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5-5 梅雨の名残のようだ

「……悪いね、狭くて」

「いえ、大丈夫です!」


 最上はルームミラーを一瞥した。誰もいない後部座席が映っている。その下部は黒いシートで覆われ、一見フロアカーペットの一部に見える。わずかに黒い波が立つ。宮川がシートの下で身じろぎしたのだ。


 車は警視庁を出て首都高速を走っている。午前九時。兼森は今頃、東名高速に乗っているはずだ――目的地は仙台である。

 ドアミラーを見ると、二台後ろでバイクが走っている。警視庁を出てからずっと一定の距離で付いてきている。車種には見覚えがあった――マンションの駐車場にいつも停められているホンダのレブルだ。


「一色さんが?」

「ああ、後ろにいる」

「このまま泳がせるんですね?」

「そう。目的地は同じだからね」


 彼一人が現場に向かっていると、一色は思っているはずだ。警察官が待機していることも、史狼が女の説得にあたっていることも、おそらく知らない。あとは史狼に賭けてみるだけだ。もしそれが失敗に終わったら――そのときは。


 左耳に響く声は、ぽつり、ぽつりと雨垂れに似て、まるで梅雨の名残のようだった。



「あなたは一色と付き合ってるんですか?」

「まさか! 違いますよ」


 女は困惑した表情で首をふった。


「一色さんとは入院中に親しくなったんです。とても楽しい方で……わたしたち看護師のことまで気遣ってくれて、優しくて格好よくて、たしかに……素敵だなとは思っていました。だけど一色さんは、誰ともお付き合いされない方なので」

「へえ、なんでですか?」

「……命を狙われているそうなんです」


 史狼は眉を跳ね上げた。そんな話は聞いていない。しかしこの女も嘘はついていない。握った右手に自然と力がこもる。


「どういうことですか?」

「一色さん、もともと地元の仙台で教師をされていたんです。だけどそこで関わった方が……裏で暴力団と繋がりがあるのを偶然知ってしまって、バラしたら海に沈めるぞって脅されているそうなんです」

「それで誰とも付き合わないって?」

「はい。縁を切ろうと地元を離れて東京に出てきて……でも切れなくて。誰にも迷惑を掛けないように親しい友人は作らないんです、って淋しそうに笑って言うんです。わたし、その笑顔がもう……とてもいたわしくて堪らなくて」


 女は睫毛を震わせた。ほんとに? 一色は誰かに脅迫されていたのか?

 いや、と史狼ははたと気づく。

 …………嘘だ。

 誰かに脅迫されて嫌々やったことなら、あんなふうに殺人を喜ぶはずがない。

 史狼は横目で女を見やった。


「だから俺のことを轢き殺そうと?」

「すみません。殺すつもりはなかったんです。一色さんを脅迫している知人の方が、最上さんを疎ましく思っているそうなんです。最上さんも仙台のご出身なんですよね? それで顔見知りなようで……同居人の大上さんを脅すように命じられたんです、一色さん。でも自分にはとてもできない、誤って轢き殺すかもしれない、いっそ自分が殺されたらいいのにって……わたし、見ていられなくて。代わりにわたしがやると言いました。大上さんには……ほんとうにすみませんでした」

「いいですよ、別に。こうして実際に殺されるのに比べたら、全然大したことない」


 女がしゅんと項垂れる。まるで叱られた子どものようだ。これぐらいの皮肉は構わないだろう。現実に自分は誘拐され、殺されようとしているのだから。巧妙だな、と史狼は他人事のように感心する。一色の嘘は本当のことも交ぜてあるのだ。教師として関わった相手は、おそらく最上の伯父だろう。伯父が最上の命を狙っているのも本当だ。伯父と暴力団との繋がりと、一色と伯父との関係性と、その真偽は分からないが。


「それでこんなことを?」

「はい。こうしなければ一色さんが殺されるんです。でもこれで最後だって、今度こそ手が切れるって話してました。あなたにも最上さんにも何の恨みもないけれど……ごめんなさい。わたしにはあの人の命のほうが大事なの」

