5-8 冬の臭気
一時間前、午前九時二十分。
八王子西インターを降りた先で、一色のバイクは最上の車を追い越した。そのまま脇道に逸れて見えなくなる。
「追いかけますか?」
「いや、車だと通りづらい。どうせ数分の差だ。このまま進む」
最上はインカムに耳を傾ける。
『……ほら、やっぱりそうだ』
『え……?』
『……………………なんでもないです。一つ、お願いしていいですか?』
『あっ、ごめんなさい! 縄を解きますね』
『いえ、や、それもですけど……証言してくれませんか? 一色に教唆されて、俺を監禁して殺そうとしたって。一色はこの家に向かってます。あなたが証言してくれるなら、今すぐ警察に出動してもらいます』
『それは……出来ません』
『どうして? まだ一色を庇うんですか?』
『違うんです。これはわたしが計画したことなんです。困っている一色さんを見て、なんとかしてあげたいって思って。マンションで待ち伏せして、麻酔薬を打って眠らせて、カリウム製剤を注射してと……全部わたしが手筈を整えました。一色さんはなにもご自身で手出ししてないんです』
『だけど一色があなたを騙して!』
『それでもです。わたしがやったことを、一色さんに着せるつもりはありません。それに……』
『なんですか?』
『もしかしたら、途中で一色さんの気が変わって……あなたに謝ってくれるんじゃないかって…………ごめんなさい。心のどこかでまだそう思ってるの』
『…………分かりました。じゃあこのまま一色は泳がせます。もし俺を殺そうとしたら現行犯で逮捕します。それでいいですね?』
『はい……あの。縄を外しますね』
『あ、いえ、緩めるだけでいいです。あなたが裏切ったことに気づかれたら、一色が危害を加えるかもしれません。逃走される恐れもありますし』
『分かりました』
『……何をしてるんですか?』
『注射器の中身も……入れ替えておこうかと』
『何ですか、それ?』
『生理食塩水です。打つか打たないか決めるのはわたしなんだから、こんなの必要なかったんですけど……でも万が一の時のために』
『用意しておいたんですか?』
『……はい』
『じゃあやっぱり、これで良かったんです。あなたは無意識に……助けるための選択肢を残したかったんだと思います』
最上は長く息を吐いた。
ハンドルが湿っている。いつの間にか手が汗ばんでいた。
住宅街は次第に家がまばらになり、山裾の道を進んでいる。
最上はアクセルを踏みこんだ。
◆
「突入」
ベランダの掃き出し窓が開く。
ボブの黒い髪が揺れ、宮川が手錠を手に飛びこむ。
そのとき史狼の――おそらくその場の全員の――意識が数秒そこに向けられた。
一色をのぞいては。
つんとした冬の臭気が漂う。
ベッドと畳に油のような液体を撒き散らし、
血のついた指で空のペットボトルを捨てて、
ホイールを回し、一色はライターを放った。
炎がゆらめく。
火の粉が舞い上がる。
頬が熱になぶられて熱い。
宮川が手をのばす。
最上が引き金に指を掛ける。
史狼は畳を蹴った。
一色と目が合う。
眼鏡を外したその目は、最上と似た薄茶のガラス玉のようだ。
橙の火がガラス玉のなかで燃え――炎の壁に阻まれる。
眼球が焼けつくようだ。
たまらず瞼をつむる。
次に目を開けたとき――壁際の窓に一色が身を躍らせた。
「出よう」
最上が鋭く声を上げた。「宮川、そっちから出れるか?」「はい! ベランダから下屋を伝って追いかけます!」炎に煽られて宮川の姿がかき消される。背中が燃えるように熱い。最上は引き戸を開け、女と史狼を押しだした。
上体を低くして廊下を右手に進む。階段を下りた。一階の廊下の奥に赤々と炎がゆれている。一色が数箇所に火を放ったらしい。喉が痛い。煙から逃げるように玄関に走る。
振りかえれば、二階建ての家屋が炎に包まれていた。
「消防は?!」
「要請してます‼」
青い制服を着た警察官たちが、怒声を上げている。
「どこに行った?!」
「林だ! 火をつけやがった‼」
「追え‼」
「宮川査長が追いつきそうです!」
裏手の雑木林が橙に燃えている。ぱちぱちと爆ぜるように火の粉が散っていた。
「ええっ?!」
隣で女の金切り声が上がった。
誰かと通話中のようだ。
両手ですがるようにスマホを耳にあてている。
「帰った?! 帰ったんですか?! いつ……一時間半前っ?!」
「どうしたんです?!」
女が充血した目で振りかえる。
「メグミが……お腹が痛くて早退したって……一時間半も前に……」
史狼は女の視線を追った。
二階の窓。
あの和室の隣の部屋だ。
「まさか……」
がたがたと震えながら、女はスマホを操作した。
ぽつり、と声が漏れる。
「…………いた」
女が画面から顔を上げた。
炎がゆらめき、踊り、暴れている。
「いっ…………いやあああああああああっ‼」
史狼は女を押さえつけた。
腕のなかで半狂乱にもがき、炎に飛びこもうとする。
「どうした?!」
「最上‼ メグミちゃんが二階に取り残されてる‼」
ちら、と炎に視線を上げ、最上は目をすがめた。
「僕が行く。そこで止めておいて」
わめき暴れる女を警察官と二人がかりで押し止める。
【宮川、娘さんが二階に取り残された。僕は入る。そっちは頼んだ】
【娘さんがまだ二階に?! 分かりました! お気をつけ……えっ?】
最上は無線を切り、炎に目を凝らす。
足を踏みだした――そのとき。
風のように横を人影が走りぬけていった。
かろうじて見えたのは、黒いTシャツを着た後ろ姿だった。
一色は炎に呑まれるように消えた。