1-6 僕を殺したいのはどっちかな?
「飛び降りの件、調べ直しているのか」
最上の背後から声がかかった。フォルダを閉じてマウスから手をはなし、後ろを振りかえる。石田管理官が硬い表情で立っていた。不機嫌なわけではない。これがこの男のデフォルトなのだ。ええ、と短く答えて笑顔を見せた。こんなふうに、もっと表情筋を活用すればいいのに。
「あの一色という男が被疑者なのか?」
「どうでしょうね」
「取り調べは?」
「座礁中です」
「めずらしいな、弱気か」
「いえ、というより……」
最上は唇を二度、三度と叩きながら、石田の頭を越えて窓を見やった。
「……夜にビルの五階から見下ろして、落ちた人間の状態なんて、そんなにはっきりと見えるものですかね」
「なんだと?」
「……いえ。なんでも」
唇に微笑をのせて、最上はパソコンの画面に向きなおる。仕事に集中させてくれ、という意思表示であった。機嫌を損ねた様子もなく、石田が去っていく。十年来の付き合いとは便利なものだ。
最上はマウスをクリックした。フォルダから一つのファイルを選ぶ。共有ではない、自分用の資料だ。パスワードを入力する。
一色十夜。26歳。予備校講師。
仙台市出身。
D小学校元教員。
大上史狼。20歳。フリーター。
仙台市出身。
D小学校卒業生。
「……仙台出身、D小学校。さて……僕を殺したいのはどっちかな?」
独り言ちながら、最上は薄い笑みをうかべた。
◆
最上から電話があったのは、面通しから三日目のことだった。休日の夜で史狼は部屋着のまま、見るともなしにテレビを眺めていた。待ち合わせに指定されたのは、近所の公園である。五月も下旬ではあるが、ここ数日の夜は肌寒い。黒のスウェットパンツと白のTシャツはそのまま、グレーのパーカーを羽織ってアパートを出た。
その公園は隅田川沿いにある。小さな公園であるが遊具もあり、昼間はちらほらと子どもの姿を見かける。しかし夜の十時ともなれば、人もまばらだ。最上はすぐに見つかった。公園の奥、街灯の傍のベンチに腰かけている。
「お待たせしました。すみません、わざわざこんなとこまで」
「いえ。僕の家も近所なんです」
驚く史狼に、ふわりと最上が笑顔を見せる。
「この春に引っ越してきたんです。寮生活にうんざりしたもので……なんて言ったら怒られちゃいますね」
くすくすと笑い、最上はベンチを手で示した。史狼はひとり分の距離を取り、左端に腰かけた。座った後で「ああこの男は感情がないんだった」と気づいたが、今さら立ち上がるのも不自然に思えて、そのままでいた。
「この街は便利ですね。有楽町線と大江戸線が使えて、桜田門にも新宿にも一本で行けますし」
「ですね。俺も気に入ってたんですけど」
「気に入ってた? 過去形ですか?」
「いえ……はい。アパートの立ち退きが決まって、あと一週間なんです」
「別の街に引っ越すつもりで?」
「はい。この辺りじゃあんな格安物件、もう見つからないんで」
ふうん、と相づちを打つ最上に、史狼は本題を切りだした。
「それで、今夜は?」
「犯人が自首しました」
「一色が? よかった……」
「いえ。一色さんではありません」
息を呑む史狼を、最上は静かに見つめている。街灯を浴びる肌は蒼白い。昼間よりも白く、どこか能面のようにも見える。
「じゃあ誰が……」
「予備校の女子生徒です。被害者とは遠戚関係でした。被害者の弟の妻の従妹だそうで、弟夫妻の結婚式で初めて会ったそうです。今朝、署を訪れて自白しました。休憩時間に彼を屋上に呼び出して、口論の末に突き落としてしまったと」
「遠戚の女子生徒……? 一色じゃなくて?」
「一年ほど前から、彼女はTwitterで裏アカを使っていたそうです。半年前に被害者にバレて、脅されて……関係を強要されたと言っていました。証拠の動画が、彼女のスマホにありました。被害者のパソコンにも。脅迫として送っていたようです」
「でも……目撃者はいなかったんでしょ?」
「屋上のやりとりが録音されていたんです。念のためと、彼女がスマホで録っていたそうで」
「一色もいたんじゃ……」
「いませんでした。もしいれば、被害者が気づいていたでしょう。録音には編集の跡もなかったですし。それに……一色さんは予備校を出るとき、受付に声を掛けていたんです。その十分後には、コンビニで店員と会話しています。もちろん、予備校には通用口もありますよ。でもたった十分の間に、通用口から戻って屋上に上がり、彼を突き落として、また通用口から出てコンビニに……というのは、無理があるんです」
「でも……」
