6-5 それはイエスという意味かね?
警察署の講堂にずらりと長机が並んでいる。昨夜、板橋区で発生した殺人事件の捜査本部である。被疑者が逃走中のため、多くの警察官が動員されることとなり、巡査の史狼にまで声が掛かったのだ。
「大上、いいか。初めてだからっつって緊張するなよ」
「はい、大丈夫です」
史狼の指導教官は刑事課の巡査長だった。年齢は二十代後半ぐらい、角張った顔つきの厳つい男だ。昨年の春、史狼は警察学校に入校した。十カ月の教養を経て、年明けにこの板橋区の警察署の地域課に配置された。そして二ヶ月が過ぎたこの四月、今度は刑事課に配置替えされたのだ。とはいえ、まだ実習期間中の身である。これまで捜査に関わったことはなく、今回が初めての帳場だ。見知らぬ顔も多く、他の署や本庁から派遣された刑事もいるようだった。
午前八時前、すでに講堂には五、六十人ほどの刑事たちが集まっている。白いスクリーンの傍にいた男が、こっちに首をまわした。史狼を目に留めると大股で近づいてくる。
ぺこ、と史狼は頭を下げた。指導教官も隣で勢いよく腰を折る。
刑事は顔中に笑みをひろげた。
「よ! 大上くんも来てたのか!」
「はい。兼森さん、よろしくお願いします」
「うぉいこら大上! 本庁の巡査部長さんだぞ?!」
「ああ、いいんだ。知ってる顔だから」
にかっと白い歯を見せて、兼森は彼の肩をたたいた。
「ははっ……大上くんもついに刑事か」
「いや、まだ巡査です」
「早く一課に来いよ。推薦してやるから」
肩の手から、じんわりと温かな気持ちが湧き上がる。
史狼は懐かしさに顔をほころばせた。
◆
二年前の夏――最上は海に飛びこんだ後、八月になっても行方が分からなかった。遺体も見つからず、生死不明のまま数週間が過ぎた。街路樹でツクツクボウシが鳴く夏の終わり、史狼は石田管理官から呼び出された。
警視庁のロビーで、石田は一通の封書を手渡した。
「これは……?」
「辞表だ」
石田にうながされ、彼は封書を開いた。見覚えのある筆跡だ。几帳面に整った、やや右上がりの尖った文字。同居生活で何度も見かけたこの文字は――書面のある一点に史狼の目は釘づけになった。
日付は【八月末日】と書かれている。
「これっ……いつ?! いつ受け取ったんですか?!」
「いい質問だ。あのバカが海に飛びこむ前ではない……と言えば分かるか?」
「あの人は……っ‼」
「そうだ。最上は生きている」
詰め寄る彼に嫌な顔もせず、石田は穏やかにうなずいた。
「どこで?! 今なにをして……っ?!」
「すまない、それは言えない。だが無事だ。安心しなさい」
「石田さんは……最上と連絡を取ってるんですか?」
答えはなかった。
落ち着いた年長者の目で、石田が彼を見つめている。たとえ非難を受けようと、甘んじて受け入れるという顔つきだ。きっと何を言われても口を割る気はないのだろう。
「今日きみに来てもらったのは、一つ頼みたいことがあってな」
「頼み……ですか?」
「ああ。大上くん、きみ、刑事にならないか?」
「……はい?」
「それはイエスという意味かね?」
「いや! そうじゃなくて……なんでですか? そんな突然」
「きみは最初に会ったとき、警察官になりたいと言っていただろう?」
「あれは……最上が勝手に」
「最上が?」
「いえ。なんでもないです」
史狼は窓際のソファを見やった。三ヶ月前、あそこに立ち――あいつは悠々と小憎らしい笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
――史狼くんは警察官になりたいそうだ。と。
「そう、最上の希望なんだ」
「……最上の?」
「最上はきみが刑事になればいいと思っている。それに兼森や宮川と、私もな。きみは目の前で犯罪が起きれば、見ないふりができない人間だ。そうやって前髪で目を隠していても、だ。私もきみは刑事に向いていると思う」
「それは……どうも。最上が言ったんですか? 俺に刑事になれって?」
「ああ、いや、別に命令ってわけじゃないぞ。強いて言うならお願い、だ。たしかこうだったな。史狼くんは刑事になればいいんだ。あの力はきっと捜査の役に立つ。そうやって自分を肯定していければ……いつか呪いも祝福だって思える日が来るはずだ」
石田はロビーの天井を見上げ、記憶を探るように口を動かした。
ぎゅっと史狼は目をつむった。
仙台のホテルで吸った煙草の味が、なんだか無性に懐かしい。
史狼は手のなかの書面を見つめた。
…………自分が刑事を辞める代わりに、俺に刑事になれってか?
