豚肉の仙人
仙人さん、今日は来ないな。俺は少しばかり気をもんだ。
今日は売れ行きがいい。板の上の豚肉は二塊くらいしか残ってない。
黄州の市場を行き交う人、人、人。ここはどうしようもない田舎だが、それでも朝は市場に人が多い。歳も背格好もばらばらな群れを探しても、今日に限ってはあの人はいない。
ちらちら目玉を巡らせていると、不意に声を掛けられた。
「おい坊主。こいつぁいくらだ?」
あわてて向き直ると、頬にふっくら肉のついたおっさんが、板の上の肩肉を指さしている。袖なしの背心からは太い腕が生えていて、触ると固そうだ。怒らせない方がよさそうな奴だ。
「はいはい、三十銭ですよ」
「高ぇなおい」
おっさんが見る間に不機嫌になる。
「豚に三十は出せねぇなあ。せめて二十五になんねえのか」
あーこいつもか。ここの市場は面倒な連中ばっかりだ。相手がガキと見るや露骨に値切ってくる。
「そうはいっても旦那、俺も病気の親を養わねばなりません。『孝』は人の道の基本ですよね?」
思い付きたての嘘八百を並べ立てながら、俺は心中溜息をつく。
仙人さんならこんなことないのに。毎回言い値で買ってくれる、ありがたすぎる上得意客だ。
「仙人さん」は、もちろん本名じゃない。多分本物の仙人でもない。だが、俺は勝手にあの人を仙人さんということにしている。見た目はだいたい五十歳くらい。頭に白髪が混じり始めた、十人並よりはほんの少し小柄の男だ。姿形にこれといった特徴はない。
けど、なんつうか、雰囲気が全然違う。
着ている背子や帯は質素なんだが、ぴんと伸びた背筋や堂々とした歩き方が、その辺の地主や小金持ちとは比べ物にならない綺麗さだ。それでいて威圧感は全然なくて、あの人と一言でも話した後は、火鉢にあたったように心があったまる。
そう、目の前のおっちゃんとはまるで真逆だ。
「だからって、ぼったくっていいことにはならんぞ。二十銭だ、それ以上は出せん」
「なら他の奴から買ってくださいよ。こいつは三十銭、びた一文まかりませんよ」
おっさんが目を細めて、手をぽきぽき鳴らし始めた。
「てめぇ大人をなんだと――」
そこで、おっさんの声は不意に途切れた。
おっさんの隣に人が立っている。軽く片手をあげて、おっさんを制している。
「孝子を責めるのは、はたして君子の行いですかな?」
ゆったりした静かな声だ。白髪交じりの頭に、見覚えのある背子と帯。
おっさんは黙り込んだ。行き交う人の話し声が、いやにはっきり耳に届く。
「……すみませんでした!」
拱手して一礼し、おっさんは人混みに消えていく。情けなく丸まった背中を、来たばかりの人――仙人さんは、目を細めて見送っていた。
「ありがとうございました!」
俺も、拱手して仙人さんに頭を下げた。仙人さんは黙って、板の上の豚肉ふたつを見ている。
「今ある分はこれで全部かな」
「ああ、はい。今日はよく売れてまして」
顔を上げると、少し残念そうな仙人さんと目が合った。
やっぱり、この人は不思議な人だ。
姿勢や歩き方が堂々としてるのもすごいけど、それだけなら都会――東京開封府あたりなら珍しくなさそうだ。けど仙人さんはそれ以上になんというか……仙人だ。
茶色の目は、どこか遠くを見ているようだ。
海内を超え、雲の向こうを通り抜け――はるか神仙の世界さえ仰ぎ見ているようだ。
だからこそ俺はこの人を「仙人さん」呼ばわりしているのだけど。
「ならあるだけもらおう。このふたつ、いくらかな」
「肩肉は三十銭、バラ肉は二十五銭。両方なら五十銭でいいですよ」
「ありがたいな。恥ずかしい話だが、お金があまりないんだ」
紐でまとめた銅銭を貰い、藁で包んだ肉を渡す。その時ふと俺は気がついた。
仙人さんの爪の間に、黒い土が挟まっている。畑仕事でもしていたんだろうか。そういえば仙人さんの手は、最近少し固くなってきた。初めて会った頃は白くて滑らかで、地主か役人かと思ったけれど。
そういえば、仙人さんはどこで何をしている人なんだろう。
雰囲気だけなら官職持ちでも驚かない。けど黄州は田舎も田舎、中華でも辺境の地、お偉いさんが来るわけがない。なにより自分で言ってたじゃないか、お金がないって。そもそも金のある連中は、固くて臭みのある豚肉など買わない。金持ちが食べるのは羊肉だけだ。
仙人さんはいったい何者なのか。
「あの。手持ちはないんですが、家に戻ったら多分まだ肉ありますよ。よかったら家までお届けしますが」
