第四章「上昇」
――あれから、一週間が過ぎた。
最初に“選択肢”が現れた夜のことを、潤は今でもはっきり覚えている。
あの不可思議な白いパネルは、翌朝の通勤中にも、会社のエントランス前でも、そして昼休みにも現れた。
【A】挨拶をする
【B】黙って通り過ぎる
【C】笑顔を向ける
その時潤は、戸惑いながらも【C】を選んだ。
結果は――驚くほど単純だった。
いつもぶっきらぼうな総務の田辺が、初めて向こうから笑い返してきたのだ。
「おはよう、神谷さん」
――たったそれだけのことだった。
けれど、その一言が胸の奥をじんわりと温めた。
そこからだった。
毎日のように現れる選択肢。
それは日常の些細な行動にまで入り込んでくる。
【A】メールをすぐ返す
【B】後回しにする
【C】一言添える
【A】資料を徹夜で見直す
【B】一旦妥協する
【C】上司に相談する
潤は、目の前に浮かぶ選択肢に従い続けた。
そうするたびに、まるで“見えないレール”の上を走るように、全てが噛み合っていった。
報告書の数字は一発で通り、部長に怒鳴られることもなくなった。
同僚との会話も自然と増え、昼休みに一人で食べる時間は減った。
あの優ですら、潤の変化に気づいて声をかけてきたほどだ。
「最近、なんか……変わったよな、お前」
「そうか?」
「うん、いい意味で。空気が前より軽くなったっていうか」
優の笑顔が、初めてまぶしく見えなかった。
――そして、そのチャンスは突然やってきた。
「神谷。お前、来週のプレゼン、やってみるか?」
部長が会議室で放った言葉に、潤は一瞬、息を呑んだ。
それは、今までなら優か別の先輩が担当するような“大口の案件”だった。
今の自分が任されるなんて、考えたこともなかった。
「俺が、ですか?」
「お前、最近いい動きしてるだろ。上層部も見てる」
選択肢が現れた。
今までと違って、心臓の奥がズキンと痛むような、重い選択だった。
【A】断る
【B】少し考える
【C】引き受ける
「……C」
声に出した瞬間、部長の口元が満足そうに歪んだ。
ーーーーーー
プレゼン当日。
緊張で手のひらが湿っていた。
会場にはクライアント企業の幹部たち、そして会社の役員までもが揃っている。
優も座ってこちらを見ていた。
こんな大舞台、今までなら想像すらできなかった。
でも――潤には、あの選択肢がある。
開始5分前。目の前に、また白いパネルが浮かんだ。
【A】緊張で言葉が詰まる
【B】資料をそのまま読む
【C】堂々とプレゼンする
「……C」
不思議だった。
喉の奥にあった不安が、スッと消えていく。
呼吸が深くなり、視界が鮮明になった。
言葉が自然と出てくる。
どのタイミングでどのスライドをめくればいいか、まるで事前に練習していたかのように体が動く。
――気づけば、拍手が鳴っていた。
部長が初めて目の前で頷き、クライアントが握手を求めてきた。
優が、驚いた顔で笑っていた。
「やるじゃん、潤!」
その声が、まるで別世界の音みたいに、心地よく響いた。
それからというもの、潤の周囲は変わっていった。
上司の態度が軟らかくなり、同僚たちも気軽に声をかけてくるようになった。
次々と現れる選択肢に従っていくだけで、道は勝手に開けていく。
気づけば、自分は優と肩を並べる存在になっていた。
――でも、心の奥底で、微かに軋む音がしていた。
「……これって、俺の力なのか?」
夜、自室で缶ビールを手に、潤は呟いた。
その言葉には、初めて“迷い”が滲んでいた。




