第十一章「歩き出す」
朝のオフィス。
以前と同じ景色のはずなのに、潤の胸にある感情は少しだけ違っていた。
誰もこちらを振り向かない。
優は依然として、潤と目を合わせようとしない。
自分の評価は底のまま。状況は何一つ変わっていない。
それでも、潤は出社した。
自分の足で、前に進むために。
「……やるしかないだろ」
小さく呟いた声が、デスクの上で吸い込まれる。
パネルは今も見えない。
昨日、【C】を選んだ時のように、すぐに答えは与えられない。
だからこそ、今度は自分で考えるしかなかった。
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午前中、潤は自ら手を挙げ、誰もやりたがらなかった社内システムの修正対応に参加した。
慣れない作業。わからない箇所も多い。
以前の自分なら、こんなことはしなかった。
なぜなら、選択肢が示してくれない“未知”には、不安しかなかったからだ。
「神谷さん、これ分かります?」
後輩の佐々木が恐る恐る声をかけてくる。
「……わからん。でも、一緒に調べる」
かつてなら【A】や【C】を選んでスマートに返せたはずのやり取りも、今はたどたどしい。
何度も間違え、何度も戻り、何度も時間をかける。
だけどーー不思議と、それが嫌ではなかった。
「……あ、できた!」
佐々木が声を上げた。
潤もその画面を見て、小さく息を吐いた。
ほんの小さな修正対応。
だけど、自分で頭を使い、手を動かして、結果を掴んだのは久しぶりだった。
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昼休み。
食堂の隅でコンビニ弁当を広げていると、遠くの席に優の姿が見えた。
彼はチームのメンバーと談笑している。
その笑顔は、あの頃と同じ。だけど、潤には遠かった。
自分が壊したものは、そんなに簡単には戻らない。
潤は視線をテーブルに落とし、黙々と弁当をかき込んだ。
それでも、胸の奥には、昨日までとは違う「痛み」があった。逃げた痛みじゃない。
ちゃんと、自分の中で“生きている痛み”だった。
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午後、営業部に急ぎの資料依頼が舞い込んだ。
担当者が不在だったため、潤は自ら名乗りを上げた。
「俺がやります」
「……大丈夫か?」と訝しむような視線が飛ぶ。
失敗の印象は、簡単には消えない。
それでもいい。
小さくても、自分で決めた“選択”を積み重ねていく。
資料作成中、データのミスがあり、提出時間ギリギリになってしまった。
「はぁ……またか」と後輩が小さく漏らす声も聞こえた。正直、胸に刺さる。
でもーー逃げない。自分の手で、最後までやり通す。
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夕方。
資料の提出がようやく終わったころ、背後から声をかけられた。
「……潤」
振り向くと、そこには優が立っていた。
目が合うのは、あの日以来だった。胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……お前、あのシステム修正やったのか?」
「……ああ。まあ、何とか」
優は短く息を吐いて、ほんのわずかに口元を緩めた。
「お前、こういう地味なの嫌いだったろ」
「……今も嫌いだよ。だけど、やらなきゃな」
二人の間に、沈黙が落ちた。
以前のような気安い空気ではない。
でもーー完全な断絶でもなかった。
ほんのわずかに、氷が溶け始める音がした気がした。
「……そうか」
優がそう言って踵を返した。
その背中を見つめながら、潤は小さく息を吐いた。
ほんの一言。
でも、それは潤にとって“前に進んだ”証だった。
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夜。
オフィスを出たとき、白いパネルがふわりと浮かんだ。
【A】過去を悔やむ
【B】何もしない
【C】進み続ける
その光は、以前のように「導く」ものではなく、潤の選択を「受け止める」ように静かに揺れていた。
「……C」
迷いなく口にしたその瞬間、胸の奥に、小さな灯りがともった。




