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プロローグ:すべての始まり

間違えて短編で投稿してたことに起きて気付いたお馬鹿さんです。


初投稿(笑)です。


 風が冷たい。春だってのに、肌に刺さる。


 コンクリの上に座り込んで、空っぽのペットボトルを転がしてる。

 手持ち無沙汰を装ってるけど、やることなんて最初からない。

 やりたいことなんて、もっとない。


 今日は“予定日”だ。

 誰にも知られず、誰にも迷惑かけず、きれいに終わるだけの一日。

 ”本来より”ちょっと早めだが、限界が来た。


「……うるせぇな、鳥どもが」


 遠くで鳴く声にすら苛立つ自分が、なんか滑稽で笑える。

 別に怒ってるわけじゃねぇ。ただ、鬱陶しいだけだ。

 誰も俺の気持ちなんてわかるわけがない。

 いや、そもそもわかってほしいとも思ってない。


 この駅は、もう使われてねぇ。

 いわゆる廃駅。

 人も来ない、音もない、終わった場所だ。

 俺にはちょうどいい。


「……終わるには、な」


 どこで間違えたんだっけな。

 いや、最初から何もなかったか。

 家は地獄だった。誰も助けてくれなかった。

 先生? 笑わせんな。クラスメイト? 人の形した嘲笑の集まり。


 でも――ただ一人。


 たった一人だけ、俺を︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎って呼んで、

 震えながらも、俺の前に立ち続けてくれた奴がいた。


 ……いた、気がする。


「……くそ」


 思い出す必要なんてねぇのに。

 いや、壊れてるから無理か。

 今は何も分からない。

 あの日、何かが俺の中で音を立てて壊れた。


 あれから、俺は名前を捨てた。

 誰に呼ばれることもない、それでいいと思った。

 もう誰も信じねぇ。もう何も望まねぇ。

 “それだけ”だったのに――


「……誰だよ」


 視線の先、廃駅の端っこ。

 ベンチの影に、誰か立ってる。

 白い服の小柄な影。

 こっちを見て……いや、見てた気がした。


 次の瞬間、その足がこっちに向かってきた。


 冗談だろ。

 こんな場所に、こんな時間に、誰が――


「近づくなよ。……マジで、今だけは来るな」


 俺の時間を、邪魔するな。

 しないで、くれ。


 足音が近づいてくる。

 廃駅のコンクリの上に響く、軽くて、やけに場違いな音。


「ねぇ……ここで、何してるの?」


 声がした。

 軽い、けど無理に明るくしてる感じ。

 耳障りってほどでもねぇが、今の俺には、もう十分うるさい。


「……帰れ。ガキが来る場所じゃねぇ」


 吐き捨てるように言った。

 それでも、ソイツは立ち止まらなかった。

 俺の真横、距離にして1メートル。

 俺を覗き込むように、首を傾けた。


「ねえ、死ぬつもりだったの?」


「……っ!」


 一瞬、心臓が跳ねた。

 まるで見透かされたみたいで、反射的に睨みつける。


「てめぇ……何様のつもりだよ」


 睨んだ目の先で、少女はにこっと笑った。

 悪意も同情もない、ただの“笑顔”。

 それが余計に、腹が立った。


「他人の事情に首突っ込んで、何かいいことでもあんのか? ヒーローにでもなった気か?」


「ううん、そんなのじゃないよ。ただ――」


 少女の瞳が、まっすぐ俺を見据えてくる。

 逃げ場なんかない。空気が少しだけ張り詰める。


「君が消えたら、きっと悲しむ人がいると思っただけ」


 その瞬間、胸がざらりと波打った。


 悲しむ人?


