夜を抜けて(2)
ミュッセルのリフトバイクはあっという間にゴシップ記者たちを振り切ってしまう。後ろにエナミを乗せているので無茶できないはずなのに、圧巻の操縦テクニックで置いてけぼりにした。
「怖かったか?」
「怖かったのはあの人たち。ミュウの運転はちっとも」
「良かったじゃん。もう安心だぜ」
リフトバイクがイオンジェット噴流で路面を叩く。浮いている車体は滑るように走っていた。騒音はそれなりなのだが会話に支障はない。
(σ・ルーン越しの声さえ私をこんなにときめかせてしまう)
電波を介してミュッセルの思い遣りまで届いてくるみたいだ。
(つらい。フラワーダンスが負ければいいなんて願うだけでも重大な裏切り。それなのに私は自分を止められないかもしれない)
無意識に手心を加えてしまいかねない。そうまで感じてしまう自分が怖ろしい。このままでは試合までに心が潰れそうだ。おかしくなってしまう。
(それで負けてしまったら? もし、それを嬉しいとまで感じてしまったら?)
息が詰まりそうになる。
(そんなの……、自分を一生許せなくなっちゃう)
そのままフラワーダンスに居続けるなど不可能である。生まれて初めて得た友人関係を全て棒に振ってしまうと思う。それなのに自分の想いが止められない。
(他の女子はこんな苦しい思いをして恋してるの? なんだか信じられない)
誰かを押しのけてでも我を貫くなど彼女が受けてきた教育の中にはなかったもの。
(少しずつわかってきた。今まで事件とか見てきて、愛情で人を殺せるなんてあり得ないと思ってたけどそうじゃなかった。このままおかしくなっていったら私でも……)
絶対とはいえない。自制心はあるほうだと思うのに確証がない。その瞬間は正気ではいられないのかもしれない。
(私が私でなくなる。それなら恋なんてしたくない)
だが、病はすでにエナミを蝕んでいた。
(誰か止めて。壊れるなら自分だけでいい)
すがっている背中が愛しい。絶対に放したくないと思う。勝手に力が込もってしまう。抵抗するが腕は震えるだけだった。
「エナはエナのままでいたいんだろ? それなら、その場にいりゃいい」
「え?」
見透かされたようでドキリとした。
「ユナミ局長の立場を悪くしたくねえから、できるだけ目立ちたくねえと思ってる。そうだろ?」
「あ、うん。そういうのもある。ううん、そういう生き方してきたかも」
「だよなぁ。どこに行っても、どう足掻いても名前からは逃れられねえもんな。でも、そんな生き方つれえじゃん」
本当にわかっているのではないだろう。彼女の立場を推し量って話しているのだ。
「いつまでも局長の孫でいなくてもいいんじゃね?」
ミュッセルはそのままの流れで続ける。
「もちろん切っても切れねえ縁なのは当たり前だ。でもよ、そろそろお前はお前として生きていい年だと思うぜ」
「私は私のままでいいの? 我儘言っただけで忖度されちゃうかもしれないのに?」
「それほど社会は甘くねえぞ。たかがスクール生女子の我儘なんぞに振りまわされるもんかよ」
きっぱりと言われる。
「それに、局長もお前の親父さんもそんなん許しゃしねえって。馬鹿言いだしたらきっちり叱ってくれる。そういう人間じゃなきゃあの地位にいられねえぞ」
「私は自分の思うとおりに生きてもいいの?」
「おう、ちょっと我儘なくらいのほうが可愛いって思ってくれんじゃね? そんくらいにはまだ子供だろ。はみ出したら、こっぴどく叱られっかもしれねえけどよ。しゃーねえ。そんときは俺も一緒に叱られてやっから。そそのかした奴も同罪だ」
想い人はゲラゲラと笑っている。どこまでも透き通って真っ直ぐな人だった。だからこそエナミは心惹かれずにはいられない。
「ビビも許してくれる?」
少年は少し考えている。
「ビビもみんなもだ。俺もあいつらも親友だろ? ちゃんと向き合や大抵のことは許してくれるって」
「そう……かな?」
「絶対だ」
(馬鹿だった。自分から負けようなんて思っていいわけがない)
自分の愚かしさを自覚する。
(彼がどう思おうと私は私が嫌になる。ちゃんと向き合って結果を出さなきゃ、この人の傍になんていられない。そういう人)
悩んだままの自分で敵うと思うなんておこがましいにもほどがある。思いに囚われたエナミでは到底勝てやしない相手だった。
(全力で挑む。結果なんてどうなるかわからない)
それで生まれた結果ならば受け入れられそうな気がする。
(負けたら今度は私を選んでくれる? 恥ずかしい大間違い。そんな女の子をミュウが選んでくれるわけないじゃない。全力でぶち当たって、それで出た結果じゃないと誰も納得しない。当たり前のことがわからなくなるほどおかしくなってた、私)
情けなくて顔が熱い。今の顔を絶対に見られたくなかった。リアシートに座っていられる幸運を感謝する。
「俺たちは誰もお前を局長の孫として見てねえ。エナを見てる。それでいいだろ?」
「うん、もちろん! 私を見て、ミュウ!」
「お? おう。わかってるって」
(わかってないくせに)
笑えてくる。
自宅に着いた頃、エナミは心の夜を抜けていた。
次回『友情と恋情(1)』 「おかえりじゃないでしょ?」




