6-6 愛してるんだ
木陰のベンチはひやりと冷たい。
あいにくの花曇りで、空には薄いグレーが広がっている。
悪い、と史狼はつぶやいた。最上は彼の隣に座り、シャツを整えてネクタイを締め直している。「いいよ」と気に留めない様子で返される。数分前、彼は最上に詰め寄り、思いきり胸倉を引っ張ったのだ。
「ほんとは殴りたかったんだろ?」
グレーと黒のストライプのネクタイが結ばれる。最上は懐から煙草を取りだし、カチ、とライターを鳴らした。
「まあな」
「殴る?」
「殴らない」
脚の間で両手を組んで、史狼は苦笑いした。
最上が目の前に立った途端、嬉しさと安堵と怒りと悔しさがごちゃ混ぜになったような――二年前、辞表を見せられたときと同じ――感情が湧き上がり、止められなかったのだ。
「いいよ」
煙草の灰を落としながら、最上が言った。円筒形の灰皿には吸い殻が溢れている。限界になるまで誰も手入れをしないようだ。
とん、とん、とリズミカルに音が響く。ほろほろと灰が雪片のように落ちていく。
「なにがだよ」
「聞きたいことがあるんだろ?」
桜の屋根の下で最上が微笑んでいた。
◆
「どこ行ってた? 何してたんだ? 二年近く行方不明だなんて……全部放っぽりだして」
「経過は追ってたよ。一色さんと伯父が服役してるのも知ってる」
一色と看護師の女、最上の伯父夫妻が捕まった年の冬に、東京地裁で判決が言い渡された。一色は殺人未遂や放火を始めとする罪により懲役十五年、看護師の女は殺人未遂や監禁、窃盗の罪により懲役五年。伯父は最上とその父親の殺人教唆に問われて懲役二十年、伯母は従犯の罪で懲役二年となった。一色は無期懲役の求刑から減軽された。看護師の娘を助けたことで、放火は逃走を目的として殺人の意図はなかったと見做されたそうだ。看護師の女と伯母はともに執行猶予がついた。女は自らの意思で犯行を中止したこと――注射器の中身を入れ替えた点も含め――また誤った認識のもとで犯行に及んだこと、伯母は自首をしたこと、そして二人とも深い反省が見られることが考慮されたようだ。一色の周囲で亡くなった人間についても捜査されたが、こちらは証拠不十分で不起訴となった。伯父の借金は弁護士が立てられ、不法賭博による債権として公正証書は無効化された。この弁護士や、女と伯母の弁護士は、依頼人の名を明かさずに手配がされていた。
「あんたが手配したんだろ? 伯母さんたちの弁護士」
「まあね。伯母を裁きたいわけじゃなかったから。あの看護師の女性も一色さんに騙されたようなものだったし」
「いいのか? あんた……あのテープは聞いたのか?」
「伯母が録音した三本のテープか? 聞いたよ」
いいんだ、と最上は煙草をくゆらせた。
「たしかに……あの三本目のテープが、父の犯行の引き金になったのかもしれない。でもならなかったかもしれない。あれを聞かなくても、父は母を殺したかもしれない。分からないんだ。伯母のせいか? それとも父を唆した伯父のせい? 父の意思が弱かったせいか? 分からない……結果としてああなったんだ。伯母を責めても母はかえってこない。それに……悪い思い出ばかりじゃなかった」
最上は足元をながめていた。目尻にしわの寄った伯母の顔が浮かび、史狼も睫毛を伏せた。初めて会った夜、彼女は最上のことをあれこれと案じていた。最上に対する感情は罪悪感だけではなく、保護者としての愛情も生まれていたに違いない。
伯母は家を売り払い、仙台市内のアパートに引っ越した。近くに弟夫婦が住んでいて、ときどき会っているそうだ。
「先月様子を見てきたよ。ああ……それから、三日前に一色さんとも面会してきた」
短くなった煙草が灰皿に押しつけられる。下に水が張られているはずだが、吸い殻の山に阻まれて煙草もその一部となった。
◆
一色の服役後、史狼も一度だけ面会に行ったことがある。黒い短髪になった以外、それまでと印象はさして変わらなかった。どう見ても好青年といった笑顔で、一色はガラス板越しに立っていた。
「最上さんは? まだ音沙汰ないのか?」
「ああ、なにも」
「もう半年だろ? 残念だったな、捨てられて」
「捨てるも何もないだろ。俺は物じゃないぞ」
「そういう意味じゃ……まあいいさ。あんたはどうするんだ? まだあのマンションに居座ってるのか?」
「いや、春になったら出ていく」
「仙台に帰るのか?」
「寮に入るから。警察学校の」
「へええ……あんた、大上さん、刑事になるんだ?」
眼鏡のブリッジを押さえ、一色がガラス板に顔を近づけた。
「ああ」
「なんでまた?」
「最上が……」
「……最上さんが? あんたになれって?」
「ああ。いや……まあ、うん。そんなとこだ」
「へえ。最上さんの遺志をついで、ねえ」
「死んでないだろ。別にそんな大げさなことじゃなくて……試してみるのもいいかって思っただけだ」
「試す? なにを?」
「ほんとに祝福だって思える日が来るのかって……分からないけど」
「なんだ? また例の呪いと祝福ってやつか?」
曖昧にうなずく史狼を、一色は挑むように見つめた。
「……じゃあオレが減軽されたのは呪いか? それとも祝福か?」
「なんの話だ?」
「裁判長も馬鹿だよなあ? 懲役十五年なんてな」