 そんなもん、いるわけがない。

 もし、いたとして――


「……バカかよ、お前。そんな奴、最初からどこにもいねぇよ」


 笑い飛ばした。そうするしかなかった。


「俺が死のうが生きようが、誰も困らねぇ。喜ぶ奴はいても、悲しむ奴なんて――」


 いねぇよ。

 ……もう、どこにも。


「そう……なのかな」


 彼女は目を伏せ、寂しそうに笑った。

 俺はその顔が、どうしようもなく気に入らなかった。


 他人の顔色なんて興味ねぇはずなのに、なんでだよ。

 なんでこんなガキに、俺の世界を踏み込まれてんだ。


「なあ、お願いだから」


 もう一度、あの声が俺に届く。


「死ぬの、やめてくれないかな」


 まるで祈るみたいな声だった。


 俺は……そのまま立ち上がろうとして――


「帰れって言ってんだろ、クソガキ!」


 怒鳴った。

 自分でも驚くほど、声が出ていた。


 彼女は何も言わなかった。

 ただ、じっとこちらを見ていた。


 その目は、泣きそうで――


 なのに、どこかで──



 沈黙が落ちた。

 まるでこの駅の空気そのものが、俺の声に凍りついたみてぇだった。


「……そっか」


 少女はただ、それだけを言った。

 やけに静かな声だった。小さな声だったのに、耳の奥でずっと反響している。


 ふざけんな。

 どうして、他人にそんな顔をさせなきゃなんねぇんだよ。

 どうして俺が、後ろめたくなってんだ。

 俺はただ、ここで静かに終わるだけ。それが、迷惑か?


「なあ」


 気づけば、俺の口が勝手に動いていた。


「お前、なんで俺に話しかけた?」


 少女は黙っていた。

 俺はもう一歩、踏み込むように言葉を吐いた。


「ただの気まぐれか? それとも、俺のこと知ってる気にでもなったか?」


「……知ってるよ」


 一瞬、風が止まったような気がした。


「君が、きっと誰よりも寂しかったこと。

 ずっと、誰にも助けを求めなかったこと。

 そして、最後の瞬間に……誰にも手を伸ばしてもらえなかったことも」


 心臓を指で突かれたみたいだった。

 思わず、息が詰まる。


 なんだそれ。なんで、そんなこと――


「ふざけんなよ……!」


 叫びにも似た声が出た。

 少女の肩が小さく跳ねた。でも俺は止めなかった。


「何が“知ってる”だよ。お前が何を知ってるってんだ。

 誰にも助けられなかった? そりゃそうだよ。助けなんて、最初からなかったんだよ」


 拳を握る。声が震える。

 頭じゃ理解してる。

 これは“怒り”なんかじゃない。“怯え”だ。


 触れられたくなかった。

 蓋をして、鍵をかけて、絶対に開けないようにした箱に、

 このガキはあっさりと手をかけてきた。


「お前みたいな奴に、何がわかる……」


 自分でも驚くほど、声が小さくなっていた。


 そのとき――

 少女がそっと、手を伸ばしてきた。


「……触んな」


 反射的に手を振り払った。

 強くはなかったはずなのに、少女はバランスを崩して、地面に膝をついた。


 風が吹き抜ける。

 その髪が、陽の光にわずかに揺れた。


「……ごめんね。無理に近づいて、ごめん」


 謝る必要なんかないのに、少女はそう言った。

 なのに、俺の心はさらにざわついた。


 おかしい。

 なんで、こんな見ず知らずのガキに――

 なんで、こんなにも“嫌な予感”がするんだ。


 思い出せない。

 何を思い出したいのかもわからないのに、

 脳の奥で、何かが――警鐘を鳴らしていた。


 しゃがみ込んだままの少女が、ふと顔を上げた。

 目が合う。

 その瞳は、泣いてもいない、怒ってもいない。

 ただ――傷ついていた。


 わかるわけがない。

 ああいう目は、見たことがある。

 鏡の中で、何度も何度も見てきた。


「……ガキのくせに、そんな目すんなよ。気色悪い」


 自分でもわかってる。

 ただの言いがかりだ。八つ当たりだ。

 でも言わずにはいられなかった。


 このままじゃ、崩れそうだった。

 守ってきた“終わらせるための静けさ”が、こいつに壊される。


「私は……ただ、あなたに生きててほしいって思っただけ」


 その言葉に、頭の中が真っ白になる。

 コイツは初めて会った俺に何を言ってやがるんだ。


「知らねぇガキにそんなこと言われて、どうしろってんだよ」


「知らないなんて、言わないで」


 少女の声が少しだけ強くなった。

 いつかの記憶みたいに、胸に直接響く。


「私は……あなたのこと、知ってる。全部じゃないけど……

 でも、ひとりで泣いてたことも、誰にも言えずに傷ついてきたことも……わかるの」


「ふざけんなよ……!」


 立ち上がって、叫んだ。

 声が反響して、駅の天井に消えていく。


「お前に何がわかる! 俺の過去も、苦しみも、誰が死んで、誰が壊れたかも……何一つわかんねぇくせに、知ったような口きくんじゃねぇよ!」


 少女はただ、じっと見ていた。

 まるで、その言葉すら許しているみたいに。


 ……それが、堪えた。


「ああ、そうかよ。俺が死ぬってのが気に食わねぇのか?

