第一章「日常の檻」
蛍光灯の白い光が、頭の上で無情に照りつけている。
朝からずっと鳴り止まないキーボードの打鍵音と、プリンターの稼働音。空調の風がオフィスの隅々まで均一に行き渡っているはずなのに、神谷潤の背中にはじっとりと汗が滲んでいた。
「神谷。これは何だ?」
低く、喉の奥で唸るような声が響いた。
顔を上げると、デスクの向こうに仁王立ちしているのは営業部の部長だった。厚い胸板に腕を組み、視線だけで潤を圧倒してくる。
「え、あの……報告書ですけど……」
「“報告書ですけど”じゃねぇんだよ」
バン、とデスクに書類が叩きつけられる。周囲の空気がピシリと張り詰めた。
「数字が一桁ズレてる。取引先の担当に提出する資料で、なんでこんな初歩的なミスするんだ?」
一瞬、頭が真っ白になる。
何度も確認したはずだった。だが、それは“自分の中で”の話であって、結果としてミスは残っている。
「す、すみません……すぐに修正します」
「“すぐに”って言葉、今月で何回聞いたと思ってる?」
吐き捨てるような声。上司の目は氷のように冷たい。
オフィスのあちこちから、パソコンのタイピング音がほんの少し小さくなっていく。
皆、耳だけをこちらに向けながら、自分の仕事をするふりをしている。
――聞こえてる。全部、聞こえてる。
でも、誰も助けない。それがこの会社の“いつもの光景”だ。
「川島、お前、神谷の担当フォローしてただろ?」
部長の視線が斜め後ろへと向かう。
「はい。提出前に確認はしましたが……僕のチェックが甘かったです。申し訳ありません」
静かで落ち着いた声。
川島優――潤の同期であり、部署内の誰もが一目置く存在。
頭の回転が速く、話し方も穏やかで、上司受けもいい。
「川島、お前が謝ることじゃない。ミスをしたのは神谷だ」
部長はすぐに言い捨て、潤へと視線を戻す。
「昼までに修正して、再提出しろ。いいな?」
「……はい」
部長が去ると、オフィスの空気が少しだけ緩んだ。
それでも、耳の奥には怒鳴り声の余韻がこびりついて離れない。
「……潤、大丈夫か?」
優が小声で声をかけてくる。
彼は何も責めず、ただ心配そうに眉を寄せている。
その優しさが、今は逆に痛かった。
「平気。いつものことだしな」
笑ったつもりだったが、喉の奥から漏れたのは、乾いた息だけだった。




