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5-7 ぽとり、ぽとりと赤く染まる

 背後からバイクの排気音が聞こえた。

 左手の窓でざわざわと梢が揺れている。

 右手から階段の軋む音がする。

 廊下を鳴らす足音が近づいてくる。

 大人の男のものだ。ゆっくりと、焦らすように。

 引き戸が開いた。

 部屋の入り口で立ち止まり、一色は悲しそうに微笑んだ。


「すみませんねえ、大上さん。こんなことになって」

「いえ、一色さんも命を狙われてたんですね。知りませんでした」

「ああ……事情を話されたんですね?」


 一色は優しい顔を女にむけた。こく、と女がうなずく。その頬をひと撫でし、一色は彼女の顔をのぞきこんだ。


「驚かないんですか? オレはここに来ない手筈だったのに」

「信じてました……わたしを一人にしないで、きっと様子を見にきてくれるって。あなたは優しい方だから」

 一色は目を細め、かがめた腰を上げた。

 ちらと視線を、史狼の手と足に向けてくる。

「彼のスマホは? どうされました?」

「予定どおり、公園の茂みに捨てました」

「そうですか……」


 ぱっと立ち上がり、一色は窓を見つめた。史狼も背後を振りかえる。ベランダの掃き出し窓から、車のドアが閉まる音がした。


 一人分の足音が聞こえてくる。


「……ずいぶん急いだようですねえ、最上さん」

 蛇のような目つきで、一色は引き戸に振りむいた。



 引き戸の前に最上が立っている。


 いつもの黒いスーツ姿で、両手は大腿の横にある。その手は空だ。いつものように軽く口角を上げ、澄ました微笑をうかべている。いつもと何も変わりない。史狼と一瞬だけ目が合ったが、すぐに視線を外された。


「どうしてここだと思ったんです? 最上さん」

「あの暴走車の一件で、彼女の自宅は把握していたんです。あとは勘ですよ。刑事をしてると何となくピンと来るんです」

「へええ……すごいですねえ、刑事さんは」

 一色はおどけるように、小首をかしげた。

「それで? どうしますか。ここまで来て、それから? あ、そこのベランダから飛び降りますか?」


 すっと指先が、ベッドのむこうの掃き出し窓に伸ばされる。

 最上は微笑したまま首を横にふった。


「いえ、やっぱり僕はまだ死ぬ気はないんです」

「なるほど、さすが最上さんだ。大上さんを犠牲にされますか。あなたはそういう人間なんですよ、自分のためなら人殺しも厭わない」


 一色は上体をひねり、女にうなずいた。

 テーブルに置いた注射器が女の手におさまる。


「正午まで、あと二時間半も待つ必要はないですね。最上さんにその気がないなら、いつまでも大上さんを怯えさせる方が酷でしょう。ねえ、大上さん?」


 右肘の内側に針があてられる。

 史狼はぎゅっと目をつむった。


「止めろ」

 最上が一歩前に踏みだした。

「……嫌だなあ。危なっかしいですよ、そんな物」


 銃口は女の右手に向けられている。


 一色はくいと眉を上げ、革製のボディバッグから何かを取りだした。何か――目を凝らしてみれば、刃渡り15㎝ほどの果物ナイフである。一色はかがみこみ、史狼の左の首すじにぴた、と刃先をあてた。


「最上さん、同時に二人は無理でしょう? 選ばせてあげたらどうですか? 薬物で死ぬか、刃物で死ぬか。ああでもカリウム製剤を静注されたら激痛みたいですよ。でも彼女が撃たれるのはかわいそうだ……大上くんには我慢してもらいましょうか」


 最上は銃口を右側へ――。一色の足へと移動させた。


「どうして? 僕が人殺しだと言うんです?」

「あなたのことは調べました。ま、素人のオレができる範囲でですけど。八歳のときにご両親が刺殺されたんですね。それも互いを刺し殺した……なかなかに凄惨な事件です、同情しますよ。でも最上さん。あなた……自分が殺したんじゃないですか? 母親か父親か、それともどっちもか……までは分かりませんけど」

「ひどい誹謗中傷だな。名誉棄損で訴えますよ?」

「オレはね、最上さん。人間観察が趣味なんです」


 ひたひたと、史狼の首すじをナイフがたたく。


「例えば……そう。彼女は優しい女性だ。慈悲深くて、こんなオレにも同情を寄せてくれてます。それから大上さん。可愛くて繊細そうな面立ちをしてますがね、ただの生意気なガキですよ。いつも人のことを知ったような顔でながめてくる」


 史狼は渋面を浮かべた。だってほんとに分かるんだ、仕方ないだろ。


「最上さん……あなたは本心を見せない人だ」

「誰だって親しい人間にしか本心は見せませんよ」

「そういうことじゃない。分かってるんでしょう? あなたはいつもそつなく振る舞っている。自分の言動が相手にどんな印象を与えるか、知ってる人間の態度です。多くの人はあなたに好感を持ち、素晴らしい人間だと褒め称ええるでしょう」

