第1話:偶然
評価お願いします!モチベなります!
あとこのあとの展開とか提案してもらえればなんかうまいこと入れたい。
え? プロット? あるけどなんか内容の要素が足りないし・・・頑張るけど。
俺が、あの廃駅から生きて帰ってきた理由は、今でもよくわからない。
あれは、たぶん予定外だった。
もしかすると、ただタイミングを間違えただけかもしれない。
それだけのことなのに、人生は、ほんの少しだけ転がり始めていた。
……まるで、別の誰かの意志に押されたように。
「やっぱここだな……」
あれから数日。
いつまでも何故か死ねない自分に苛立つ思いを落ち着かせるためにある場所に来ていた。
街の片隅にある、古びた喫茶店。
名前も看板も目立たない、商店街の外れにひっそりと佇んでいる。
俺は、ここが嫌いじゃなかった。
誰も俺に干渉しないし、騒がしい客もいない。
マスターは無口で、俺がなにを頼もうと一言も無駄口をきかない。
「ブレンド、いつもの」
「……うん」
小さな声が返ってきた。
マスターにしては随分と若い声だな、と思って顔を上げて――固まった。
そこにいたのは、あの“ガキ”だった。
水瀬紬。
あの廃駅で、俺の終わりを邪魔してきた、妙に懐かしい声の少女。
エプロンをつけて、髪を後ろでひとつに結んで、控えめに微笑んでいる。
……冗談だろ。
なんでお前がここにいんだよ。
「ん、久しぶり。あのときぶりだね」
「……は?」
紬は、当たり前のように俺の前に水を置いてから、小さく笑った。
「この店、家から近いの。たまに手伝ってるんだよ」
……偶然か?
いや、あの目は――そうじゃねぇ。
「お前……また俺のこと、見張ってんのか?」
「そんな言い方しないでよ」
怒るでもなく、笑うでもなく、
紬はテーブルの端にちょこんと腰かけた。
「君があそこから帰ってきたの、見てたから」
「……つけてたのかよ」
「違うよ。偶然、帰るところを見かけただけ」
偶然? 本当に?
俺の中で、また例の“警報”が鳴る。
コイツは、何かを隠してる。
でも、それ以上踏み込もうとすると、
不思議と、俺の中で何かが揺らいで、言葉が止まる。
「……なんでまた話しかけてくんだよ。もう、終わっただろ」
「終わってないよ」
即答だった。
「君がまだ、生きてるんだから」
まっすぐな目で、そう言い切った。
心が、またわずかにざわついた。
あの日と同じ、いや、それ以上に厄介な感情が、胸の奥に浮かんでくる。
「……勝手にしろよ。好きにすればいい」
それだけ吐いて、俺はカップに口をつけた。
苦味が、喉の奥に刺さるようだった。
「ここ、よく来る席だよね」
カップを置いた俺に向かって、紬が何気ない口調で言った。
無意識に、彼女の言葉を反射するように睨んでしまう。
てか、なんで知ってんだよ。
「……だから何だよ」
「別に。なんとなく、落ち着きそうな場所だなって思っただけ」
薄く笑うその顔には、何の下心も感じられなかった。
それが逆に、苛立ちを増幅させる。
「つーかお前、ほんとに俺のこと気にしすぎなんじゃねぇの?」
「そうかも」
即答。
少しでも戸惑ってくれたら気が楽だったのに、そういう返しをされると何も言えなくなる。
「……じゃあ、聞くけどさ。お前、俺の何を知ってんだ?」
沈黙。
紬の笑顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……知ってるのは、君がとても静かな人だってこと」