 感動ポルノにでもして、自分に酔いたいんだろ。

 “誰かを救った”って悦に浸って、気持ちよくなりたいだけだろ。なんだよ、今のガキは大人をんな感じで見てんのか?」


「違うよ!」


 少女が声を張った。

 ……初めてだった。

 コイツが、俺に対して怒気を含ませたのは。


「…私は、ね、誰かの“生きる理由”になりたかったの。

 ……自分の存在が、誰かにとって意味のあるものだって、そう思えたかったの」


 その声に、俺はなぜか、動けなくなった。


 知らない言葉じゃなかった。

 どこかで、誰かが――


 違う。やめろ。

 思い出すな。

 そんな記憶、俺の中にはない。


「だったら、他を当たれよ……」


 かろうじて絞り出した声は、いつもよりずっと弱々しかった。


「俺はもう、終わるって決めたんだ。

 誰かの希望になんて、もう……なれねぇんだよ」


 少女は黙っていた。

 ただその手が、まだ震えていた。


 俺の知らないはずの言葉に、なぜか涙が滲みそうになる。


 “生きる理由”――か。


 ……そんなもん、とっくに壊れたはずだ。はずなんだよクソが。





 ───────────




 ……しつこい。


 何分経ったのかもわからないまま、あの少女は、俺の近くにいた。


 立ち上がるでもなく、帰るでもなく。

 何をするわけでもなく、ただ、俺の少し離れた横に座っていた。


 なんだコイツ。いや、まじでなんだ。


「……なに、座ってんだよ」


 俺が刺すように言っても、返ってくるのは緩やかな声だった。


「……ちょっと、休憩。疲れちゃったから」


 冗談だろ。

 お前みたいなガキが、“死にに来た男の横で休憩”って。


 なんだよそれ。

 本気か? 馬鹿なのか?

