5-6 優しい嘘
「メグミちゃんはどうするんですか? あなたが捕まったら。親戚に預ける? それとも施設に入れるんですか?」
「親戚はいないの。でも一色さんが面倒を見てくれる約束だから」
「……一色が?」
「ええ。あの子もよく懐いてるから。わたしのことはすぐに忘れて……きっと一色さんをお父さんみたいに慕ってくれるはず」
……一色をお父さんみたいに?
史狼を車で轢こうと計画した男が?
最上を線路から突き落とし、タイヤをパンクさせた男が?
講師が屋上から落ちる姿に血を沸き立たせる男が?
交通事故で顔の潰れた遺体を見て恍惚とする男が?
ベランダから落ちて四肢の砕けた遺体を見て興奮する男が?
階段から落ちた父親の遺体を見て笑いだしそうになる男が?
……あり得ない。
「俺も知ってますよ、一色の秘密を」
「え……なんですか?」
「一色は人殺しです。シリアルキラーと言ってもいい」
「大上さん、一色さんは冤罪だと……」
「あの飛び降り事件だけじゃありません。知ってますか? 一色が小学校の教師だったとき、保護者が交通事故で亡くなってます。大学生のときは、教授の妻がベランダから落ちて亡くなりました。父親は階段から落ちて亡くなって、それに……妹さんも交通事故で亡くなってます」
「……知りませんでした。一色さん、そんな……可哀想に」
「一色は喜んでましたよ。ご遺体を見て」
「まさかっ‼ 嘘を言わないで‼ やっぱりあなたは一色さんの言うとおり嘘つきなっ……」
「じゃああなたは一色のなにを知ってるんです?」
「え……」
「家族が亡くなったことも知らなかったんですよね? 他には? この春に最上さんを線路に突き落としたことは? 先月タイヤをパンクさせたことは? 知ってますか?」
「それは……きっと知人の方に脅されて」
「それは誰ですか? どこの組です? 警察には相談したんですか? あなたはその人と話したことがあるんですか?」
「……いえ。でも警察に話したら殺されると」
「普通に考えて、素人の手に負える話じゃないでしょう? その知人が職場で関わった人間なら教育関係者ですよ? 小学校の教師や……校長先生かもしれません。そんな人が野放しになってたら第二、第三の被害者が出るんじゃないですか? もう一色さんだけの問題じゃありません」
「でも……でもわたしには……一色さんの命のほうが大事なんです。ほんとうに申し訳ないけれど」
「じゃあもしその被害者が児童だったら? メグミちゃんみたいな子どもだったらどうします? 見殺しにするんですか?」
女の瞳孔が大きくなる。迷いも……大きくなっている。
「一色の話が本当なら警察に話すべきだ。大きな事件です。こんな方法で解決できることじゃない……まあ正直、俺にはほんとだとは思えませんけど」
「一色さんは嘘なんてっ……!」
「噓ですよ……少なくとも、メグミちゃんの面倒を見るっていうのは嘘です」
「そんなでたらめを……」
「一色は関わった人間の身内が亡くなったら、いつもその人間から離れています」
口に出して史狼はふと気づく。
身内。
そういえば、そうだ。
あの女子生徒は遠戚を、保護者は夫を、教授は妻を、一色の母親は夫と娘を、みんな自分の身内を亡くしている。身内という関係性が、一色の犯行のトリガーなのかもしれない。
「予備校の女子生徒とは一度も面会してません。保護者とも教授とも一度も会ってませんし、実家にもこの二年帰ってません。それが一色の流儀なんでしょう。だからあなたが捕まったら、二度とあなたともメグミちゃんとも関わりませんよ」
「まさか……後見人か、できれば養子にしたいとまで言ってくれたんです」
「養子……ああ、そうだな。たしかに一色にとって好都合かもしれませんね」
皮肉めいた史狼の声に、女の眉根がきゅっと縮まる。
「どういう意味ですか?」
「最初からそれが目的なのかもしれませんよ。あなたが捕まれば、メグミちゃんと二人きりで暮らせますから」
「それはどういう……」
「一色の妹さんは十三歳で亡くなってます。保護者の娘さんは当時十二歳でした。一色さんは子どもが大好きだって言ってました。無邪気で可愛らしいって……みんなただの断片的な事実です。推測しかできません。一色さんはただの子ども好きなのかもしれない。でももしそうじゃなかったら……あなたが捕まれば、メグミちゃんを助けられる人は誰もいないと思いませんか?」
「それって……まさか」
「分かりません。一色が性犯罪者なのかどうか、俺には判断がつかない。でも最上さんは保留にしてます。絶対にシロとは言えません。それともいざとなったら、別れた旦那さんが助けてくれますか?」