「……それ、バカにしてんのか」
「違うよ」
今度は、柔らかくもはっきりと否定された。
「静かな人ってね、心の中で、いろんな声を殺してる人のことなんだと思う」
その言葉に、喉の奥がひりついた。
なんだよ、それ。
本当にただの高校生なのか、このガキは。
この手の言葉は――もっと、ずっと近くで俺を見てた誰かしか、知らないはずだろ。
……でも、思い出せない。
あの日からずっと、記憶のどこかが抜け落ちたままだ。
その空白に触れそうになるたび、俺は無意識に思考を引き剥がしてきた。
「ガキがそんな顔すんな」
そう言って、無理やり目を逸らす。
まるで自分に言い聞かせるみたいに。
けど、視界の端で紬が、少しだけ笑っていた。
「君って、意外と優しいよね」
「……は?」
「いろんな人に言われるでしょ、“怖そう”とか、“冷たそう”とか。
でも、君はそうやって相手の気持ちに触れたときだけ、ちょっとだけ言葉が優しくなる」
ぐさり、ときた。
そんなこと、自分でも気づいていなかったのに。
気づかれたことのほうが、気持ち悪い。
「……お前、ほんと気味悪いくらい観察してんな」
「うん。だって君のこと、もっと知りたいから」
なんの迷いもない声だった。
まるで、もう答えを知ってる人のように。
普通の連中ならドキッとしてんだろうな。
だが、今の状況と俺のことを知っているなら、それは別の意味へと変わる。
「……理由は?」
「あるよ。でも、今はまだ言えない」
紬はそっと目を伏せた。
どこか寂しそうで、どこか安心しているような……矛盾した静けさ。
「でもね、それでも私は、君と話してたいって思う。
だめ、かな」
その目を見て、即答できなかった。
なんで俺が、こんなに戸惑ってるんだ。
「……知らねぇよ、そんなもん」
それが精一杯だった。
それでも紬は、どこか満足したようにうなずいた。
「そっか。それなら、よかった」
はぁ?
何がよかったんだよ。
けど、その時だった。
店のBGMが、ふと変わった。
懐かしいメロディ。
遠い昔、どこかで聴いた気がする。
いや、違う――“誰かが口ずさんでた”音。
それが、誰だったのか。
どうしてこんなにも、胸が締め付けられるのか。
わからない。
でも、涙が出そうだった。
「……この曲、好き?」
紬の声が、妙に遠くで響いた気がした。
「知らねぇ……でも、なんか――うるせぇ」
心が、ざわついていた。
静かだった。
この店は、いつだって静かだった。
でも――今日だけは、やけに騒がしく感じた。
何も話してないのに、胸の奥が騒ぐ。
目の前に座るこいつのせいだ。
水瀬紬。
あの廃駅で、俺の“終わり”に割り込んできた、妙なガキ。
「ねえ、次、いつここに来る?」
突然、そんなことを言い出すから、思わず睨み返した。
「は? なんでてめぇにスケジュール報告しなきゃなんねぇんだよ」
「そっか。でも……また話せたら、うれしいなって思って」
こいつは、躊躇いもなくそう言った。
しかも本気の顔で。
わけがわからなかった。
「なんで……そんなに俺と関わろうとすんだよ」
「うーん、なんでだろうね。自分でもわかんないけど……
君と話してると、どこか“懐かしい”って感じがするの」
“懐かしい”。
その言葉だけで、呼吸が止まりかけた。
「……そうかよ」
それ以上、何も言えなかった。
懐かしい、だと?
