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5-9 うっとうしいよ、あんたは

今話には、東日本大震災に言及する会話が一部あります。

 サイレンの音が鳴り響く。


 一色の後を追おうとする最上を、警察官が制止した。「最上主任! だめですっ! もう炎に巻かれます‼」「いいから退け……」サイレンが止んだ。背後が騒がしくなり、消防隊員たちが駆け寄ってくる。ホースが構えられる。勢いよく水が噴きだす。防火衣を着た隊員たちが最上にうなずいている。空気ボンベを背負い、炎に飛びこんだ。


 史狼の腕のなかで女が荒い息を繰りかえす。

 煮え滾るような感情を吸いこんでいく。

 一分。二分。三分。四分。ご……。

 梯子から隊員が降りてきた。

 腕に女の子が抱かれている。

 史狼の腕を振りきり、女が駆けだした。

 もう一人、隊員が降りてくる。

 ぐったりとした男が背負われていた。



 窓を夕陽が染めている。

 男の蒼白な顔も、橙の病室のなかで温かく照らされている。

 史狼はベッドの横に立ち、一色を見下ろしていた。


 あと少し救助が遅れていればこの男は死んでいた。一色はすぐに救急車で運ばれて、緊急手術を受けた。メグミは軽い火傷を負ったが命に別状はない。一色がかばうように胸に抱いていたからだ。

 点滴につながれた一色の右腕に触れてみる。

 なんの感情も湧き上がらない。

 昨日から一色の意識はまだ戻っていない。

 死に近い、静かな眠りだった。




「……なんであんたは」

 橙の海のような床に、史狼の声がこぼれ落ちる。

「…………なんでだ?」


 ぞわ、と不安が湧き上がる。

 後から、後から。

 からだの内側がやすりで削られていくような不安。

 自分の感情ではない。

 ぴく、と一色の指がはねた。

 重たげにまぶたが上げられる。


「…………か?」

「なんだ?」

「……無事……のか?」

「ああ。全員……無事だった」

「……グミちゃんも?」

「腕と足に軽い火傷を負ったけど命に別状はない。念のため、昨日と今日は入院してる。母親がついてる」

「……そうか……可哀そうに」


 一色の首が横をむく。じっと史狼を見つめている。

 その虹彩は最上よりやや濃い茶色だ。

 昨日は炎が映って明るく見えたか。


「看護師を呼ぶ。そのまま寝てろ」

「……待て」


 視線が蛇のように絡みつく。


「どうした?」

「……彼女になにを……言った?」

「彼女って、あの看護師の女性か? なにも……ただ説得しただけだ。あんたが嘘をついてるって」

「あれは……どういう意味だ?」

「なんのことだ?」

「祝福って……」

「ああ……最上のか。あれは…………たとえ話だ。自分の持ってるもんが呪いか祝福かっていう」


「……なんだって?」


「だから……そうだな。俺は自分の顔が嫌いだ。嫌いな母親とそっくりだから。これは俺にとって呪いだった。だけど最上は……持ってるもんは変わらないから、どうせなら呪いじゃなくて祝福だと思えって。そっちの方がいいだろって、そういう話だ」

「は……なんだ。意外にポジティブな人だな」

「たぶん……考えたんだろ。自分に欠けてるピースを補うためにどうしたらいいか。もうどうしても手に入らないなら、それを認めて受け入れて、そうやって生きてった方が得だって。あいつは怒るのも悲しむのも止めて、そう【判断】したんだと思う」

「……ムカつくな」

「はあ? なんで」

「その……なんでも分かってますって……顔が」

「知るか。分かってるわけじゃない。俺が勝手にそう思ってるだけだ」


 そうだ。仙台にドライブした朝以来、最上の感情は確かめていなかった。それをどんなに後悔しても……もう遅いのだ。


「あんまり喋るな。気道も火傷してるはずだ。……俺も聞きたいことは色々あるけど我慢してるんだ。大人しく寝てろよ」

「なんだ? 言ってみろよ」


 こっちを向いたまま、ゆっくりと睫毛が瞬いた。


「……なんでだ?」

「なにが」

「なんでメグミちゃんを助けた?」

「……巻きこむつもりは……なかった」

「あんたは人殺しだ。なんでだ?」

「……まだ……それを言うのか。あんたも大概……しつこい人だな」

「講師が飛び降りた夜、あんたはご遺体を見て狂喜してた。保護者が亡くなったときも、教授の妻が亡くなったときも、自分の父親が亡くなったときも……あんたは血まみれのご遺体を見てあんなに嬉しがってただろ……なんでだ? あんたはただのシリアルキラ―じゃないのか? 自分では手を下さずに他人を唆すようなずるい……なのになんでメグミちゃんを助ける? なんで……あんたは妹さんのご遺体だけは思い出さない?」