 わからない。こいつの言動は、全部が計算外だ。


 でも、帰らない。

 拒絶されても、怒鳴られても、こいつはずっとここにいる。


 ……鬱陶しいはずだった。

 でもなぜか、空気が変わったような気がして


 ――俺は、妙に落ち着かない。


「ねえ」


 少女が不意に、言葉を落とした。

 風が止んだみたいに、声だけが空間に残る。


「何があったの?」


 質問は、あまりにも真っ直ぐで、優しかった。


 ……そんなの、答える義理はない。

 こっちは初めから話す気なんかないし、お前に俺の何がわかるってんだ。


「忘れた」


 短く吐き捨てる。


「全部、思い出す価値もない。

 誰がいたかも、どんな顔してたかも……どうでもいいんだよ」


 そう言いながら、心の奥が軋んだ気がした。

 嘘じゃない。

 でも――本当でも、なかった。


 誰かがいたはずだった。

 俺の傍に立って、泣きながら叫んでいた声が、確かにあった。


 でも、その顔が思い出せない。

 記憶の中から、まるごと削ぎ落とされたみたいに。


 怖いのは、思い出せないことじゃない。

 それを「どうでもいい」と言える自分が、今ここにいることだった。


「そっか……」


 少女はそれ以上、何も聞かなかった。

 慰めもしない。説得もしない。


 ただ、隣にいた。


 その沈黙が、余計に響いた。

 いつの間にか、心の中に置いてきた棘が、疼き出していた。


「……どうして、そんなに俺に構う?」


 吐き出すように問う。

 少女は小さく笑って言った。


「だって、あなたが……一人で泣いてる気がしたから」


 一瞬、呼吸が止まりかけた。


「……泣いてねぇよ」


「うん。でも、泣きたいって顔してる」


 違う。違うんだ。


 なのに、その言葉に心が縋りかけた。

 あたたかくて、優しくて、なぜか――懐かしかった。


 思い出せない。

 それでも、なにかが、確かに揺れた。


「……バカみてぇだな。お前も、俺も」


 それだけ言って、目を閉じた。


 風の音が止んだ気がした。

 沈黙の中で、俺はただ目を閉じていた。

 何も見えない。けど、感じていた。


 隣に、まだあいつがいるってことを。


 ……居心地が悪かった。


 誰かが隣にいるって、それだけのことで、こんなにも落ち着かなくなるなんて。

 俺はもうとっくに“誰かといる”って感覚を捨てたはずだったのに。


「……あんたさ」


 目を閉じたまま、ぽつりと声を出す。


「俺のこと、どう思ってんだよ」


「……うーん」


 少女は少しだけ悩んだあと、ふわりとした声で言った。


「かわいそう、かな」


 ――チッ。


 俺は思わず舌打ちした。


「やっぱり哀れんでんじゃねぇか。

 他人の不幸で自分の優しさ確認するやつ、マジでタチ悪いな」


「違うよ」


 間髪入れずに返ってきた。


「“かわいそう”って、すごく勝手な言葉なんだよ。

 だから、私がそう思ったって、あなたには何の責任もないの」


 なんだそれ。

 屁理屈か? 優しさのフリか?

