6-7 おまわりさん?
三月下旬の日曜日、史狼は新大久保の雑居ビルにいた。警察学校の卒業祝いと称して、バラルがネパール料理をおごってくれたのだ。店はビルの二階にあった。一階はネパールの食料雑貨店で、その奥の階段から上がっていく。どう見ても非常用階段のような狭い通路で、彼一人であれば、とてもたどり着けなかっただろう。
店内に足を踏み入れた途端、異国に迷いこんだようだった。
昼の遅い時間とはいえ、八席ほどのテーブルはほぼ埋まっている。そのほとんどが外国人――おそらくネパール人――の客だった。奥の席に一組だけ、日本人らしき男女がいる。その隣のテーブルに案内され、ちらと横目で見て、史狼はあっと声を上げた。
「店長っ?!」
「よお! オオカミくん! なんや、自分もここの常連なん?」
キャバクラの店長は片手を上げ、狐目をさらに細くした。奥に座った女と目が合って、史狼は再び声を上げた。
「まどか?!」
「……なによ。あんたなんでここにいんのよ」
まどかは彼を見上げ、何か言いたげに口を開いて――すぐに視線を下げた。長い髪はゴムでまとめられ、ふうふうとスプーンに息を吹きかけている。本気の食事モードだ。お椀に入っているのは水餃子のようなスープだった。ほわほわと湯気が立っている。熱々を食べなきゃもったいない、と判断したらしい。
バラルはにこにこ笑いながら、隣の席に腰かけた。
「兄貴の知り合いですか? 珍しいですね、日本の人でこの店を知ってるなんて」
「ああ、前に客に連れてってもろてん。めっちゃ美味いやん? それからたまーに無性に食べたなんねや」
バラルはメニューを開き、木製のテーブルの中央に置いた。ひとまずビールを頼み、あとの注文はバラルにまかせた。一応写真はあるのだが、史狼には何がなんだか分からない。スチームモモ? スクティサデコ? なんか強そうな名前だな。
隣のテーブルを見ると、にかっと店長が笑みをこぼした。
「なんや? 食いたいんか? ひと口やろか?」
「あ、いいです大丈夫です。今日は休みですか?」
「せや。日曜やん」
「その……まどかも?」
首を右にむけると、まどかは瓶のままビールを飲んでいた。美味そうにごくごくと、なにかのCMになりそうだ。史狼はまた店長に視線を戻す。
「店の女の子と食事に行ったりするんですね」
「うん? いや? 黒服と呑み行くことはあるけどな。キャストとはプライベートじゃ会わんで?」
「え? でも今プライベートじゃ」
「デートやん」
「は?!」
史狼の叫び声は、ぼかっ! という威勢のよい音にかき消された。
「いった! 蘭、ちょっとは手加減しいや?!」
「蘭ちゃうし! デートじゃないし‼」
目が合うと、まどかはぷいと横をむいた。
「え……っと、デートなんですか?」
「口説いてんねや。おれはデートやと思ってんで」
「店の女くどくな」
「ええやん。もう辞めたやん」
「……辞めたんだ?」
まどかは唇を拭き、ようやく史狼に目をむけた。
「今年で四回生だし就活に集中するから。で? あんたは何してんの? あいかわらずフリーター?」
警察官になった、と史狼が言うと、仔馬のような目がぐっと見開かれた。
「へえ……そうなんだ。あんたが警察官ね。おまわりさん?」
「ああ。まずは巡査からで、そのうち刑事になるつもり」
「刑事って。あの最上さんみたいに?」
「まあ、そう」
「ふーん……かっこいいじゃん」
「まだなってないけど」
悪い気はせず、自然と口元がゆるんだ。斜め前から「ふうーーん」と低い声が聞こえてくる。店長の目が限界まで細くなっていた。
「やっぱひと口やらんわ」
「えっ? あ、はい」
「てかオオカミくんのひと口もらうわ」
そう言って、店長は史狼の皿から肉だけを攫っていった。
「俺の肉……」
「ほらほら、次の皿が来たよ!」
店員がトレーを手にやってくる。テーブルに次々と皿が並んでいく。スパイシーな肉と野菜の焼けた匂いが漂い、腹が勝手に鳴りだした。
「美味そうだな」
「うん! どれも美味しいよ~かんぱい‼」
バラルとグラスを鳴らし、ビールを流しこむ。キリッと冷えていて美味い。羊肉と野菜の炒め物も、小籠包のような料理も、羊肉のカレーのセットもぜんぶ美味い。
ふと顔を上げれば、バラルが嬉しそうにこっちを眺めている。
「どう? ネパール料理は?」
「すごい美味い。また食いたいな」
「うん、また来よう! それでさ、兄貴。いつかぼくの実家にも遊びにおいでよ」
「おまえの実家……ってネパールに?」
「そうそう」
「いいけど……警察官って海外旅行とか行けるのかな。行けたらいくよ。ずっと先かもしれないけど」
「うん、いいよいいよ。ぼくもこっちで就職するし、まだ当分日本にいるからさ。ぼく、兄妹も親戚もいっぱいいるから。兄貴も自分の家族だと思って過ごしてよ」
史狼は箸を置き、バラルに笑みをみせた。母親と折り合いが悪いと以前に話したことがある。バラルはなにも言わず、ただ黙って聞いてくれた。ずっと心の内で気遣ってくれていたのだろう。
「ありがとな。てかさ、俺もう仕事辞めたしおまえの先輩じゃないし。おまえも今は専門学校生だろ? やっぱ兄貴より弟分じゃないか?」
「うーーーん。そうだなあ。でも元先輩だし……」
「名前じゃダメなのか?」
「史狼?」
「そう」
「そっか」
「そうそう」
「はは……っ、いいねえ! 史狼、日本人の友だち同士って感じだ」
バラルは残りのビールを飲み干した。史狼もつられてグラスを空けた。
店員を呼び止めて、バラルが二人分のビールを追加する。
隣を見れば、店長が箸の先でまどかに肉を食わせていた。




