1-8 正気の沙汰ではないかもしれない
自販機の横に立ち、バラルはにっこりと笑った。
「そっか。兄貴、じゃあ叔父さんと同居するんだ?」
「いや、叔父さんじゃなくて……みたいな人、な。地元で近所だったんだ。この前たまたま再会して、都内に住んでるって言うから。同居させてもらうことになった」
「よかったねえ! 何してる人? サラリーマン?」
「警……備員。警備員みたいな人」
「へえ、いいじゃん。強そうだなあ」
曖昧に首をふり、史狼はカフェオレに口をつけた。最上の職業は、なんとなく言わない方がいい気がする。バラルの軽やかな笑い声に、憂うつな気分がいくらかましになった。
◆
仕事が終わるのは、午前五時だ。始発から間もない電車でも、それなりに混んでいる。門前仲町駅で乗り換えて、月島駅で降りる。大体いつも、七番出口から出てコンビニに寄るか、十番出口から出て弁当屋に行く。今朝は弁当屋でチキン南蛮弁当を買った。なんだか無性に食べたかったのだ。
たまに無性に、チキンマヨむすびが食べたくなるんです。
そういう時ってありませんか?
一色のすました顔を思い出し、史狼は顔をしかめた。無意識に、あいつの言葉が頭に残っていたのだろうか。
エントランスで暗証番号を入力して、エレベーターで九階に上がる。最上のマンションは、史狼の以前のアパートからそう遠くはない。この春に完成したばかりの、新築の十階建てだ。鍵を取りだして玄関の扉を開ける。室内は薄暗い。最上は当直だと言っていたから、まだ警視庁だろう。史狼は手のひらを見つめた。銀色の鍵がのっている。
あの夜――公園に呼びだされた一昨日の夜だ――最上が突きつけたのは、包丁でもナイフでもなく、この鍵だった。まんまと騙されたのだ。だけど、と史狼は思う。最上はおそらく本気だった。史狼が強固に断われば、警察庁に売ったに違いない。あれからアパートの退去の話を持ちだされ、半ば強引に押し切られて、結局、最上と同居する羽目になってしまった。
居間の掃き出し窓を開けて、バルコニーに立つ。西向きのバルコニーからは、隅田川と遠くに東京タワーが見える。
人を刺す感触を、
知っている、と最上は言った。
朝陽の照り返しで、隅田川が目にまぶしい。
ゆったりと通りすぎる船。川沿いをランニングする人びと。
平和な朝の光景だ。
だけどこの街には、
人殺し疑惑のサイコな刑事と、
人の死に快楽を覚えるシリアルキラーがいる。
史狼は息を吸いこんだ。
潮の匂いがする。
能力を利用したいなら、せいぜい利用するがいい。
だけど、ただ利用されるのは真っ平だ。
傍で見張って油断させて……最上がもし人殺しなら、一色とまとめて捕まえてやる。
あの夜、史狼はそう心に決めた。
バルコニーの黒い手すりにもたれ、史狼はあごの先をのせた。ひやりと冷たい。潮風が頬をなで、髪を後ろになびかせる。視線を上げれば、雲ひとつない青空だった。史狼は自然と頬がゆるみ、そんな自分に驚いた。俺はもしかして……ワクワクしてるのか? まさか。史狼は睫毛をはためかせた。サイコパスとの同居だなんて冗談じゃない。もっと身の危険を案じるべきだ。そう言い聞かせてみたものの、胸の高鳴りは消えてくれない。
わかっていた。
誰とも関わらず、アパートと職場を往復するだけの人生。
死ぬまでそんな日々が続くのだと思っていた。
だけど人生で一度ぐらい、こんなドラマみたいな非日常が起こっても…………いいじゃないか。心の隅でそう思う自分がいると、史狼はわかっていた。最上の正気も疑うが、自分も正気の沙汰ではないかもしれない。風にゆれる前髪をかき上げる。視界がクリアになった。母親譲りの自分の顔は嫌いだが、今は人目もなく、隠す必要もない。額が涼しくて気持ちがいい。史狼は微笑した。少なくとも――ここから見える景色は悪くない。
◆
警視庁の六階、灰白色の廊下に影がのびる。午前十時半。当直を終えて、最上はエレベーターに向かっていた。影が彼を追い越して、ぴたりと止まる。
「石田管理官」
「同居の件、許可が下りたぞ。あの大上という青年が、警察官志望でおまえの身内同然だと説明しておいたが……ほんとに大丈夫なんだろうな? 情報漏洩でもされたら洒落にならんぞ」
「大丈夫ですよ。僕の部屋には防犯アラームを付けてますから。侵入されればすぐに分かります」
「おまえ……甥っ子みたいな奴なんだろう? そんなに信用してないのか?」
「慎重なんですよ」
最上と並んで石田もまた歩きだす。彼はくだけた笑みで、隣に立つ男に顔をむけた。
「それで? 石田さんは、次の休日も婚活ですか?」
「ぐ……しばらくはいい」
「今回のお礼に、合コンでもセッティングしましょうか?」
「いらん。大学の時からそう言って、おまえは全員持っていくんだ。性質が悪い」
「別に僕のせいでもないでしょうに」
石田は怒る様子もなく、ふうと息を吐きだした。
「ったく、おまえは……なんでこっちに来なかったんだ」
「なんの話です?」
「とぼけるなよ。東大法学部を出たくせに、なんでキャリアを目指さないんだ。私の後輩として、警察庁に来るんだと思っていたのにな」
「またその話ですか? いいじゃないですか。この春から毎日、一課で顔を合わせてるんですから。淋しがらないでください」
「淋しがってるんじゃない! 同居の件ぐらい、自分で処理できる立場になれただろ、って言ってるんだ。私はおまえの便利屋じゃないんだぞ」
廊下に笑い声が響きわたる。石田はしかめっ面で、笑い声の主をにらんでいた。
エレベーターが開く。
石田と最上に会釈して、男たちが通りすぎていく。
入れ替わるように乗りこんで、石田は扉の正面をむいた。
「なんだ、最上? 乗らないのか?」
最上は微笑を残して、閉まる扉を見送った。
エレベーターの前に立ち、最上は銀色の扉をながめた。
「なんでキャリアを目指さないのかって? そんなに知りたいなら、教えてあげましょうか? 僕は殺人現場が見たいんです。凄惨な血まみれの現場が見たくて……刑事になったんですよ、石田さん」
低い呟きが自分の影に落ちる。その声に応じるように、窓のむこうで新緑がざわざわと梢をゆらした。
・明日も(12/18)夜までに第二章(全8話)をすべて投稿します。