「まさか! あいつはメグミを殴って…………嘘でしょう…………一色さんが……嘘」
嵐だ。
胸のなかに疑念の嵐が巻き起こる。
もう少し。
あとひと押しで。
「だめだと分かってるのに……あなたは知らずに、似たタイプの男に惹かれてしまったんじゃないですか?」
「そんなこと……」
「俺の母はそうでした。男にきれいだって言われることで、自分の価値を確かめるような人間で……俺の父も一目ぼれで結婚したけど、だんだん母の依存的な性格が嫌になって、浮気して俺と母を捨てました。その後も母は男に依存しては振られて……いつも叔父が間に入ってくれました。あなたも無意識に、そういうことをしてるんじゃないですか?」
女は足を引き寄せ、右手で膝を抱きかかえた。
こと、と膝の間に顔をうずめる。
「……………………嘘でしょ」
恥だ。
急速に広まっていく。信じたいという心が恥ずかしさにみるみる侵食されていく。
「……………………前の旦那、嘘が上手かったの。すっごく……上手かったの」
絶望が胸を侵食していく。真っ黒だ。苦しい。
輝いていたガラスの城が、ただの砂であったような。
そんな…………絶望感。
史狼は握られた手に力をこめる。
説得はしても、この女の希望を打ち砕きたかったわけではない。
「あなたはいい母親ですよ」
「…………嘘。全然そんなこと」
「俺の母とは違う。メグミちゃんのために前の旦那さんと別れたんでしょう? 自分が捕まって会えなくなっても、メグミちゃんの幸せを願ってるんでしょう?」
「……たった一人の娘だもの。幸せになってほしいのは当然じゃない」
「どうしますか? もし一色がメグミちゃんを狙っていたら」
すがるような双眸が向けられる。
史狼は思わず笑みをこぼした。
「なんで……笑うのよ。わたしが可笑しい?」
「俺もあなたみたいな母親が良かったな、って」
「皮肉なんか言われなくたって分かってっ……」
「皮肉じゃない。ほんとうです」
触れている手は温かい。
母親と手を繋いだことはあっただろうか。
史狼は記憶を探りかけ、すぐに止める。考えたところで意味がないし、今はそんな余裕もない。
「あなたは初めから迷ってた。俺を誘拐するのも、殺すのも、メグミちゃんを残して捕まるのも、あなたはずっと迷ってたでしょう? 優しいんです。あなたは優しい人間で、いい母親だ。あなたが俺の母親だったら……産まなきゃよかったなんて、きっと言ったりしないんでしょうね」
目が合った。
優しくてまるい。
どうしてこの目を母親と似てると思ったのか。
まるで違うじゃ……
視界が急に明るくなる。
史狼はまぶしくて瞬きした。
女の右手が史狼の前髪をかき上げている。
じっと顔をのぞきこまれる。
「あのね、子育てって…………幸せだけど、すごく辛いの」
突然の言葉に、史狼はただその目を見つめた。
「助けてくれる旦那もいるけど、旦那がいても一人ぼっちな人もいるの。家に大人が二人いるのに、一人よりもっと一人なの。子どもが可愛いくても、どんなに可愛くても、この家にわたししか大人はいないんだって思ったら……叫びたくなる時があるの」
史狼はただうなずいた。
「思ってもないことを言いたくなるの。ひどい時は手も上げそうになるの。だめだだめ、これじゃあ旦那と一緒だって、自己嫌悪で真っ暗になるのよ…………あなたのお母様も、きっとそういう時が何度もあったと思う」
「……だけど酷いじゃないですか。それでも言っていいことと悪いことがあるでしょう? 辛いからって何を言っても許されるってわけじゃないでしょう?」
「そう。だから……お母様もきっと後悔してると思うの」
「後悔なんて……あの人は自分が一番大事なんだから」
「そんなことないです」
女はふわりと微笑んだ。
「母親はみんなお腹のなかで、九ヶ月以上赤ちゃんと一緒にいるの。そうやって大切に育てた子どもが大事じゃないわけないです」
史狼は唇を上げた。
…………この女は嘘をついている。
彼女は知っている。
世の中にはほんとうに自分の子どものことを、どうでもいいと思う人間もいるってことを。看護師として働くなかで、いろんな家族を見てきたのかもしれない。
だけど…………優しい嘘だった。
史狼のための嘘だった。
「……ほら、やっぱりそうだ」
「え……?」
女のなかにもう殺意はない。
胸に湧き上がるのは、この……。
左耳のインカムから、最上と宮川の会話が聞こえてくる。
八王子西インター付近で一色のバイクに追い抜かれたらしい。
時刻は午前九時二十分。
あと十分もすれば一色がやってくるだろう。
今だけだ。
今だけ、この……。
悲しくて温かな同情を、優しい嘘を、感じていたかった。