「長すぎるって? あんたはそれだけのことを……」
「短すぎる。一生閉じこめておくべきだったんだ、オレを」
「……どういう意味だ?」
一色は眼鏡を外した。茶色の双眸がじっとりと絡みついてくる。
「十五年後、ここを出たら……オレはまた見たくなるよ」
「なにをだ?」
「…………知ってるんだろ、あんたは?」
背筋がひやりと逆撫でされる。無意識に通声穴に手をあてたが、一色はゆったりと首を横にふった。
「分析はもうさせない。しなくても……分かるだろ? さんざんオレの心の中を見てきたんだ、あんたお得意の心理学と共感覚とやらで」
「言えよ。なにを見たいんだ?」
「確かめたいんだ」
左手をガラス板にあてて、一色は顔いっぱいに笑みをひろげた。サーカスのピエロを彷彿とさせる寒々しい笑顔だ。史狼も右手をあてた。手のひらがしんと冷たい。
「オレはソレを見て嬉しいのか? 喜ぶのか? 親父のときと同じように……それとも、今度こそ悲しみや後悔に襲われるのか? あのとき嬉しいと思ったのは間違いなのか? それとも正しいのか? オレはソレを見て喜びたいのか? 悲しみたいのか? なあ……教えてくれよ。オレはマトモだよな?」
「あんたは……医師かカウンセラーに診てもらった方がいいんじゃないか?」
「まさか。あんな奴らにジャッジされてたまるか。あんただよ、大上さん。あんたはどう思う?」
荒涼としている。血だ。男が血を流している。胸の中に快楽が湧き上がり――笑いだす寸前に、少女が胸をよぎる。沈みこむような悲しみに――奇妙に手足が曲がった女があらわれ、腹の底が熱くなるような昂ぶりが――女の子がうずくまる姿になり苦しみに変わる。男の変形した顔が――からだ中に熱が駆けまわる。燃える炎に包まれる家をぼんやりと眺めている。空虚。落ちる。落ちる。落ちてくる男。重なる。落ちてくる父親と――狂気のような歓喜。ざまあみろ‼ ざまあみろ‼ ざまあみろ‼ 見上げれば――母親の歪んだ笑みが。
史狼は息を整える。鮮明ではない。おぼろげにしか湧き上がらない。ガラス板に阻まれていてよかった。一色の感情をむきだしで受け止めれば、叫び出してしまいそうだ。
「あんたはまともじゃない」
「イカれてるってか?」
「あんたは……。心の中でなにを思おうがあんたの自由だ。人を殺そうが欲望の対象としようが……心の中で思うだけなら誰にも裁けない。でもあんたはそれを叶えるために他人を唆してる。自分の欲を満たすために他人に殺させてる。それは異常だ。まともじゃない」
「何度も言ってるだろ? オレは唆してなんかない」
「あんたは嘘をついてる」
「堂々めぐりだな」
「わかるんだ。あんたは嘘をついてる。だって今あんたは心の中で……うなずいてるじゃないか。見下してるじゃないか。自分が背中を押しただけで一線を越えた彼らのことを」
「見下してるんじゃない、愛してるんだ」
史狼は息を呑んだ。
嘘ではなかった。
嘲るような感情が、その瞬間、高鳴るような愛しさに変わる。
「オレは欲望を愛してる。自分の欲望に正直な人間を愛してる。正直で醜い人間を愛してる。彼らはオレのこの醜い欲望を肯定してくれるからな。でも大嫌いだ。大嫌いだ……自分の醜さを突きつけられて。オレは美月みたいになりたい。あんなきれいないい人間になりたいんだ。だからオレは殺さない。だからオレは他人を試す。彼らはオレと同じように身内を…………試して、試して、試し続けて……どうだ? 次はどうなると思う?」
「どうもならない。もうあんたの周りでは誰も死なない」
「言っただろ? オレを塀の中に閉じこめておくべきだったって。十五年後の話だよ」
「俺がさせない。二度とあんたに誰かを殺させたりしない」
「へええ…………熱烈な告白だな」
ガラス板から手を離し、一色は眼鏡をかけ直した。
珍しいものを見るように、つぶさに史狼をながめていた。
◆
「一色さんは……孤独なのかもしれないな」
「あんたもそう思ったのか?」
「あの事件の日、僕と組みたいって言ってただろ? あのとき正直、少し気持ちがゆれたよ。あのとき……一色さんにもし同じ状況にいたら僕と同じことをした、って言われて、僕は嬉しかったんだ」
「ああ……そうだろうなと思った」
「三日前に会ったとき、史狼くんがどうしてるか聞かれたよ」
「え? なんて答えたんだ?」
「刑事になったって」
「まだなってないけど」
「いいじゃないか。一応刑事課にいるんだろ? 嬉しそうだったよ、一色さん。いや……愉しそうかな。笑ってた。あと十四年って言ってたけど、なんのことだ? 出所後に会う約束でもしてるの?」
「いや。絶対にもう人殺しはさせないって啖呵切っただけ」
「なんだ……すっかり刑事じゃないか」
上から下まで視線を動かして、最上はにやりと笑った。
「すっきりしたね。もてるだろ?」
「そうでもない」
「彼女は?」
「だから誰とも付き合わないって。前に言っただろ?」
「一回してみなよ。誰かとドロドロに溶け合うのも悪くないんじゃない?」
「あんた他人事だと思って」
「ほら、あのまどかさんとか」
「まどかは……」
仔馬のような目とともに、先月の光景が頭に浮かんだ。