俺が言うと、仙人さんは藁包みを抱えながら軽く目を見開いた。
「それは助かる。なら、これと同じくらいのをあと二つ頼んでもいいかな」
少しばかり皺のよった顔を、仙人さんはくしゃりと崩して笑った。
「どちらまでお届けすればいいです? ……あと、なんてお呼びすれば」
ああ、と小さく声をあげた後、仙人さんは答えてくれた。
「臨皐亭は知っているかな」
長江すぐそばのあそこか。俺が頷くと、仙人さんは小さく頷き返してくれる。
「私はあそこに住んでいる。そして名前だが……東坡居士、と呼んでくれればいい」
「東坡ですか。変わった姓ですね」
「ああ、これは号だよ。町はずれの東坡(東向きの斜面)に畑を持っていてね、朝のうちはそこを耕していた」
「……お金、あるんですね」
「畑は借り物だよ」
はは、と仙人さん――いや、東坡居士先生は軽く笑った。
「私は臨皐亭に戻るよ。肉は早めに持ってきてくれると嬉しい」
言い残して、先生は人混みの中へ消えた。
急いで家に戻ると、小屋から響く豚の合唱が出迎えてくれた。家に入れば、てらてら光る塊バラ肉がちょうど二つ吊ってある。媽媽に断りを入れ、両方を下ろす。
「どうしたんだい」
「お得意さんの注文」
売上の銭袋を媽媽の手に押し付けて、肉を丁寧に藁で包んで、俺は家を飛び出した。
記憶を頼りに臨皐亭へやってくると、ちょうど東坡居士先生が出てくるところだった。先生は拱手してお辞儀をすると、俺を建物の中へ案内してくれた。
臨皐亭は長江のほとりの建物だ。どこかの寺の持ち物だったと思うが、よくは知らない。僧房ほど大きくはないけれど、十数人程度なら十分暮らせるほどの大きさはある。実際、建物の中には何人かの気配があった。青い瓦で葺かれた屋根が、黄砂で濁った空よりも青かった。
通された部屋は厨だった。案の上に、売った豚肉が包みを解かれて並んでいた。俺は、持ってきた肉を隣に下ろした。
「バラ肉ふたつ五十銭です」
先生は返事をしない。代わりに竈の火を入れた。上には水の入った大鍋が乗っている。
「あの、五十銭です」
俺は急に不安になってきた。先生はお金がないらしい。踏み倒されたらどうしようか。
「君、少し時間はあるかな」
ようやく先生が、俺に背を向けたまま声を出した。
「それよりあの、五十銭……」
「もしよければ、味見をしてもらえないだろうか」
赤が灯った竈に薪を放り込みつつ、先生は言った。
「古い友人が来るのでね、手料理でもてなそうと思っているのだが。美味くできたかみてほしい」
俺は耳を疑った。
「え? でもこれ豚肉ですよ?」
豚肉は安物だ。高くてせいぜい数十銭。しかも固くて臭みがきつい。そんなものを出されて嬉しいのは、食うにも困っている貧民くらいだろう。平民でも、おもてなしの膳には柔らかい羊肉を出すはずだ。
反応に困っていると、先生は俺を振り返り得意げに笑った。
「まあ、見ているといい」
先生は豚肉の塊たちを水に沈めた。しばらくして湯が煮えると、一気に竈の火を小さくする。
「そんな火じゃ生煮えになりますよ」
「これで、いいんだよ」
鍋を覗くと、煙の色の湯の中で、白い細かなかすが踊っている。先生はそれをすくい取りながら、時折水を足していた。
しばらくしてかすが出なくなると、先生は鍋に大きな蓋を乗せて、俺の方を振り向いた。
「君は、豚肉は美味しくないと思っているかな」
「え」
急に訊かれて、答えに詰まる。
俺は豚肉売りだ。自分の売り物を悪く言うなんて、できればしたくない。でも――
口ごもる俺の前で、先生は急に、歌うように言葉を吟じ始めた。
黄州好猪肉 黄州の豚肉はいいものだ
價賤等糞土 値段は安くて土くれ並
富者不肯喫 だが金持ちは食べようとせず
貧者不解煮 貧乏人は煮ることを知らない
慢著火 少著水 さあ火にかけよう 水は少しでいい
火候足時他自美 ほどよく煮えればもう美味しい
毎日起来打一碗 毎日起きたら必ず一椀
飽得自家君莫管 誰にも何も言わせはしないさ
あっけにとられて、俺は先生を見た。
すごい詩だった。平仄も韻も整っていて、音がきれいで、それでいて言葉が活きて弾けている。でも中身は豚肉。
詩ってもっと、歴史とか季節の花々とか……立派で風流なものを詠むはずじゃないんだろうか。
「数日前に詠んだ、豚肉の詩だよ」
こともなげに先生は言う。
「豚肉で詩、ですか……」
「この間はなずなも詠んだよ」
なずなって、あの畑に生えてくるぺんぺん草……?
