
【C】場を和ませる
――いつも通り。
選べば、波風は立たない。
最も“効率的な”答えが、目の前にある。
でも、選択する前に、胸の奥に引っかかる何かがあった。
「いや、それじゃダメだと思う」
思わず、口から言葉がこぼれた。
パネルに触れずに、自然と。
優がこちらを見る。
その目に、一瞬の驚きと……警戒が宿った。
「ダメって……なんでだよ」
「印象だけで押し切るのはリスクが高い。もし相手が反論してきたら、インパクト頼みじゃ崩れる」
「だから、そのためのフォロー資料も作るんだろ? お前、何度も言ってるけど慎重すぎるんだよ」
互いの声が、少しずつ熱を帯びていく。
周囲のメンバーたちは気まずそうに視線を泳がせ、誰も口を挟まない。
いつもなら潤が折れる。選択肢を選んで、角を立てずに収める。
――でも今日は違った。
「慎重なんじゃない。現実的なんだ」
「お前、最近“正しさ”ばっか追いかけてるよな」
「じゃあ、間違ってる方を選べっていうのか?」
「そうじゃない!」
優の声が、初めて荒くなった。
会議室の空気が、ピンと張り詰める。
「お前の言ってることは、確かに全部“正しい”よ。でもな、それだけじゃ人は動かない。相手は数字の羅列じゃなくて、“人”なんだよ!」
潤は言葉を失った。
その言葉は、胸の奥深くに刺さる。
――正しいことを言っているはずなのに。
――成果を出してきたはずなのに。
どうして、こんなにも噛み合わないんだろう。
ーーーー
会議後、廊下ですれ違う時、優が声をかけてきた。
「……潤、俺たち、ちょっとずれてきてるよな」
潤は何も答えられなかった。
彼の声は怒っているわけじゃない。
ただ、まるで“遠く”から話しかけてくるような、そんな距離感だった。
ーーーー
その夜。
自宅の薄暗い部屋の中、潤はベッドの縁に座り込んでいた。
パソコンのスリープランプが淡く点滅し、静かな部屋に小さな光を落としている。
「……なんでだよ」
自分は、間違っていない。
少なくとも、そう信じてきた。
選択肢を選び続けてきたこの数週間、すべてが“うまくいって”いたはずだ。
誰からも認められ、成果を出し、会社での立ち位置も変わった。
――けれど、たった一人。
自分にとって一番大事だった“優”との間に、亀裂が入っていた。
その瞬間、またパネルが現れた。
【A】謝る
【B】正論をぶつける
【C】何も言わない
今までなら迷わず選んでいた。
でも、今は違う。
どの選択肢も、優の心に届かない気がした。
まるで、最初から“正解”がここにはないかのように。
「……もう、うんざりだ」
潤は初めて――何も選ばなかった。
パネルは一瞬、ノイズを走らせるように揺れ、スッと夜の闇に溶けて消えた。
胸の奥に残ったのは、奇妙な静けさと、少しの恐怖だった。




