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1-5 呪いみたいなもんです

 目の前に、十名ほどの男たちが並んでいる。




 被害者の男は予備校の講師だった。その予備校は、事件現場の公園に隣接している。男は休憩時間に、屋上から飛び降りたらしい。


「半年前に別れた恋人が、二週間前に別の男と結婚したそうです。復縁を望んでいたらしく、亡くなる数日前は元気がなかったと。それが自殺の動機であると判断されたのですが……もう一度、大上さんの証言から洗い直します。屋上は普段、施錠されていますが、講師ならいつでも鍵は使えるそうです。屋上に続く階段は、廊下の一番奥にあります。その教室は物置になっていて、ほとんど誰も立ち寄りません。つまり、目撃者はいないんです」


 廊下を歩きながら、最上が説明する。警視庁で会ったのが五日前、面通しを頼まれたのが昨日のことだった。普通であれば、面通しは写真を使ったり、取調室の透視鏡――いわゆるマジックミラー――越しに行ったりする。しかし今回は史狼の能力を考慮して、予備校の空き教室に参考人たちを集めたそうだ。


「大上さんの証言に近い背格好で、あの時間、予備校の外にいた人たちです。講師や事務員、学生も数名。みんな被害者とは面識があります。当日の行動を彼らが説明する間、大上さんに触れてもらって……触れれば分かるんですね?」


 史狼は頷いてみせた。湧き上がる感情は、声音や骨格のように人によって特徴がある。もう一度触れれば、あの男がわかると思った。並んで歩く最上を、史狼は横目で見上げた。あれから結局、捜査以外のことは何も聞けていない。捜査は再開されたものの、この男は……果たして信用できるのだろうか。

 教室の入り口で、ぴたと最上が足を止めた。史狼を振りかえり、上から下まで視線を動かした。


「あの、なにか……?」

「やっぱり、印象がよくないですね」


 最上の言葉に、史狼は首をかしげる。今日はちゃんと黒のジャケットを着て、一番くたびれていないチノパンを履いてきた。スニーカーは前と同じだが。最上はスーツのポケットを探り、クリップを取りだした。書類をまとめるような、大ぶりの金属製だ。


「……これでいいか」

 どこか投げやりにそう言うと、最上は彼の前髪をつかみ、後ろに流してクリップで留めた。史狼と目が合うと、最上は意外そうに「へえ」と小さな声を漏らした。

「なんですか?」

「いえ。なんでもないです」


 風通しのよくなった顔を、史狼は手でこすった。スースーして落ち着かない。面通しが終わったらすぐに下ろそう。



 教室の端に宮川が立っていた。後方に椅子が並び、男たちが座っている。最上と史狼は、隣の準備室で待機した。物が積まれた小ぶりな部屋だ。最上に呼ばれて男が入ってくる。史狼が腕に触れると、男は怪訝な顔をした。


「彼は当時、目撃した男性の上腕を掴んでいました。同じ状況を作ることで、思い出すことがあるかもしれません。お話の間だけご協力願います」


 傍で聞けば、ずいぶんと誠実な口調である。男も納得した様子だった。史狼はこっそりと顔をしかめた。もう最上の言葉を、そのまま受け止める気にはなれない。その言葉に、一切の感情は伴っていないのだから。


 一人目、二人目。学生、学生。三人目、四人目、五人目。学生、学生、事務員。六人目、事務員。史狼はそっと息を吐いた。一人につき数十秒から一分程度だ。そう長い時間ではない。しかし連続して六人の感情にふれて、乗り物に酔ったような気分だった。

 六人ともあの夜の男とは違っていた。呼び出されて不安であったり、逆に不満を感じたりしているだけだ。死んだ講師は、さほど目立つ男ではなかったらしい。彼らは沈痛な面持ちをしていたが、その内心の悲しみは赤の他人に対するような軽さであった。史狼は気持ちが重たくなった。だから他人の感情を知るのは嫌なのだ。


「では次は……一色さん。お願いします」

「はい。一色十夜いっしきとおやと申します。去年の春に吉祥寺校からこの月島校に移動して、講師をしています」


 七人目の男が、最上と史狼に会釈した。歳は二十代半ばぐらい、明瞭で朗らかな声をした、礼儀正しい男である。すらりとした細身のスーツを着て、波打つ髪にフレームの薄い眼鏡を掛けている。


「あの夜は、休憩中にコンビニに行きました。ええ、東側ではなく西側の店です。たまに無性に、チキンマヨむすびが食べたくなるんです。そういう時ってありませんか? あのしょっぱいのが美味くって。西側の店にしか置いてないんですよ。ええ、それで戻って、また授業を始めて……なんだか騒がしいなと思って、それで授業が終わったら警察の方々がいて……まさかあんなことに……ええ、ほんとうに残念です。熱心な先生で……」