俺が捨てたはずの過去の、どこにそんなぬくもりがあるっていうんだ。
「ね、ひとつだけ、お願いしてもいい?」
「却下」
「まだ言ってないのに」
「絶対ろくでもねぇ」
「……じゃあ、どうしてもダメだったら断ってくれていいから」
こいつはテーブルの縁に両手を置いて、まっすぐ俺を見た。
あのときの廃駅と、まるで同じ目。
「次に君がここに来たら、私、また隣に座ってもいい?」
「……は?」
「君が嫌じゃなければ、でいいの。
ただ、隣に座って、一緒にコーヒーを飲んで……
話をするでもなく、黙ってるだけでもいいから。
君の隣で、ちょっとだけ時間を過ごしたい」
冗談みてぇに淡々と言いやがって。
でも――それが、やけに“本気”だった。
沈黙。
空気が重くなる。
なのにこいつは、それを少しも気にする様子もなく、穏やかに微笑んでいた。
まったく意味がわからなかった。
俺は何者でもないし、誰にとってもどうでもいい存在だ。
名前すらない、ゴミみたいな人生を歩いてきた。
なのにこいつは、まるで――
「俺の隣に座って、何かが変わるとでも思ってんのか?」
「ううん。変わらなくてもいいの。
でも……誰かの隣にいられる時間があるなら、
それだけで、人ってちょっとだけ救われると思うんだ」
……まただ。
その言葉。
その目。
その声色。
“どこかで聞いた気がする”。
でも思い出せない。
それが、どうしようもなく、怖い。
「……勝手にすりゃいい」
俺は目を逸らして、そう言った。
「ただし、余計なことは言うな。
“ありがとう”も、“よかった”も、感想文もいらねぇ。
ただ、黙って座ってろ。俺に対して何もするな」
「うん。わかった」
こいつは、うれしそうに笑った。
まるで、昔からずっとそうしてきたかのように。
……なんだよ、その顔。
なんで、そんなに安心した顔ができるんだよ。
「変なやつだな、お前……」
そう言った俺の声は、自分でも驚くほど、小さかった。
――――――――
数日後――。
俺は、また喫茶店に来ていた。
理由なんかない。
あるとすれば、“たまたまこの時間に、この道を歩いていた”ってだけ。
……本当かよ。
自分の内側で誰かが笑った気がした。
カウンター席に腰を下ろすと、
「今日も同じのでいい?」と、マスターの代わりに紬の声が返ってきた。
マスターどこいったんだよクソが。
「勝手にしろよ」
それだけ言って、目線は窓の外。
わざと、見ない。
こいつの顔も、目も、笑顔も。
「じゃあ、勝手にするね」
あっけらかんと返す声に、思わず苦笑いがこぼれそうになる。
……慣れてきたのが、少し怖い。
カップが置かれる音と同時に、
紬は隣の席に腰を下ろす。
言ったとおり、何も喋らなかった。
ただ、同じテーブルを挟んで、同じ時間を静かに共有するだけ。
不思議だった。
他人が隣にいるのに、息が詰まらなかった。
うるさくも、邪魔でも、重くもない。
むしろ――心が、少しだけ落ち着く感覚すらあった。
「なあ」
ふと、声をかける。
「うん?」
「お前、ほんとにさ……友達とかいねぇの?」
「……あ、気になるんだ」
「気になるっていうか、こんな性格でやってけんのかって話」
「そっか。そう見えるんだね、私って」
こいつは肩をすくめて、どこかからかうように笑った。
「いるよ、友達。一応ね。
でも、あんまり長く続かないんだ。“距離”の取り方が下手だから」
「は?」
「たぶんね、私って、必要以上に相手のことを知りたがっちゃうの」
「……ストーカー気質かよ」
「うん、自覚ある」
即答しやがった。
なんだこいつ。まじでタチ悪いな。
でも、嫌な感じはしなかった。
むしろ、妙に“正直すぎてズルい”。
「いつもは少し観察するだけで終わるんだけど、君には近づきたくなったんだ」
「理由は?」
「……内緒。今はまだ」
また、それか。
いつも、肝心なところでは濁す。
でも、それが腹立たしいほど、真実味を持って聞こえる。
「つーか、お前……その“君”って呼び方、やめろ」
「え?」