 でも……不思議だった。


 その言葉には、どこにも“上からの目線”がなかった。


「……お前さ」


「あのさ」


 俺が何かを言おうとした瞬間、少女が言葉を被せてきた。


「もし、“いなくなりたい”って思ったとき、

 本当は誰かに“止めてほしかった”って気持ちは、なかった?」


 その言葉に、息が詰まった。


 何も言えなかった。

 できるなら、何も聞かなかったことにしたかった。


 でも、耳ははっきりと聞いていた。

 胸の奥が、また軋んだ。


 “止めてほしかった”。


 そんなはず、ない。

 ――いや、ないと思ってた。


 でも、どこかにいた気がするんだ。

 あのとき、手を伸ばして――


「……やめろ」


 静かに言った。

 声が震えていた。


「これ以上、踏み込むな。俺のこと、探るな。

 お前が俺に何をしても、何も変わんねぇよ」


「うん、知ってるよ」


 少女は、変わらず優しい声で言った。


「でも、それでもいい。

 あなたが、誰にも気づかれずに消えるなんて、

 私は……嫌だから」


 その言葉に、胸の奥で何かがぶつかった。


 俺のことなんか、誰も覚えてなくていい。

 でも――

 こいつだけは、最初から“何か”を知っているような目で俺を見ていた。


 名前も、過去も捨てたはずだった。

 なのに、こいつの言葉はなぜか、

 “捨てきれなかったもの”に触れてくる。


 わからない。わかりたくもない。


 それでも、胸の奥で何かが静かに疼いている。


 ふざけるな。こんな気持ちはとっくの昔に捨てたんだ。


 “嫌だから”――あいつはそう言った。


 理由になってねぇ。

 理屈にもなってねぇ。

 けど、なんだよ……その言葉は。


 あまりにも幼くて、無力で、でもあたたかかった。


 俺は、こうしてここにいること自体が間違いだと信じてた。

 生きていたことが、そもそも失敗だったんだと。

 何かを望むたびに裏切られて、何かを守ろうとすれば、壊された。


「お前さ」


 声が自然と口からこぼれた。

 気づけば、俺は少女のほうを見ていた。


「……なんで俺のこと、見てんだよ」


「うーん……なんでだろうね」


 曖昧な答え。だけど、その表情はまっすぐだった。


「でも、たぶん……ずっと、見てきたから」


「は?」


「……ごめん、変なこと言ったね」


 少女は、笑った。

 でもそれは、どこか切なさを含んだ、壊れそうな笑顔だった。


 ああ、まただ。

 またこの感覚。

 “知ってる気がする”のに、“何も思い出せない”。


 ――記憶の中に、ぽっかりと空いた穴。


 埋めたいわけじゃない。

 知りたいわけでもない。


 けど、その穴に、この少女の言葉がすっぽりとはまるたび、

 どうしようもなく胸が痛んだ。


「それでも……」


 少女がぽつりと呟いた。


「もし、私があなたの隣にいることで、

 ほんの少しでも、心が軽くなるなら――私は、それでいいの」


 ……あぁ、ダメだ。

 こいつは、本気だ。


 他人の痛みを、自分のことみたいに抱えて。

 それでも「それでいい」とか、簡単に言ってしまえる。


「……だからお前は甘いんだよ」


 俺の言葉に、少女は目を見開く。


「そんな風に他人の痛みを背負って、生きられるわけねぇだろ。

 どうせいつか、自分が壊れるだけだ」


「……それでもいいの」


 即答だった。

 一切の迷いもなく、まるで覚悟を決めたような声だった。


「たとえ、壊れてもいい。

 私が……誰かの生きる理由になれるなら、それだけで」


 まるで、誰かへの――いや、“過去の自分への贖い”でも語っているようだった。


「意味があったって、そう思えるから」


 “意味”。


 その言葉が、刺さった。

 俺の人生に、それがあったとしたら――


 ……いや、ない。

 そんなものは、とっくに手放した。


 でも。


 どうしてだろう。

 こいつが“意味”を口にするたびに、

 あの、思い出せない誰かの声が、脳の奥で反響する。


 ○○○○○――


 誰だ。

 誰なんだ、その声は。


 俺は、叫び出したい衝動を喉の奥に押し込んだ。


 何も見たくなかった。

 今のこいつの顔も、涙も、俺の中で揺れる何かも。


 ただ一つ、確かだった。


 “まだ終われない”。


「……勝手にしろよ」


 その言葉を吐いた瞬間、どこか遠くで、何かが軋む音がした気がした。

 空耳かもしれない。

 けど、確かに俺の中でも、何かが軋んでいた。


 あの子は、それ以上なにも言わなかった。

 ただ、俺の隣に座ったまま、静かに目を閉じていた。


 沈黙は、もう重たくなかった。

 むしろ、心地よいくらいに落ち着いていた。


 その空気に、逆に苛立った。

 “慣れてしまいそうな自分”が、怖かった。


 ずっと、独りでいたはずだったのに。


「なあ……」


 口が勝手に動いてた。

 思考が追いつく前に、声が漏れた。


「お前、名前は?」


 少女は目を開け、少し驚いたように俺を見た。

 そして、静かに笑った。


「水瀬、みなせ つむぎ


 一拍の間。

 その名に、心が何かに触れかけた気がした。


 でも、わからなかった。

 記憶の底には、白い靄がかかっていた。


「ふぅん……変な名前」


「うん。よく言われる」


 ふっと、肩の力が抜けた。

 こいつのこういう返し、なんか……ずるい。


「じゃあ……あなたは?」


「……」


 俺は、答えなかった。

 答えられなかった。


 俺には、名前なんか、もうないから。


「……忘れた。昔の話だ」


「そう」


 紬は、それ以上なにも聞かなかった。


 責めもしない、哀れみもしない。

 ただ、隣にいる。

 それだけが、どれだけ珍しく、どれだけ心に染みることか。


「なあ、紬」


 自分の口からその名前が出たことに、自分で驚いた。


「お前ってさ……馬鹿なんじゃねぇの」


「え?」


「こんな廃駅で、死のうとしてた知らねぇ男に声かけて、怒鳴られて、突き飛ばされて、

 それでも平気な顔して、隣に座って……ほんと、頭おかしいよ、お前」


「そっか」


 紬は、笑った。

 柔らかくて、あたたかくて、

 どこか懐かしい気がした。


「でも、────もきっと、そう言ってたと思う」


「……は?」


「なんでもない」


 少女は、静かに立ち上がった。


「帰る?」


 その言葉に、喉の奥が詰まった。


 “帰る”場所なんか、俺にはもう――


 ……でも、気づけば口が動いていた。


「……もうちょっとだけ、ここにいようぜ」


「……うん!」


 んだよその嬉しそうな返事のしかた。

 意味わかんね。


 だが、その返事だけで、心の奥に波紋が広がっていった感覚がある。


 風が吹いた。

 どこか遠くで、電車の音が聞こえたような気がした。

 もう廃線になってるはずなのに。

 幻聴かもしれない。でも、それでもいい。


 今日、俺は――

 “予定”をやめた。


 たったそれだけのことなのに、世界の色が少しだけ変わった気がした。


 それが、すべての始まりだった。

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