 一色は眼鏡を上げて、目元をこすった。


「そうですか。ありがとうござ……」

「あなたは、人殺しをどう思いますか?」

 突然、割りこんだ声に、最上と一色が史狼に目をむけた。最上の表情は変わらない。一色は戸惑った様子で、眼鏡を元に戻して茶色の髪をかき上げた。

「ええ……と。あの、突然どういった……」

「一色さん。人を殺したい、と思ったことはありますか?」


 しばらく史狼を眺めた後で、ようやく意味が飲みこめたように、一色は驚愕の表情をうかべた。


「いや? いやいや、まさか! そんなこと思ったこともありませんよ。物騒な質問だなあ、なにかの引っかけですか?」

「ほんとうに、一度も?」

「一度も……というかですね、そもそもそんなこと、思うわけないでしょう? 人殺しですよ? 殺人なんて……そりゃあオレだって、腹が立つことはありますよ。駅で並んでる時に割りこみされたり、バイクの運転中に歩行者に信号無視されたり、イラっとすることはまあ、あります。けどねえ、そんな、人を殺したいだとか……そんなこと、思ったこともないですよ」


 一色は呆れた顔をして、同意を求めるように最上にうなずいた。最上は微笑をかえし、視線を史狼に移動させた。


「大丈夫ですか? ずいぶん顔色が悪いようですが」

「……すみません。ちょっとトイレいいですか?」

「ええ、どうぞ。なにか悪い物でも食べましたか?」


 最上の言葉に、くっと一色が吹きだした。史狼は構わず、部屋をあとにした。


 男子トイレの個室に入り、昼食をすべて吐きだした。洗面台で口をゆすぎ、史狼は深呼吸をくり返す。他人の感情にふれて、嘔吐したのは二度目だ。一度目は高校生のときだった。あのときは……いや、今はどうでもいい。それよりも一色だ。史狼は目をつむった。


 あの男が、人殺しだ。

 落ちる人間。

 飛び散る鮮血。

 奇妙にねじれた肢体。

 底抜けの――快楽。

 何度も、何度も。

 …………そう。何度も。


 史狼はたまらず、また個室で吐いた。もう胃液しか出ない。背中にべっとりと汗をかいている。顔を洗って部屋に戻った。



 部屋にはまだ一色もいた。正直、顔を見るだけで吐き気がする。


「どうしますか? まだ一色さんにお話を伺いますか?」

「いや、もういいです。すみません、待ってもらったのに。それで、あの……今日はもう終わりでいいですか? 気分が悪くて」


 最上は了承して、一色を廊下まで見送った。教室に戻り、宮川に声をかけてその場を解散させる。史狼も椅子から立ち上がった。教室は後方の電気が消えて、教壇のまわりだけが白く照らされている。宮川はもう教室を出て、最上と史狼しかいなかった。


「最上さん、あの……」

「一色さんですか?」

「……そうです」

「そうですか」


 最上は教壇に軽くもたれていた。とんとん、と人差し指で天板をたたいている。そうしていると、刑事というより講師のようだ。講師……一色の顔が浮かび、史狼は息を吐きだした。

 くい、と最上は首をかしげた。


「興味深いですね」

「なにが……ですか?」

「いえ。あなたには、どんなふうに見えているのだろうと。その、他人の感情というものが」

「見えるんじゃなくて、自分の感情みたいに……湧き上がるんです。ぶわあああっと。ああ、でもたまに……景色が浮かぶことはあります。たぶん相手の感情の強さや、そのときの想いに関係して。それは見えるって感じかもしれません」

「なるほど……で、一色さんは?」

「一色は……」


 史狼は言葉を切った。口に出せば、その重みを実感しそうで嫌だった。


「一色は……一人じゃありません」

「他にも仲間がいると?」

「あ……いえ。違います、そういう意味じゃなくて……ああだから。一人じゃなくて、もっといるんです……被害者が」

「……被害者が?」

「はい」


 沈黙が落ちた。窓が橙に染まっている。最上は眩しそうに目を細めた。


「一色さんが……シリアルキラーだと?」

「そうです」

「ひと一人の人生が掛かってるんです。気安く言えることじゃないですよ」

「被害者の人生だって、気安くはなかったはずです」


 視線がぶつかり合う。

 最上は譲らない。

 史狼も譲らない。


「具体的に話してください。なぜ一色さんだと? トイレに駆けこむほど酷いものだったんですか?」

「…………快楽を」

「快楽?」

「…………人が死ぬ姿を見て……快楽を感じました。……落ちる男を見て、血管が沸騰するような……高揚感……ですかね。それから潰れた……ときの……背骨に電気が走るみたいな……頭まで突きぬけて真っ白になるような。気持ちがよくて。それで首が……曲がって…………血も……血もあんなに噴き出して……腹の底から笑いたくなりました。ぐちゃぐちゃになった手足が……」

「もういい」


 最上の手が、彼の両肩をつかんだ。強く力がこめられる。


「あ……すみません。気分悪いですよね、こんなの聞かされて」

「僕は構わない、慣れてるから。でもきみは……あなたは、大上さん。ひどい顔色ですよ。すみません、無理を言いました」

 ハンカチで額をぬぐわれる。冷や汗で髪が湿っていた。

「すみません」

「他人の感情がわかるのも厄介なようですね」

「……いいと思ったことは一度もありません。呪いみたいなもんです」


 教壇から身を起こし、最上は教室の扉にむかった。カチリ、と電気を落とす。暗闇が滑りこむ。廊下の蛍光灯が、くっきりと四角い光をつくった。

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