壁の向こう(1)
分子レベルの糸を伸ばして壁に接続する。外側にいる小型有機生命体の光感覚器では認識困難であると確認していた。
壁の振動から、その生命体は気体振動によるコミュニケーションを行っていると理解している。内容の理解も進んできていた。
「観測プローブを交換したのかね?」
「一部の物にまた浸潤が見られましたので交換しました。反射なのでしょうか、驚異的な生命反応です。脳髄を二つとも破壊されているのに、まだ増殖本能を示しています」
「本体が生きている以上、大脳の再生もあり得るとの情報もある。引き続き再生に必要なエネルギー供給は最低限にしなさい」
「はい、スロダイト所長」
彼らの言っていることの半分も理解できない。脳とは統制器官を指しているのだろうが、それをいえば身体各部にそれぞれ子脳がある。全身に無数にといっていい。力場制御器官にも当然として存在する。
「とにかく接触さえしていれば浸潤してくると考えられます。このヴァラージ因子というのはとんでもない特性を持っていますね?」
「解明できていない部分が多いのは事実だな」
「発生から成長段階で、固定ベルトにまで浸潤しはじめたときには焦りましたよ」
「今のような力場保定の環境も考慮していた。危険性は理解している。怠慢はない」
力場保定とは身体を捕捉している浮遊効果のことだろうか。外の生命体はこの程度の操作しかできないと見える。脆弱な好気性有機生命体だけのことはある。空間を形成する根源力を一部しか操れなくとも問題ないと考えている。
「アンチVの投与量は?」
「現在0.002%で安定状態です。金属分子カテーテルの接続先でのみ作用しているはずですので大脳の再生は阻止できるものかと」
「監視は厳にしたまえ。素体状態ではかなりの再生力があるとデータが示している」
「ガナス・ゼマ社にやらせたときのですよね? あれだって提供した組織片からの再生だったって聞いてます」
再生しようにもエネルギー摂取に困っているのは間違いない。初期に高分子チューブを挿入され、一気に同化したのが悔やまれる。あまりの空腹に耐えられず反応してしまった。
「分化物質の同定と再生抑止物質の生成が成功すれば危険なものではなくなる。困難な研究だが慎重さを忘れねば可能だ」
「時間は掛かりますけどね」
「当研究所ならば難しくないと自負している。各国のトップサイエンティストが集結しているのだからな」
「ええ、未来を作れると思えば努力は惜しみません」
再生抑止とは言ったものだ。アンチVと呼ばれる壊死薬も今の濃度の百倍までなら耐えられる対抗物質の分泌も可能になった。統制器官を再生していないのは警戒を緩めるため、情報収集のためでしかない。
「ところで、噂になってた管理局情報部のエージェント侵入は防げたんですか、所長?」
「あそこはヴァラージ因子を過剰に危険視しているからな」
「さすがに不安が拭えないのですが」
「安心しろ。排除はしていないが、それは今以上に内偵を強化させないための措置として泳がせているだけ。このレベルの区画までは絶対に侵入はさせん」
こういった情報も重要である。自己保全のためにも、壁の向こうの有機生命体のようなガードの甘い存在こそ利用しなければならない。壊死薬を完成させるような、消去が確実な安全策だと理解している一派は危険に過ぎる。
「成果を得られるまでまだ数年は掛かるかもしれんが頑張ってくれたまえ。成功すれば人類の救世主として歴史に名を残せる」
「危険な人類の天敵たり得る存在を制御できる功績と、安全確実で製造の容易なバイオ素材を発明した実績でですね」
「その後の人生は安泰だ。悠々自適に暮らすなり、趣味の研究に余りある財を使うなり好きにするといい」
「夢がありますね」
脆弱であるがゆえの欲というのは怖ろしい。それにとっては好都合なので阻む気もないが愚かしいとも感じる。いつの時代も彼らのような存在はなくならない。
今の形になったのも、元はといえば別の生命体の操作によるもの。再生力の強化や同化性能の向上は非常にありがたいが、どうにも闘争本能と捕食本能も増強されているのが疎ましい。あまりに巧妙で排除できない。
「世間を騒がせているムーブメントなど気にしないことだ。イオンスリーブやマッスルスリングなど比較にならない省スペース高出力のバイオ素材が完成する。星間銀河圏は再び変革の波に飲まれることになる」
「その中心にいるのが我々ということですか。有名人になるのは大変でしょうけど」
「なに、一時のことだ。人など飽きやすい。後に残るのは」
「名誉と財産ですね。今は外部と隔絶状態ですけど、これが終わったら結婚でもしますか。引く手数多になることを祈ってます」
「それも夢ではあるまい」
その生命体はかなりの時間、壁の外にいる。如何にも利用しやすいターゲットとして認識した。いずれ増殖を開始するときに使わない手はないだろう。糸を伸ばしておいて損はない。
ヴァラージ素体は壁を構成する金属壁への同化をゆっくりと進めた。
次回『壁の向こう(2)』 「こちらの意図が丸わかりです」