1-7 それが正義感なんですよ
「嫌です」
「なぜですか?」
「なぜって……最上さんも見たでしょう? 気分が悪くなるんです。警察に協力なんて冗談じゃない。また人殺しにでも会ったら、こっちがおかしくなります」
「一色さんを捕まえたいんでしょう?」
「それはっ……それは警察の仕事でしょう!」
「一色さんは被疑者ではありません。今のところ……今回の事件でも、過去においても。彼はただの一般人です」
「でも……さっきのあなたの口ぶりじゃ、一色を疑ってたじゃないですか。それに俺のことも嘘じゃないって」
「だけど現状では、警察として動けることがないんです。彼がなにか下手を打たない限りは……だから、ね? 大上さん。警察に協力してくれていれば、一色さんと接触する機会があるかもしれません。そうでなくても、その能力で、未然に防げる犯罪があるかもしれませんし」
お願いします、と真摯に連ねる相手を、史狼はどこか冷めた気持ちで眺めていた。殊勝そうに見えても、どうせ腹の内では計算づくのくせに。
「それに大上さんは警察に向いてますよ」
「はあ?」
我ながら間の抜けた声だった。これまでの人生で警察と関わったのは、職務質問を受けたときぐらいだ。正義感が強いわけでもないし、そもそも他人と関わりたくもない。自分が警察に向いているなどと、一瞬たりとも思ったことはない。
「なんで、見て見ぬふりをしなかったんですか?」
「見て見ぬふり……?」
「どうでもいいじゃないですか。赤の他人が自殺しようが他殺だろうが。大上さんに関係ありますか? ないでしょう? わざわざ警視庁まで出向いて、他殺だと訴えて……それとも他になにか意図があったんですか?」
「いやあんた……刑事がそんな、どうでもいいとか言うなよ」
「僕は仕事ですから。どうでもいいわけがない。あなたのことを言ってるんです。大上さん、あなた……なんでそんなに熱心に一色さんのことを気にするんです?」
心の内を探るように、じっと視線をむけられる。最上の距離は明らかにおかしい。パーソナルスペースはどこにいった? 身じろぎすれば、肩が擦れ合うほどの近さだった。
「熱心にって……それは」
業火のような一色の感情を思い出し、史狼は吐き気がこみ上げてくる。
仕方がない。
この感情を知っているのは、世界中でただ二人――一色と史狼だけなのだから。
「知ってしまったんだから、仕方ないでしょう。気になるんです」
「それが正義感なんですよ」
「いや、だからそうじゃなくて……成り行きですよ。たまたま関わってしまったから」
「じゃあ成り行きで警察にも協力してください」
最上は上体をひねり、ベンチに置いたカバンから書類のような物を取りだした。手渡されたのは、左綴じのA4サイズの紙束である。史狼は紙を掲げ、街灯の明かりに照らしてみた。
【大上史狼の特殊能力に関する考察とその犯罪捜査における活用について(案)】
「は? ……なんですか、これ」
「見たとおりです。あなたの能力を、今後いかに警察庁で活かすのか。僕の見解をまとめた報告書です」
「……警察に協力って。俺の能力を国にばらすって意味ですか?」
「どちらでも構いませんよ。選んでもらおうかと思いまして」
「選ぶ?」
「はい。他人の感情が分かるという能力を、警察庁のために使うのか。それとも、いち警察官である僕のために使うのか。どちらがいいですかね、大上さん?」
「いや、どっちも嫌ですから……」
「選んでください。どちらがいいか。だけど警察庁に……国家にあなたの能力を知られれば、おそらく一生、今のような自由はなくなるでしょうね」
言葉の重みに反して、口調はあまりにも軽やかで、まるで世間話をしているようだ。史狼はふと、水槽から跳ねた金魚が頭をよぎった。あれは小学生の頃だったか。学校から帰ったら、金魚が口を開けて死んでいたのだ。今の史狼もあの金魚のように、空気を必死で吸いこんでいた。
「……脅迫するつもりですか?」
「まさか。お願いしてるんです」
「……どっちも嫌だと言ったら?」
「この資料を警察庁に提出します」
ぎり、と史狼は歯を食いしばった。
なにか。
なにかないか?
この男を諦めさせる方法は?
「じゃあ……そのときは、あんたが感情がないって皆にばらします」
最上の眉がわずかに動いた。正解のようだ。感情がないという事実は、やはり最上にとって隠したいことらしい。史狼はこっそりとほくそ笑んだ。
「兼森さんにも宮川さんにも、石田管理官にも。なんなら警察庁にも。最上さんの言動は、全部上辺だけで感情が伴わないって。計算づくの言動なんだって……教えてあげます」
「なるほど……僕を脅迫するつもりですか?」
「まさか。お願いですよ。最上さんと一緒です」
最上の唇に笑みがうかんだ。
と、思うと同時に、史狼は身動き取れなくなっていた。
圧し掛かられた、と気づいた時にはもう、のどに金属が当てられていた。
「史狼くん、人を刺したことはあるかい?」
ごく、とやけに大きな音が響いた。
自分が唾を飲みこむ音だ、と、ワンテンポ遅れて気づく。
どくどくと心臓の主張がうるさい。
のどを圧迫する金属が、冷たくて……硬い。
「あるわけ……ないだろ」
「そうか。僕は知ってるよ。人を刺す感触を」
「あんた……なに言って」
「甘いんだよ。脅すなら本気でやらないと」
街灯の明かりの下で、最上の顔は白く発光しているようだった。
その双眸は、異常にかがやいて見える。
「……冗談、だろう?」
「この状況で冗談だと思うなら、きみは自分の危機管理能力を疑うべきだね」
ぐいと先端が押しつけられる。
息がつまって苦しい。
「あんた……何者なんだ? おかしいだろ、こんな……刑事が脅迫なんて」
「確かに僕は刑事で、脅迫は犯罪だが……言っただろう? 自分で。僕には感情がなくて計算づくの言動だって。そのとおりだ。僕は目的のためなら手段は選ばない」
抑揚のない静かな声だった。静かに淡々と……この男は必要であれば、ためらいもなく刃を振るうんじゃないか。そう思った途端、寒気が全身を駆けぬけた。殺される? まさか。ほんとうに? 嘘だろう。木立の葉群れから隅田川が見える。対岸のビル群の明かりを映し、水面がちらちらと光っている。公園に人影はない。通りのざわめきや車の走行音が、水中にいる時のように、ぼんやりと遠くから聞こえる。
叫べば誰か、気づいてくれるか?
いや、気づかれる前に殺られるか?
こいつはほんとに、俺を殺すつもりなのか?
…………思考がまとまらない。
だけど、映画やドラマで見たことがある。
こんな人間のことを。
そうだ、こいつの正体は……。
「ねえ、史狼くん。協力してくれないか?」
「この……サイコパスが」
「そう。僕はサイコパスだ。だから何をするか分からないね?」
最上が耳元でささやいた。甘い声音はこの状況を一層、狂気じみたものに感じさせた。
「……答えは? 僕に協力するかい?」
のどに金属がめり込んだ。
男を睨みつけながら、史狼は小さくうなずいた。