「黄州の豚肉は最高だよ。なずなも、若芽を湯がくと歯ごたえと甘味が出る」
先生は鍋の蓋を開けて、白いかすを少しすくい取った。漏れ出た湯気に混じって、香ばしい肉の匂いが一気に広がる。
そう、肉の匂い。夕飯時にはあちこちの家から漂ってくる、よく知っている匂い。
でも、はじめて嗅ぐ匂いだった。
湯気に混ざった肉の匂いは、濃いけれどとてもまろやかで、つんと鼻を刺す焼肉の匂いとは全然違っていた。まるで、旨味が湯気に溶け出てきたみたいだ。
思わずお腹が鳴る。先生は小さく笑った。
「焦ってはだめだぞ。最低でも五刻くらいは煮込むんだ」
えぇ、と叫ぶ俺の背を、先生の手が強く叩く。
「腹が空けば空くほど、料理は美味しくなるぞ」
永劫に続くように思えた煮込みが、終わった。
俺の前に、染み一つない白磁の皿がある。上に、切り分けられた豚肉がひとかけら乗っている。
「食べてみるといい」
おそるおそる箸でつまみ、口に運ぶ。……いや、味に不安はない。逆に美味しすぎたらどうしよう、と、空きっ腹を抱えつつ俺はおびえていた。
だが。
この豚肉の味は、俺の恐れを超えていた。
実のところ、ちゃんと味わえたわけじゃない。口に入れた肉は、あっというまにほどけてなくなってしまった。肉がある、と思った瞬間ほろりと崩れて、後味だけを残して消えた。
だのに、後味がありえないくらいに濃い。
湯気に漂っていた肉の旨味が、花が咲くように口いっぱいに広がって離れてくれない。いや、離れてほしいわけじゃないんだけど。なんだこれ。
あっけにとられて先生の方を向くと、満面の笑みが俺を見ていた。美味しかったかい、と無言で訊ねながら。
「おいしかったです、信じられないくらい!」
先生は満足そうに頷いた。
「これは、私たちだけの美味だ」
先生は、どこか遠くを見つめながら笑った。いつもの、仙人のような目だった。
「東京開封府には数千の酒楼があり、百万の民がいるが、誰もこの美味を知らない。豚肉の旨味も、なずなの甘味も……この、無窮なる天地の恵みを」
言う先生の姿が、俺はそのとき、たしかに神仙に見えた。
俺は、夢見心地のまま家に戻った。先生は、豚肉の煮込み方を他人に教えてもいいと言った。天地の恵みは無限なのだから、と。
媽媽に話をすると、媽媽は飛び上がって驚いた。
「臨皐亭に住んでいらっしゃるの、あんた、どなただか知らないのかい」
媽媽の話によると、あそこに住んでいるのは、都から追放されてきたとても偉いお役人様なのだという。文章も絵も書もできる天才だけど、政治批判の詩を書いた罪で、この黄州に流されてきたのだと。
うろたえる媽媽を見ながら、俺は先生の言葉を思い出していた。
「これは、私たちだけの美味だ」
先生は都の連中を恨んでいたんだろうか。恨んでいたから、見下そうとしたんだろうか。
でも俺には、どうしてもそうは思えなかった。
仙人のような目が見つめていたのは、もっと遠いどこかだったように思う。
ひとしきり媽媽のお小言が終わったところで、俺は切り出した。
「豚肉、ひとかたまり貸してくれないか」
わかってる。これは、銭に換えるための大事な商売道具だ。
だが、それでも。先生に貰ったものを、俺はどうしても誰かに分けたかった。
豚肉は美味い。
俺たちは、もっと胸を張っていい。
黄州は田舎かもしれない。けれど豚肉は美味しい。俺たちは美味いものを作っている。
しぶしぶ渡された豚バラ肉を大鍋に入れ、水を注いで竈に乗せる。
「さあ火にかけよう 水は少しでいい……」
歌いながら俺は、竈に火を入れた。
【了】