「他人行儀で気持ち悪い。いや、他人なんだけど、なんか違和感がある」
「あ、ご、ごめんね」
一瞬、声が落ちた。
「ごめん。でも、“君”って呼び方、
本当は私にとって、一番大切な人を呼ぶときの呼び方だったんだ…」
……その言葉で、鼓膜がピンと張る。
何かが、また“触れそう”になる。
なのに、名前は出てこない。
“あの名前”が。
俺が、思い出せないまま凍らせた記憶が――
「ま、どうでもいいけどな。今のも忘れろ。今まで通りでいい」
ごまかすようにコーヒーを飲んだ。
苦味が喉の奥に刺さる。けど、それでよかった。
紬は黙って笑っていた。
その横顔が、どうしてこんなにも胸に刺さるのか。
その答えだけが、今もずっとわからない。
店を出る頃には、日はすっかり傾いていた。
俺とこいつは、並んで歩いていた。
……あくまで、“たまたま帰り道が同じだった”ってだけだ。
ホントかよ。
「こっち?」
「……ああ」
短く返す。
別に、こいつのことを避ける気はなかった。
でも、向き合うのも、まだちょっと重い。
風が冷たい。
冬の匂いが、どこか懐かしい気がして、思わず目を細めた。
「ねえ」
こいつが、ポケットから何かを取り出した。
「これ……」
差し出されたのは、小さなカセットプレイヤーだった。
再生ボタンと、すり減った巻き戻しの文字。
手のひらサイズの古い機械。今時のガキが持ってるようなもんじゃない。
「……なんだよ、これ」
「懐かしいでしょ。今の子たち、もう知らないって言うけど……
私、こういうの好きなんだ。レトロで、温かみがあるから」
「あっそ」
手には取らなかったけど、目だけは離せなかった。
それが、“誰か”の部屋の机の上にあった気がして。
思い出せない。
でも、“知ってる気がする”。
「……なんで俺に見せんだよ」
「なんとなく。君、音楽とか、聴かないでしょ?」
「……聴かねぇな」
「でもね、それってたぶん――
音の中に思い出すものがあるから、かもしれないよ」
言われた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
まるで、俺の中を覗かれたみたいだった。
「……何が言いたいんだよ」
「なにも」
こいつは笑って、再びプレイヤーをポケットにしまった。
その動作が、妙に丁寧で、まるで“何かを封印する儀式”のようにも見えた。
「また聴かせてあげるよ、今度。私のお気に入り、ひとつだけあるんだ」
「勝手にしろよ」
言いながらも、胸の奥に小さな棘が刺さって抜けなかった。
音楽。カセット。あの声。
忘れたはずのものが、なぜか少しずつ輪郭を取り戻し始めている気がする。
けど、名前は出てこない。
顔も、声も、何もかもが“煙の中”。
こいつが“知ってる顔”をして笑えば笑うほど、
思い出せない自分が、ひどくみっともなくて、哀しかった。
「じゃあ、また」
家の角を曲がる前、紬がふと立ち止まって、笑った。
「今度、私の家にも来て。……ダメかな?」
「……なに言ってんだ、お前」
「ごめん、変なこと言った。でも、いつか」
そう言って、手を振った。
俺はなにも返さなかった。
でも、その背中を、なぜか最後まで見送ってしまった。
カセットプレイヤー。
“誰か”がくれた曲。
忘れたはずの記憶の奥に、確かに――そこにあった気がする。
翌日。
いつもの時間、いつもの喫茶店。
気づけば、足が勝手に向かっていた。
それがどういう意味を持つのか、わかっていても――止められなかった。
扉をくぐると、もう“こいつ”がいた。
カウンターの奥、マスターの代わりに笑う顔。
それが、やけに自然に見えた。
「来てくれて、ありがとう」
「別に来たくて来たわけじゃねぇよ」
「そっか。でも、うれしい」
当たり前のように隣に座るこいつに、もう文句も出なかった。
不思議と、それが“当たり前”に思えてしまう自分がいた。
しばらく無言の時間が流れたあと――
紬が、ポケットからあの“カセットプレイヤー”を取り出した。
「ねえ、今日はね。ちょっと、聴いてほしい曲があるの」
「は?」