一緒に捕まえるって言ったくせに。
勝手に一人で消えたくせに。
罵りの言葉が暴れまわる。
今もし誰かが彼の心をのぞき見れば、感情に酔ってしまうだろう。川に注ぎこむ雪解け水のように、想いは勢いよく溢れて止まらない。
「……保留にしてもいいですか」
いつもの硬い顔でうなずき、石田は彼の背中をたたいた。
濁流のような心に温かな炎がちらつく。
温かな――彼を励まそうとする想い。これは石田の感情だ。
石のようにだんまりとした男に、史狼は気持ちが伝わるように頭を下げる。
ゆっくりと、丁寧に――。
顔を上げれば、石田は不慣れな様子で笑っていた。
◆
コツ、と足音を鳴らし、兼森の後ろにもう一人の刑事が立った。
「宮川さん、お久しぶりです」
「おはよう、大上くん。一緒にがんばりましょうね!」
きゅっと眦を上げ、宮川が彼の両手を握りしめる。
闘志が炎のように燃え上がる。
史狼がうなずく間もなく、その手は宙に放たれた。
「あっ! ごめんね大上くん! わたしまた気安く触って……」
慌てて一歩下がる宮川に、史狼はぽかんと口を開けた。思わず吹きだして、目の前のウサギのような瞳をのぞきこむ。
「大丈夫です。宮川さんなら安心ですから」
一言、一言、ゆっくりと、言い聞かせるように声を出す。
宮川の雪のような頬がぽっと赤くなる。
「えっ……と、大上くん? なんか……雰囲気が変わった? 髪型のせいかな?」
たぶんそうです、と史狼は笑った。
一年前――警察学校に入校する前日、史狼は前髪を切った。洗面台の新聞紙の上に、はらはらと黒い髪が落ちていく。鏡に映った濃い茶色の目が自分を見つめている。最上とも一色とも違う。母親にそっくりな――史狼はじっと二つの目をながめた。本当に? この目は母親と似てるのか? あの哀しみを湛えた脆いまなざしとは違う――意志の強そうな双眸が彼をにらんでいる。史狼は何度かまばたきした。これは……俺の目だ。同じじゃない。俺はあの人と同じじゃないんだ。いつから自分がこんな目をしていたのか――ずっと隠していたから気づかなかった。地元にいたときから? 上京してから? いや、と史狼は思う。
きっと――あいつと同居を始めてからだ。
あの日を境に、史狼の目に映る景色は一変した。史狼は鏡をのぞきこみ、くしゃりと相好を崩した。最上が消えて以来、久しぶりになんだかいい気分だった。
当時のことを思い出し、史狼は自然と笑顔になった。ふと視線を感じる。兼森が戸惑うような表情で彼を見つめていた。史狼は首をかしげた。
「兼森さん? どうかしました?」
「うん? いや? いや! なんでもないない」
からりと笑い、兼森はいつもの顔を見せた。史狼はがっしりした肩に手を伸ばす。以前も兼森は笑いながら、本部長へのコンプレックスを隠していたのだ。
……胸が灼けるような、ちりちりと焦がれるような。
…………これはたしか、宮川が最上に抱いていたあの感情と同じ。
………………恋心?
「どうしたんだ? 大上くん?」
「あ、埃がついてました」
兼森の肩をおざなりに払い、目の前の二人を見比べる。兼森と宮川。兼森はちらと横目で彼女を見て、一方の宮川は、やる気を漲らせて史狼を見つめている。そうか……兼森さんは宮川さんのことが好きなのか。そう思い至り、史狼は複雑な気持ちになる。
兼森の恋は前途多難かもしれない。
最上が生きていると聞き、宮川は声も出さずに泣いたという。昨年の春、警察学校に入校すると報告すると、宮川は自分のことのように喜んでくれた。史狼の両手を握ってぶんぶんと振り、ああっごめんね! と言って放した後で――そっと耳打ちしたのだ。
『がんばりましょうね、大上くん! わたしも……がんばります。一生懸命がんばって、いつか主任にまた会えたら……今度こそ気持ちを伝えます』
指導教官が姿勢を正し、直角に近いお辞儀をする。
兼森たちの背後に石田管理官が立っていた。知らない者が見れば不機嫌そうな顔で、指導教官に会釈する。兼森と宮川に軽くうなずき、最後に史狼に視線を止めた。
「付いてきなさい」
石田があごをしゃくって背を向ける。早足の男のあとを追い、史狼はちらと後ろを振りかえった。兼森と宮川が見守るように立ち、指導教官はぽかんと彼を眺めていた。
◆
連れて来られたのは警察署の裏庭だった。庭というより空き地のような、40坪ほどのアスファルト敷きの場所である。右手には駐車スペースがあり、左手にはブルーシートや雑多な物が積まれている。その奥にはベンチと灰皿が据えられているが、桜の大木の陰になり、ここからではよく見えない。アスファルトに淡いピンクの花弁が散っていた。
ほとんどの警察官はもう講堂に集まっている。史狼と石田の他に人影はなかった。
いや――史狼は目を凝らした。
大木の向こうで、ベンチに男が座っている。
史狼の隣で、石田が立ち止まった。
ベンチの男が顔を上げる。
「じゃあな、大上くん。捜査会議が始まるまでに戻りなさい」
彼が答える間もなく、そそくさと石田は姿を消した。
男はベンチから腰を上げ、ゆっくりと史狼に近づいてくる。
唇にくわえた煙草を離し、男は煙を吐きだした。
「だから言っただろ? きみは刑事に向いてるって」
「……………………最上」
懐かしいものを見るように、薄茶の目が細くなった。