「それに大上さんの【見た】という光景は、落ちる男だったんじゃないですか?」
「はい……そうです」
「一色さんが突き落としたのなら、落ちていく男なのでは? 大上さんのご説明では、むしろ、落ちてくる様子に思われましたが」
「あ……それは確かに」
そうだ。光景の凄惨さに気を取られていたが、男は確かに、目の前で死んでいた。だったら……と史狼は思いを巡らした。
「共犯なんじゃ」
最上はゆっくりと首を横にふった。史狼を諭すかのように。
「いいえ。彼女は、すべて自分の責任だと認めています。一色さんとは、ただの講師と生徒という間柄で……それ以上の関係を示すものは、見つかりませんでした」
「そんな……」
「一色さんは無罪でした。笑ってましたよ。警察は疑うのが仕事なんですから、どんどん疑ってください、と。ほんとうに感じのいい方だ」
能面には表情がない。演者だけではなく、見る側の心理によっても表情は変わるのではないか。だとしたら、今の最上が冷たく見えるのも……史狼の気のせいだろうか。この男の顔は、一見、ずっと穏やかなままなのだから。
史狼は力を振り絞り、首を横にふった。
「嘘は言ってません。ほんとに、あいつは人殺しを喜んで……」
「大上さんの突拍子もない質問も、気にしない、と仰ってましたよ。よかったですね」
「そんな! あいつはっ……‼」
「人殺しですか?」
凪いだ双眸に見つめられ、史狼はたじろいだ。この男にはもう、史狼の言葉など、取るに足りないと思われているのだろうか。
「ほんとに嘘じゃないです。一色の殺意……人殺しを喜ぶ感情は普通じゃない。直接手を下してないとしても、絶対に無関係じゃありません。あいつは……異常です」
「証拠がないんです」
淡々と告げる声に、史狼は目を大きくした。最上の顔に、わずかな苛立ちが見えた気がした。
「一色十夜。高一のとき、妹さんが事故で死亡。高三のとき、父親が事故で死亡。大学四回生のとき、教授の妻が自殺。三年前に担任をしていたクラスで、保護者が事故で死亡。それから……今月、予備校の同僚が自殺。いや、突き落とされました。彼のまわりには死が多すぎる」
「…………」
「どう思いますか、大上さん? すべてただの偶然で、一色さんとは何も関係がない……そう思いますか?」
「まさか! 言ったでしょう? 被害者は一人じゃないって」
最上は足を組み替えて、「証拠がないんです」と繰りかえした。
「一色さんは、ほんとうに感じのいい方で……大上さんの指摘がなければ、捜査線上にも上がらなかったでしょう。あの女子生徒もです」
感謝してますよ、と最上は言った。史狼は思わず問い返した。自分の聞き間違いかと思ったのだ。
「感謝してます。あなたに……いや、あなたの能力に、かな」
「信じて……くれるんですか?」
「嘘だとは思ってません。兼森も宮川も、それに石田管理官も、あなたの言うことは正しかった。兼森の叔父は、宮城県警の本部長なんです。それを誇りに思うと同時に、プレッシャーも感じている。自分がキャリア組じゃないと気にしてるんです。気にしなくていいと言ってるんですが。兼森も頭では分かっていても、感情は複雑なんでしょう」
「…………」
「宮川は、僕に好意を抱いてくれてます。僕が気づいてるとは、知らないでしょうけど」
「……あの、最上さん」
「石田管理官は、休日に婚活パーティーに行ったそうです。でも気に入った女性から、警察官は嫌だと振られたらしくて……思い出したら辛くもなりますよね」
「最上さん!」
「なんですか?」
「それは……個人情報っていうか……あんま人にペラペラ話すようなものじゃ」
「あなたは誰かに吹聴してまわるような馬鹿ですか?」
「……は?!」
「知ったところで、あなたが黙ってれば済む話でしょう?」
史狼は呆気にとられて口をつぐんだ。こんな物言いをする奴だったか? この男は。
「さて、大上さん。そろそろ本題に入りましょうか?」
「は? もう事件の経緯は聞いて……」
「今夜の呼びだしは、それじゃありません」
事件の報告は前菜です、と最上が笑う。いつの間にか、人ひとり分の距離がなくなっていた。目の前に最上がいる。史狼は左端に避けようとして、がく、と尻が半分落ちかけた。仕方なく元の場所に戻る。最上が近い。
「感情が分かるという能力、あなたには厄介でも、僕にはずいぶん魅力的です。ねえ、大上さん……その能力、警察に貸してくれませんか?」
最上が近い。男の胸を押し退けようとして、史狼は、はたと気づく。
そうだ。この男には感情がないんだった。
突然、全身に鳥肌がひろがった。
最上の唇は笑っている。
最上の目は笑っていない。
この男は……何者なんだ?