「前に言ったでしょ。“お気に入り”の曲、ひとつだけあるって」
「……断ったら?」
「それでも、流すよ」
にこりと笑って、再生ボタンを押した。
……ほんと、勝手なやつだな。
でも、なぜかその時、鼓動がひとつ跳ねた。
ノイズ混じりの、古びた音。
そこから流れ出したのは――
優しいピアノの旋律だった。
シンプルで、少しだけ不器用な演奏。
それでも、あたたかくて、懐かしくて――
「……これ、なんだよ」
「昔……誰かが、私のために弾いてくれた曲。
まだ下手くそだったけど、すごくがんばってて、優しくて。
私、それを聴きながら、いつも泣いてたの。……すごく、幸せで、苦しかったから」
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
“誰かが弾いていた”。
“誰かが、隣にいてくれた”。
そんな情景が、突然、頭の奥に流れ込んでくる。
白い部屋。
古いアップライトピアノ。
小さな背中を守るように弾く、男の手――
「……―だろ」
その風景が、明確な記憶として浮かばない。
なのに、涙が出そうだった。
「……こんな曲、知らねぇ。けど、なんか……気持ち悪ぃくらい懐かしい」
「そうなんだ」
こいつは、静かに微笑んだ。
「じゃあ、たぶん――それは、君にとっても大事なものだったんだね」
思い出せない。
でも、忘れられない。
この矛盾に、心が引き裂かれそうになる。
「……お前、なにがしたいんだよ」
「……私ね、君が君でいてくれることが、ただうれしいの」
「……は?」
「でもそれと同時に、怖いんだ。
君が、ある日ふっといなくなる気がして。
ある日、何も言わずに消えて、二度と会えなくなる気がして」
その声は、震えていた。
「だから私は、君の隣にいたいの。……たとえ、名前を呼んでもらえなくても」
沈黙。
頭の中が、真っ白になった。
この空気が、重い。
この感情が、重い。
だけど――逃げられなかった。
「……お前、やっぱどっかおかしいよ」
そう言った俺の声も、ひどくかすれていた。
「……かもね。でも、それでもいい。君が笑ってくれるなら」
言葉を返せなかった。
なんで、こいつの言葉に――
こんなにも、心が揺れるんだ。
「じゃあ、またね」
こいつはそう言って、ふっと店を出た。
置いていかれたコーヒーの香りと、カセットの余韻だけが、席に残っていた。
俺は一人になったカウンターで、飲みかけのカップに目を落とす。
少し冷めてる。けど、どこかあたたかい。
……ふざけんなよ。
何が“またね”だ。
勝手に近づいて、勝手に音を流して、勝手に残っていきやがって。
心の奥が、妙に騒がしい。
あいつといると、俺の中の何かが常に揺れてる。
忘れたはずの過去。
壊したはずの記憶。
けど、時々――
無意識に“誰か”を探してしまう。
電車に乗ってる時、
横断歩道で立ち止まった時、
ふと見上げた空の向こうで。
名前も顔も思い出せない“誰か”が、
ずっと、俺の心のどこかで、泣いてる気がする。
「……くそ」
小さく吐き捨てて、立ち上がる。
カウンターに金を置いて出ると、
外はもう夜だった。
あのガキ――紬は、もう見えない。
どこへ行ったのかも、知らない。
……でも、探している自分がいた。
どこにいる? お前はどこで――
その時だった。
「……!」
裏通りの、コンビニの脇。
ビニール袋を抱えて立っていたこいつと、目が合った。
「……あ」
「……なんで、いんだよ」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
咎めるでもなく、問いただすでもなく。
ただ、素直に――“驚いた”だけだった。
こいつは小さく笑って、袋を持ち上げた。
「買い物。今日、冷蔵庫空っぽで」
「……そっか」
会話が、そこで切れる。
でも、沈黙は気まずくなかった。
むしろ、このままずっと立っていたくなるほどに、穏やかで。
「ねえ、少し歩かない?」
「……勝手にしろよ」
それが、俺なりの“いいよ”だった。
並んで歩く。
