第十二章「積み重ね」
春の風が、ほんの少しだけやわらかくなっていた。
あの日から――潤が【C】を選び、自分の足で立つと決めてから――二週間が過ぎていた。
劇的な変化なんて、ひとつもない。
選択肢が導いてくれたような“都合のいい成功”もない。
ただ、毎日、目の前のことを少しずつ積み重ねるだけの日々だった。
それでも――潤の世界は、静かに、確実に変わり始めていた。
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朝一番。
誰よりも早く出社して、昨日のタスクを洗い直し、今日の予定を自分の頭で組み立てる。
選択肢に頼っていた頃には、考えもしなかった習慣だった。
小さな仕事でミスをしたときも、逃げずに頭を下げ、自分で修正する。
「……すみません。俺の確認不足です。すぐに対応します」
以前ならパネルが“最適な言い訳”を選ばせていた。
今は自分の言葉で、責任を負う。
そうやってひとつひとつ向き合っていくうちに、周囲の視線が、ほんの少しだけ変わり始めていた。
「……神谷さん、最近ちょっといい感じですよね」
「うん。変わりましたよね」
休憩スペースで聞こえた同僚たちの小さな会話に、潤は気づかないふりをしていた。
でも心の奥が、少しだけ温かくなっていた。
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ある日、潤は営業資料のミスを未然に防いだ。
深夜まで自分で確認を重ね、朝イチで修正案を提出したのだ。
「……助かった。これ、放ってたら大変なことになってたぞ」
部長が珍しく素直に感謝の言葉を口にした。
その瞬間、心の中に小さな“実感”が灯った。
選択肢がなくても――いや、選択肢がないからこそ、自分の力で道を切り開けるという確信が。
そして、優との距離も、少しずつ、確実に変わり始めていた。
昼休み、優と同じタイミングでエレベーターに乗り合わせた。
以前のように気まずい空気は残っている。
言葉も自然には出てこない。
けれど、以前のように逃げようとは思わなかった。
「……この前の資料、お前が修正してたろ」
優がぼそっと口を開いた。
「誰から聞いたんだ?」
「部長。お前、昔なら絶対に面倒がって投げてたよな」
「……ま、俺も変わったってことだな」
優が少しだけ口元を緩める。それは“完全な和解”ではない。
でも――関係を閉ざしていた厚い壁に、小さなひびが入った瞬間だった。
その後も、二人は仕事の中で少しずつ会話を交わすようになった。雑談なんてできない。
まだ昔みたいに肩を並べて笑い合うこともできない。
でも、仕事の話をするとき――優の声が、ほんの少し柔らかくなっているのに潤は気づいていた。
「……お前、ほんと変わったな」
「悪い意味か?」
「いい意味に決まってんだろ。……昔より、ちゃんと“お前”として話してる感じがする」
「……そうか」
胸の奥で、ゆっくりと温かいものが広がった。
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夜。
会社を出ると、再び白いパネルが浮かんだ。
【A】油断する
【B】このまま現状維持
【C】さらに踏み出す
光は以前のように鮮やかではなく、柔らかく揺らいでいた。
今はもう、この選択肢が「答え」ではない。
潤の「決意」を映す鏡のような存在になっていた。
「……C」
潤は迷いなく選んだ。
その瞬間、足元の夜道がほんの少しだけ明るく見えた気がしたーー。




