第十三章「支える手」
「……え?」
昼下がりの会議室。
いつもは落ち着いている優が、資料を見つめたまま、顔を真っ青にしていた。
その指先が小刻みに震えているのが、潤の席からもはっきりと見えた。
「おい、川島!」
怒鳴り声が会議室を突き抜ける。
部長が手にした資料を机に叩きつけた。
「この資料、先月のドラフト版じゃないか! クライアントにこれ送ったのか!?」
「……え、でも……昨日の夜、確かに――」
「確かに、じゃねえ! 先方から確認の連絡が入ってる! どうするつもりだ!」
空気が一瞬にして凍りついた。
いつも冷静沈着な優の顔が、見る見るうちに蒼白になる。
周囲の社員たちも言葉を失い、ただ成り行きを見守るしかなかった。
優がこんなふうに取り乱すのを、潤は初めて見た。
かつて「完璧」だった男が、今まさに崩れそうになっている。
部長が苛立った様子で指示を飛ばし始める。
「すぐに修正資料を作り直して送れ! 先方が激怒してる。下手すりゃ契約破棄だぞ!」
騒つくオフィス。
誰もが慌ただしくパソコンに向かい、情報をかき集めている。
そんな中、優はただ立ち尽くしていた。
その姿を見た瞬間――潤は迷わなかった。
「俺がやる」
静かだけれど、芯のある声だった。
すぐに優のもとに歩み寄り、手元の資料を奪うようにして確認する。
送信時刻、ファイル名、ミスの原因。
一つひとつ冷静に洗い出していく。
「神谷……」
優がかすれた声で呟いた。潤は顔も上げずに言った。
「立ってる暇あったら、先方のスケジュール調整、すぐやれ。修正資料は俺がまとめる」
以前の自分なら、間違いなく固まっていただろう。
誰かが選択肢を出してくれるのを待っていた。
でも今は違う。自分で考え、判断し、動く。
「佐々木、旧データのバックアップ、今すぐ引っ張ってこい!」
「はい!」
「小林さん、先方の担当、直通でつないでもらえますか! 俺が直接話します!」
普段、静かだった潤の声が、フロアに響いた。
一瞬ざわついていた空気が、潤を中心にまとまり始める。人が自然と動き出す。
潤の指先が高速でキーボードを叩く音だけが、やけに鮮明に響いていた。
⸻
10分後。
修正版の資料が完成した。
旧データと最新データを照合し、先方の要望を反映した差分メモも添える。
完璧ではない。けれど――走りながら考え、手を動かした“生きた資料”だった。
潤はすぐに担当者に連絡を入れ、謝罪と修正資料の送付、追加のフォローアップ説明まで一気に進めた。
電話口の向こうで、怒りのトーンが少しずつ和らいでいくのが分かる。
「……はい。ご不便をおかけして申し訳ありません。今後は二重チェックの体制を組みます。……ありがとうございます」
受話器を置いた瞬間、全身から汗が噴き出した。
でも、潤の胸の中には、不思議な静けさがあった。
「……潤」
振り返ると、そこに優が立っていた。
顔はまだ青ざめているが、さっきのような硬直はない。
その瞳には、動揺と、そして――わずかな光が宿っていた。
「助かった……お前、なんで……」
「別に。放っとけなかっただけだよ」
「昔のお前なら……」
優がかすかに笑った。
「いや、あの頃なら俺がフォローしてた。……今日は、逆だな。ありがとう」
「たまには立場が入れ替わってもいいだろ」
二人の間に、ほんの一瞬、懐かしい“空気”が流れた。
あの頃、共に笑い合っていた頃の空気。
完全に戻ったわけじゃない。
でも――確かに繋がりが“戻り始めた”。
⸻
夜。
潤の目の前に、久しぶりに選択肢が浮かんだ。
【A】自分の成長を誇る
【B】何も思わない
【C】感謝を胸に刻む
パネルは以前のようにまぶしい光ではなく、静かで柔らかな光を放っていた。
潤は少しだけ笑って、迷わず【C】を選んだ。
「……ありがとな」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
ただ、心の奥で何かが少しだけ温かくなっていくのを感じた。