深夜の商店街は、まるで世界から切り取られたみたいに静かで。
「今日さ、君があの曲を聴いてくれたとき、
少しだけ泣きそうな顔してたよ」
「……してねぇよ」
「してた」
断言された。
嘘じゃなかった。こいつの目には、全部見透かされてた。
「私はね、泣いてる人を見るの、ずっと苦手だったの。
昔……私のすごく大事な人が、
毎晩、自分の部屋で声を殺して泣いてて。
私はただ、それを黙って聞いてることしかできなかった」
風が吹いた。
言葉が、凍りつく。
「……誰なんだよ、そいつ」
「……大切な人。……名前は、呼ばなかった」
心臓が、一瞬止まった気がした。
“呼ばなかった”じゃない。
“呼べなかった”――そう、聞こえた気がした。
「じゃあ、そいつはどうなった」
「……私の知らない場所に、行ってしまった。
でもね、私は信じてる。
もう一度、きっと……どこかで、会えるって」
その目が、まっすぐ俺を見ていた。
でも俺は、その視線から逃げるように目を逸らす。
「……寝言みてぇなこと言ってんなよ」
「うん。……ずっと、寝言だったのかもしれない」
それでも、こいつの声は優しかった。
まるで、それが本当に夢でもいいと、そう思ってるみたいだった。
歩道の街灯が、紬の横顔を照らす。
どこまでも静かで、
それでいて、悲しみが滲むような横顔だった。
「……帰れよ。冷えるぞ」
「うん。君もね」
それだけ言って、こいつは去っていった。
だけど、今度は俺、
その背中を、ずっと見送っていられなかった。
……見たら、きっと何かを思い出してしまいそうだったから。
夜の街を抜けて、自分のアパートの前に立つ。
無機質なドアノブに手をかけた瞬間、ふと振り返った。
何もない。
紬の姿も、声も、気配も。
なのに、心の奥に小さく残っていた。
あの目。あの声。あの“呼ばれなかった名前”。
「……なんなんだよ」
誰にでもなく、呟いた。
答えはない。
俺の記憶にも、心にも、なにも――
“その名前”は存在していない。
けれど。
眠れない夜だった。
ベッドの中、暗い天井を見上げるたび、
何かが足りない感覚に襲われる。
俺の中には、大切だったはずの何かが抜け落ちてる。
どうしても、思い出せない。
音楽も、手の温もりも、
泣き声も、誰かの笑顔も。
全部、どこかで“断ち切られた”みたいに、途切れている。
……でも、いいんだ。
忘れたままでも、生きていける。
そう、思ってた。
翌朝。
玄関のポストに、小さな封筒が入っていた。
差出人の名前は、なかった。
でも、俺は見覚えがあった。
あの喫茶店で、紬がよく使っていた便箋。
触れた瞬間、胸がざわついた。
開けると、中には一枚の写真。
俺と――紬。
二人で並んで、笑っていた。
見たこともない写真。でも、確かにそこには“何か”が写っていた。
写真の裏に、こう書かれていた。
【これは―――もなけれ―、過――もない。
ただ願――だけの、あり得なかっ―――です】
意味がわからなかった。
文章をところどころがかすれて見えない。
その文の下にも、さらにこう続いていた。
【私は、―――とを―――い。
だから、君――を―れても、――ない。
……また会えるその日まで。
まふゆより】
その文字を見た瞬間、心臓が跳ねた。
――まふゆ。
どこかで聞いた。
いや、違う。“どこかで呼んだ名前”だった。
なのに、顔が思い出せない。
声も、髪の色も、何ひとつ浮かんでこない。
まふゆ。
まふゆ。
……誰だよ、それは。
なのに、涙が止まらなかった。
何を失ったのかもわからないのに、
どうして、こんなに苦しい。
俺の中に“まふゆ”は存在しない。
でも、“まふゆ”は確かに、俺を愛していたと何故か確信している。
それを俺は、思い出せないまま、
平然と朝を迎えてしまった。
カレンダーを見た。
――2月14日。
あと、13日。
“予定”の、あの日まで。
ちなみに喫茶店のオーナーは普通にヒロインをバイトとして雇ってそのまま家族旅行中です。
でも帰ってきません。死んでないよ?