 史狼はぶるりと震えた。

 寒い。病室のエアコンはさほど強くはない。

 一色の……こんな感情は初めてだ。

 内臓が薄氷のように砕けて割れそうだ。




「……見てない」


 ガラス玉のような目が二つ、天井に向けられる。

 なんの意思も感じられない虚ろなまなざしだった。


「……美月の遺体は……見てない」

「見てない?」

「見れなかった……見たくなかった……」

「交通事故だって聞いた。あんたの母親に」

「ああ……こそこそ……嗅ぎ回ってたな、最上さんと。そうだ。事故だった。親父が……外出したんだ。オレは模試で……お袋も用事があって……親父に留守番を頼んだのに……あいつは美月を残して…………外出した……」


 どこか遠くを眺めるように、目がぼんやりと動く。


「美月は……一人で公園に行って……車に轢かれて死んだ」

 史狼は足元を見つめた。床も、ベッドの脚も、布団も、壁も、カーテンも橙に染まっている。窓に連なる山に目を凝らす。太陽が――まるで一色の怒りのように赤々と燃えている。

「……親父が……浮気相手と……やってる最中に、だ……」


 目をつむる。赤い残像がまぶたにちらつく。今すぐにこの手をはなしたい。一色の感情に呑みこまれそうだ。

 一色が首をこっちに傾けた。


「あいつ……どうしたと思う?」

「分からない」

「……笑った……美月が死んで……親父は笑ったんだ……」


 薄い唇は笑みになりきれず、ごほ、と立て続けに咳をした。


「もう話すな。看護師を呼ぶよ」

「……いいだろ。付き合えよ……あんた……大上さん、地元は仙台だったよな?」

「そうだ」

「震災のときは……小学生ぐらいか……?」

「ああ、そうだけど」

「……家族は?」

「無事だった」

「良かったな…………オレは……高校生だった……あの日…………親父は校外学習の下見で……沿岸部にいた」

「……そうか」

「……そう言ってた……だから……オレとお袋は探しに行って…………でもあいつは……市内の避難所にいた……」

「……ああ」

「浮気相手と一緒にいた……嘘だった…………下見なんて……行ってなかった」

「そうか」

「はっ……お袋は……三つ指ついて出迎えるような女だけどな……殺したい……って……つぶやいてたよ……」


 男が、落ちる。落ちる。落ちてくる――。


「……一色、あんた、どこにいたんだ?」

「いつだ……?」

「父親が亡くなったときだ」

「自宅だよ……深夜だったからな」

「自宅のどこに?」

「二階だ。大きな音がして……部屋から出たら……親父が倒れてた……」

「嘘だろう?」


 一色が探るように目を細める。


「あんた……なんなんだ? やっぱり探偵気取りか……? そんな嘘をついてなんに……」

「一階だろ? あんたがいたのは?」


 じっとりと視線をぶつけられる。


「……なんの話だ」

「あんたが見たのは落ちてくる父親だ。母親が見たのが落ちていく父親だろ? 二階にいたのは母親で、あんたは一階にいたんだ……なんで嘘をつくんだ?」

「……さっきから……想像力が旺盛だな。生徒だったら……褒めてやりたいとこだが……うっとうしいよ、あんたは」

「……庇ってるのか? 母親を」


 一色の唇が開いて、また引き結ばれた。

 なにも言葉は出てこない。

 逸らしたら負けとでもいうように互いに睨み合う。

 口火を切ったのは一色だった。


「親父は……酔っ払って階段から落ちたんだ。庇うもなにも……ないだろうが」

「母親が突き落としたんだな?」

「あんたは……ほんとに失礼な奴だな……人のお袋を……」

「それを庇ってるんだな?」

「……違う」

「でも……喜んでもいるんだ。亡くなった父親に対してだけじゃない。道を踏みはずした母親に対しても、嬉しがってざまあみろって……あんたは父親だけじゃない。母親のことも憎んでるんだ」




 一色はぱちぱちと瞬きした。

 いっそ子どものような幼い仕草だった。

 なんで空は青いの?

 なんで夕焼けは赤いの?