「どうしました? 一色さん、僕を口説き落とすつもりですか?」

「そうですよ。あなたとオレは同類なんです。あなたが出来ることはオレにも出来る。オレに出来ることはあなたにも出来るはずだ。もしオレが八歳のとき、あなたと同じ状況にいたら……きっとあなたと同じことをしましたよ、最上さん」


 最上の目がすうっと細くなる。初めて一色を意識したような顔つきだった。


「……僕と同じことをした?」

「はい、あなたは一人じゃない。オレもあなたと同じです」

 薄っすらと最上の唇が開く。言葉を探すように、最上はじっと一色を見つめた。

「これは賭けなんです、最上さん」

「賭け……ですか?」

「はい。こんなやり方はオレの流儀じゃない。言ったでしょう? イレギュラーだって。だけどあなたがオレの側に来てくれるなら……賭けてみてもいいかと思ったんですよ」

「……あなたの側に?」

「そうです。オレと一緒にいればあなたは救われますよ、最上さん」


 一色は哀れむように笑った。

 最上の顔がくしゃりと歪む。


「…………二つの未来があったんです」


 ぽつん、と漏らされた言葉に、三人の視線が集まった。


「一つは、僕があなたの側にいる未来です。怒りのままに行動してすべてを終わらせようとする……まあ、あなたと組む前に死んでいたかもしれませんけど」

 さらりと言われ、一色は片方の眉を動かした。

「……もう一つは?」

「刑事としてあなたたちを捕まえる未来です」

「それで? あなたはどっちを選んだんです?」

「聞くまでもないでしょう」


 歪んだ眉が、目が、頬が、唇が、ゆっくりと笑みをかたちづくる。

 それに反比例するように、一色の顔が歪んでいった。


「……なんで」


 最上はおもむろに首をまわした。史狼を見て口元を上げる。


「信じてみたいと思ったんです」

「は……? なにを」

「まだシロに近いグレーでした。完全にシロじゃない。僕に恩を売るつもりなのかもしれない。むき出しの自分をあずけて寝首を掻かれたら? さっさと遠ざけるのが最適解でした。でも遠ざければ踏みこんでくるし、首輪をつければ逃げようとするし……ほんとに名前どおり野生動物を手懐けてる気分で……」


 ふっと可笑しそうに吹きだされ、史狼は呆れて目を細めた。

 そこ笑うとこか、今?


「……なんの話ですか? 最上さん」

「信じてみたいと……自分の感情に任せてみたいと思ったんです。だから今、僕はここにいるんですよ。ね? だからやっぱり……感情も祝福だろ?」

「祝福?」

 最上はこっちを見て微笑している。

 その態度が気に障ったように、一色はぴた、と刃先を定めた。

「……やっぱり始末しておけばよかったなあ」


 微笑を崩さず、最上は撃鉄を起こした。


「一色さん、十秒上げます。ナイフを捨てて投降してくれませんか? それから……あなたも、その注射器を下げてくれませんかね?」


 一色が女に顔をむけた。

 震える手は注射器を握ったままだ。

 満足げに正面をむき、一色は最上を見上げた。


「やっぱり薬物を選ぶんですか? サディストですねえ、最上さんは」

「刺殺のご遺体を見るのは嫌いなんです。色々と思い出すもので」

「なるほど……オレを捕まえても、結局あなたは大上さんを見殺しにするんだ」


 一色が女にうなずいた。

 針の先端が、爪を立てるように押しあてられる。




 十、九、八、七、六、五、

 最上の声が念仏のように響く。

 二、いち……。




 引き金に指が掛けられる。


 銃声が轟いた。


 白いベッドがぽとり、ぽとりと赤く染まる。一色は左の前腕を押さえ、顔をしかめていた。引き金が引かれる寸前に、ベッドに飛び上がったらしい。指のすき間から血が零れている。避けきれず肉を掠めたのだろう。銀のフレームの眼鏡が畳に落ちている。その横で弾がめり込んでいた。


 信じられない、という顔で一色が目の前を見つめる。

 史狼は床に落ちたナイフを拾った。

 正面を見据え、じりじりと後ろに下がる。

 女と最上の横で、史狼は立ち止まった。


「どうして……」

「ごめんなさい、一色さん」

 しんと澄んだ雪のようなまなざしだった。

 女は静かに見つめていた。

 その視線を受けとめて、一色も静かに笑みをひろげた。

「なるほど…………寝返りましたか」


 赤くなった十本の指を、一色はおもむろに耳の横に上げた。

 最上はまだ銃を構えている。


「突入」


 低い声が発せられた。

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