なんにもない日
「お疲れ様でーす」
「オツカレサマデス。アシタノリョコウノオミヤゲ。キタイシテマスヨ。」
「何言ってんの。近場の温泉行くだけなんだから。」
「タノシンデキテクダサイ」
「うん、じゃあ頑張ってね」
「ハイ」
バイトに入っている留学生の人は、片言だけれども、丁寧な日本語を喋るので、いつも関心する。
『きっと、優秀なヒトなんだろうな〜』
外で伸びをすると、心地よい疲労と、開放感で体が軽くなった。
『久しぶりに河川敷でも行ってみようかな』
何でもない日だからこそ、何かしてみたくなることもある。
いつもと帰る道を変えてみたり、月とかを立ち止まって眺めてみたり。
秋の入り口はそうやって、どこか私を浮ついた気分にさせてくれた。
ブゥン、ブゥンと、空気を切る音がするのと同時に、「くそっ、くそっ」と言う声が河川敷のグラウンドから聞こえてきた。
声の主は、ただひたすらに棒を振っていた。
私は、それを見ながら、ぼーっとタバコを吸っていた。
2本、3本と吸っていき、それなりの時間は経っているはずだが、棒を振る少年は、ペースを乱さず一心不乱に振り続けていた。
4本目を吸おうとして、ライターに手をかけると、急に少年はキョロキョロし始めて、
「クサッ」
と言った。
私は慌て立ち上がり、隠れるように堤防を降りていった。
咥えたままのタバコを、火を点けずに箱に戻して、そそくさと歩く。
「私、何やってるんだろ」
声に出して言ってみると、余計に面白くなってきて、「ハハッ」とつい声を出して笑ってしまう。
「ワンッ!!」
「うわっ、びっくりした」
「こら、静かに。すみません」
手綱を引く人に軽く会釈をしながら、吠えてきた犬っころを睨んでやった。
暗闇に消えるまで、犬と私は、お互いの目を光らせていた。
「ただいま~」
部屋の奥は暗いまま、私の声だけが反響した。
「またお母さんか、電話で連絡してくればいいのに」
手に取った郵便物の中に、母からの手紙が顔をのぞかせていた。
重々しい手つきで、電話帳の『お母さん』に通話をする。
開口一番で、
「あんた、ごはんちゃんと食べれてるの。」
と言われた。
「うん、だいじょうぶ。食べてるよ。」
缶チューハイの縁をなぞる指は、勢いよくプルタブを跳ね上げる。
おつまみは、単六電池くらいのカルパスだ。
「お父さんも心配してるのよ。たまには顔見みせなさいよ。この前なんてお父さんが…」
見たい番組なんてないけど、とりあえずテレビをつけた。
「聞いてる?お仕事の方はどうなの?」
「まぁまぁかな」
ザッピングなんて久しぶりにする。
大同小異のタレントたちは歩きながら、それぞれ自分の来歴を話していた。
「そういえば、中学の時同じクラスだった静香ちゃん。結婚したんだって。」
「ふーん。おめでたじゃん」
足の指の爪を丁寧に切る。
「カチッ、カチッ」と、銃の弾をそうてんするような音が響く。
「あんたも、いい年でしょ。相手はいないの?」
カチンといって、切った親指の爪が飛んでいく。
「まだかな」
電話の向こうでは、二、三拍の間があった。
隣の人の咳払いが聞こえる。
「そう。まぁ近いうちにかえってきなさいよ。」
「うん」
そこらにおいてある、化粧用の道具をひっぱる。
「あっ、お母さん」
「なに?」
「しおくりなんだけど、ちょっと増やして…」
アイシャドウペンで、想いを厚く塗り重ねていく。
「前にも言ったでしょ、これ以上は増やせないわ。生活が厳しいなら、こっちに帰って来なさい。」
近づいてくる救急車のサイレンが、私の心拍数と同期する。
家を出ていったときに見せた、父の顔がフラッシュバックする。
「そうだよね。ごめん…またね。」
「体には気をつけなさいよ。いつでも帰ってきていいから。」
通話を切るフックボタンを、素早く二回押してから、仕上げにつかったの赤いリップを机にやさしく、ていねいに置いた。
肌にのせたリップが不自然に見えたので、まるめたティッシュで境界をぼかした。
「できた、投稿しよ」
なさけないシャッター音と、テレビの笑い声がその場をもり上げる。
『くそ犬に噛まれた。番犬きどりめ!!』
ポップな噛み傷メイクをみせるために、使っていない部屋着のホットパンツをはいてみたが、案の定、いいねの通知音が、ファンファーレのように響く。
通知の音量をいちばん大きくして、やわらかいベッドへ飛び乗ると、トランポリンみたいに跳ねた。気がした。
最近見た、どじょうすくいの踊りをまねてみると、春の夜風のフロウにはもってこいのステップだった。
風にゆれるカルパスのごみは、つつましい拍手をおくってくれる。ありがとう。
じんわりとかいた汗と、体の熱が、わたしの体に薄い膜をつくる。
今日に満足して、ベッドにカラダを預けた。
カーテンの隙間から、見えるなんでもない日の満月は、手を伸ばせばすっぽりと、この手に収まってしまいそうだった。