 無邪気にそう尋ねるような――。




「……なんでだ? 大上さん、あんた……なんなんだ?」

「俺は…………心理学とカウンセリングを学んでるんだ。特に犯罪者の心理に興味があって、いろいろ分析してる。その……ついでに共感覚みたいなのもあって、対象の人間に触れることで感覚が研ぎ澄まされるんだ」


 苦しまぎれに、以前に聞いた最上とまどかの言葉を交ぜてみる。自分の能力を一色に打ち明けるつもりはなかった。


「なんだそれ……結局ただの想像じゃないか……」

「……そうだ。でも間違ってはないだろ?」

 一色の視線がベッドの右端に移る。史狼が触れた腕を見て、皮肉げに唇が上がる。

「つまり……俺を分析中ってことか…………なんだ。あんたやたらと……べたべた触ってくるから……いろんな奴に手を出してんのかと……」

「んなわけあるか」


 憮然と言い放つ彼に、くっと押し殺すように笑いが漏れる。


「……オレの親父は……堅物だって有名な教師だった……真面目で……品行方正……だからオレも常に正しいことを……しろって親父とお袋に言われて育った…………他人を妬んだり……嘘をついたりするのは醜いって……だから…………オレは良い人間になろうとした」


 薄緑と白のストライプの病衣から、浅く日焼けした前腕が出ている。内側に点滴の管が刺さっている。病衣越しにふれた上腕を、史狼は思わず握りしめた。上体が前のめりになる。一色の話は核心に近づいている。


「どの口が……って思ったね。今まで……あんたらが言ってきたこと……見せて……きたことはなんだったんだ……て。お袋も……見てみぬふり……美月に……にこりともせずに…………違うだろうが。あんたが……守ってやらなくて……どうする……」


 胸のなかに溶岩が溢れだす。

 怒りが燃え狂う。


「あんたは妹さんが大事だったんだな。大事な……家族だった」

「あいつは醜くない。親父とも……お袋とも……オレとも違う。あいつといるときのオレは…………いい人間になれた気分だった」

「だから殺させたのか? 復讐のために、母親にあんたの父親を?」

「……オレはなにもしてない。お袋の感情は正しいって……肯定してやっただけだ……親父は自分で落ちて死んだ。あれはただの事故だ……」

「でもあんたの母親は、二階にいたのに嘘をついてるだろ」

「……だめだねえ、大上さん」

「なにがだ」

「人間観察が足りないな。いいか、人間ってのは……信じたいものを……信じる生き物なんだよ」


 にっこりと感じよく笑われる。二人の会話さえ聞いていなければ、好青年にしか見えない笑顔だ。史狼には嘲りの笑みに見えたが。


「一階にいたと思いこめば……自分にとっては……それが真実なんだ。事故だと思いこめば……それが真実になる。自分の心の中身なんか……他人には絶対に分からない……そうだろう? なんなら……自分だって騙せる……自分は悪くないって思いこめばな。だから証拠でもない限り……裁きようがない。違うか?」

「あんたはそうやって、みんなを肯定して……道を踏み外させたのか?」

「……言っただろ? オレはなにもしてない。あんたが……勝手にシリアルキラーだとかなんだとか……でたらめを言ってるだけだ」

「でもあんたは俺を殺そうとした。今度は逃げられないぞ」

「……だろうな」

「放火まで……なんであんなこと」


 一色は笑みを深くした。さっきとは違い、自嘲の表情に変わる。


「いつもテレビのニュースで……強盗事件なんかを見る度に……馬鹿だなあって思ってたんだ。逃げたって……逃げ切れるわけないだろ……って」

 ひゅっと笑うような息が漏れる。

「最上さんに賭けてみて……振られたら……潔く捕まってもいい……って思ってたはずなのにな。分かったよ……人間ってのは……結果がだめだと分かってても……いざとなったら悪あがき……するもんだ」


 男の虹彩に夕陽が映り、薄茶と橙が混ざり合っている。

 その色が最上と重なっていく。


「最上は撃てなかったって」

「……なんの話だ?」

「あんたの目だ。あんたが窓から逃げたとき、たしかに火と煙で視界も悪かったけど……眼鏡を外したあんたの目が、自分と同じに見えたって。だから撃つのを一瞬ためらったって……そう言ってた」

「なんだ……完全に振られたわけでも……なかったか」



 一色は微笑して天井を見上げた。



「……あれから一日半寝てたんだな。最上さんは? 警視庁か?」

 史狼は窓に目を凝らした。

 太陽はもう山の峰に隠れている。

 稜線はわずかに赤の名残があった。

「いや……最上はいない」

「なんだ? まさか……仙台まで父親を……捕まえに行ったのか?」


 史狼は何度も睫毛をはためかせた。

 喉がひりついて言葉がうまく出てこない。


「最上は海に飛びこんだ。まだ……見つかってない」

 引き波のように橙は消え、薄闇が足元にせまっていた。

・明日(1/6)も第六章(全8話)をすべて投稿します。夜には完結予定です。

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