「最上さんはともかく、もし俺が殺されたら事件になりますよ? あなたも一色も捕まるでしょう?」

「いえ。一色さんは捕まりません。あなたは以前、彼のことを犯人扱いしましたよね? それからも彼に失礼な態度を取り続けました。そんなあなたに一方的に悪意を募らせて、わたしは独断で犯行に及んだんです……彼を愛していたので」

「それが筋書きですか?」

「はい」

「殺人罪ですよ? ほんとにあなたは……」



 カタ。

 遠慮がちな音が鳴る。

 史狼は正面をむいた。つられて女も首をまわす。

 引き戸の隙間から女の子がのぞいている。

 年齢は七、八歳ぐらい。髪をポニーテールにまとめて快活そうな印象だ。



「おかーさん、あのね……」

「メグミ?! なんでまだ家にいるの、学校は?!」

「あの……ねえ、そのおにーちゃん、誰?」


 人懐こそうな目が、じっと史狼を見つめている。史狼は唇を上げてみた。女の子がにっと笑みをひろげる。

 女が慌てた様子で駆けていく。


「メグミ! 遅刻するでしょう! ほら、もう行きなさい!」

「おかあさん、なんでそんな怒ってるの? ねえ、あのおにいちゃん……」

 史狼をちらと振りかえり、女は娘の髪を撫でつけた。

「ごめんね、お母さん怒ってないから。あのお兄さんは……悪い人なの」

「わるいひと?」

「そう……一色のおじちゃんに意地悪するの」

「おじちゃんに?! だめだね! わるいひとだ!」

「そう。だからお母さんが叱ってるの。ねえ、メグミ。このことは誰にも言っちゃだめよ。じゃないと一色のおじちゃんと二度と会えなくなるから……ね? お母さんと約束できる?」

「うん! できるよ! メグ誰にも言わない‼」

「いい子ね。ほら、もう学校に行きなさい」

「はあい……」


 女の子は史狼と目が合うと、べっと舌を出した。

 カタン!

 勢いよく引き戸が閉まった。



「メグミちゃんって言うんですか? 可愛い娘さんですね」

「ありがとう。前の旦那は最低だったけどあの子はほんとに可愛いの。ふふ、親バカだって分かってるけど」

「いえ。離婚されたんですか?」

「ええ、去年。あの子が六歳のときに」

「うちと同じですね」


 女が驚いたように顔をむけた。


「同じって……あなたのご両親も?」

「俺が六歳のときに離婚しました。うちも母子家庭なんです……あ、もしかして再婚されてますか?」

「ううん、まだ全然そんな気になれなくて。お母様は? 再婚を?」

「いえ、うちもずっと一人です。メンタルが弱ってるんで、下手な男と付き合ったらまた依存するだろうし」

「そう……お母様、苦労されたんですね」

「はは、そうですね。俺を産まなきゃよかったのにって思います」

「まさか! そんなこと! きっとあなたがいるから頑張れるんですよ」

「でも俺もうすぐ死ぬんですよね?」

「…………ごめんなさい」


 女は畳を見つめた。視線の先に花模様のバッグがある。ファンシーな可愛らしさとこの状況とが、シュールな悪夢のようで滑稽だった。


「いいと思いますよ? 母は喜ぶと思います。俺がいなくなったらほっとするんじゃないかな」

「そんなっ……‼ すみません、わたしが言えた義理じゃないですが……でもそんなことないです、きっと」

「そうですか? 俺、産まなきゃよかったって言われたんです、母に。俺が死んだら願ったり叶ったりでしょ?」


 女は口を噤んで、じっと史狼をのぞきこんだ。

 悲しみだ。

 今、彼女の最も強い感情は悲しみだ。

 でも……どこか温かい。

 史狼は目を細くした。

 そうか。これは同情だ。

 悲しくて温かな……俺に対する同情だ。


「…………優しいんですね」

「……え?」

「そんなに優しいのに、俺を殺そうとしてるんですね」

「あ……っ!」

「ああでもそうか。優しいから、すべて犠牲にして一色さんを助けようとしてるのか」

「…………っ‼」


 女は歯のすき間から息を漏らした。


 すごいな、と史狼はまた感心する。恋愛で依存させるだけではなく、一色は相手の性格のもろい部分を突いてくるのだ。彼女は恋心だけではなく、一色への庇護欲や正義感からも突き動かされているのだろう。


 さて、それならどこから突き崩そうか。

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